徒然物語39 あるご婦人
春というのに、やけに湿度が高く、重苦しい昼下がりのことだった。
雨上がりのアスファルトの臭いで、湿っぽさが幾分増した気になる。
そんな、駅前のロータリー。
向かいから歩いてくる老夫婦に、ふと目が留まる。
あれ、あの奥さんどこかで会ったような…
整ったショーカットに、飾り気のない落ち着いた身なり。日傘とブランドバッグを掲げたその姿は、気品のあるご婦人そのものだった。
旦那さんとにこやかに何か話している。
夫人は私など気にも留めずに、すたすたと向かってくる。
ただ、旦那さんのほうが私の視線を気にしてか、こちらに顔を向けてきた。
しまった。見すぎたか。
旦那さんと目が合い、慌てて視線を落としたまま、足早にすれ違う。
あの人は誰だっけ?
記憶を少したどってみたが、答えは出てこない。
しかし、改札を抜けるころには、ご婦人のことなど記憶の隅に追いやられ、次の取引先との打ち合わせで頭はいっぱいになっていた。
その夜。
布団に入り、寝るばかりの状態になった時、不意にご婦人のことが浮かんだ。
誰だろう…やっぱり思い出せない。
旦那さんのほうは会った記憶はない。
ご婦人だけに会ったことがあるなら、きっとどこかの事務員さんなのではないか。
今まで担当した取引先の事務所を思い浮かべてみる。
あの自動車屋は…違うな。あの木材店も…うーん、違う人だったなあ…
もしかして、あの鉄骨屋か?
事務員さんの顔が思い浮かばないけど、そこのソファでお茶を出してもらったような…?
自分でもどうにも判然としないが、そこに違いないと結論付け、瞼を閉じた、その時だった。
違う。
ふとした瞬間に、記憶が鮮明に蘇る気分を味わっていた。
まるで視界を覆っていた深い霧が、一気に晴れていくようだった。
そうだ。鉄骨屋じゃなくて、その隣にあった土建屋だ。
思えば伺う度に、コーヒーをご馳走になっていたっけ。
もう5年位前かな?あの頃と何も変わらない、素敵な笑顔だったなあ…
すっかり満足した。
これで気分よく眠れそうだ。
…いや、待て…
男の脳裏にロータリーの記憶がよみがえる。
ご婦人があの土建屋の人なら、事務員さんじゃない。
あの人は、社長の奥さんのはずだ。
だけど、あの時横にいた男は、間違いなく社長ではない。
個性的な顔だったから、社長に会えば、真っ先に思い出したはずだ。
じゃあ、あの隣にいて、おれをじろじろ見ていたあの男は一体誰なんだ…?
あの距離感からは、親密さが滲み出ていた…
背筋に寒気が走る。
これ以上は考えないでおこう。
おれは布団をかぶり、瞼を閉じた。
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