ダンディズム・ノート 2 ~生田耕作『ダンディズム 栄光と悲惨』~
前回、『ダンディズム 栄光と悲惨』の目次は以下のようになっていると言った。
この順番で読んでいってもいいけれども、俺はまず③を読むことをお勧めしたい。というのも、③は、何も書き残すことなかったブランメルが、これほどまでに後世に名を残している理由を記しているからだ。
つまり、ブランメルをほめたたえた人々の言論について、書かれている。ジュール・バルベー=ドールヴィイは、ブランメルの伝記を書いたうちの一人だ。また、スタンダール、バルザック、ミュッセ、メリメ、ゴーティエ、ボードレールなども、言葉の端々に憧憬を表現していたと述べている。
ただ、ボー・ブランメルを中心とするダンディたちは、文学者に対する嫌悪を隠そうともしなかった。スタール夫人などは、てひどくはねつけられたらしい。バイロンはそうでもなかったようだけど、知らんがな。
それでも文学者たちのダンディ崇拝は、「ダンディズム」という理想的自我の理念を生み出す。いわく「非生産的自我の高揚」「冷たい不毛の尊厳のなかに安住すること」。
ここから生田は「ダンディズム」の本質規定を行う。だから、ここから始めるとよいと思うのだ。
ブランメルは価値転倒者である。内面よりも外見、道徳よりも道徳の演技、無価値の価値。
バルザックが、ブランメルから聞いた話を敷衍した衣装哲学の一つ。
そこから、次にいく。
次は、⑥を読むといい。これは目次には出ていないが、サブタイトルに「バルベー讃」と書かれている。
つまり、ジュール・バルベー=ドールヴィイの最期の姿が書かれている。1888年になってまで、ダンディズムの衣裳に身を包んだ、最後のロマン主義者の姿を。
滑稽である。実に滑稽である。俺は、滑稽だと思った。真剣であればあるほど滑稽で、自身もその滑稽さに気づいていたともいえる。
シャネルが言ったのか、サンローランが言ったのか、もう正直どっちでもいいけど、「スタイルが必要です」という言葉は、こうしたブランメルやバルベードールヴィイの姿から、時代や流行が変わっても自身のスタイルに固執し続ける姿から、抽出されたものだろう。
日本人だと、永井荷風が、それにあたる。『新橋夜話』の「見果てぬ夢」などは、「ダンディズム」の日本への紹介だし、事実荷風も「明治の児」としての矜持を夢見たまま死んだ。
近代という変転することを是とした社会の中で、変わらないということを是とすること。多数決で美観までもが決定される社会の中で、自分のスタイルに固執すること。
『ダンディズム 栄光と悲惨』の③と⑥を読むと、こうした「ダンディズム」の内容がわかる。
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