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感情・あらすじ・コーヒーハウス 〜村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』4〜

仕事が忙しくなってくると、なかなかスキマに本を読む、感想を考える、書くという作業がしにくくなる。本を読むは、できないことはないが、読んだだけになって、感想を言葉にする作業が出来なくなる。

感情と言葉はどういう順序で生まれてくるのだろうか?

作品を読み、感情が芽生え、それを認識して、言葉に置き換えていく、という順序がまず考えられる。

しかし、私の経験では、感情はそれを言葉にする過程で、認識されていく気がしてならない。

つまり、

読む→感情→認識→筆記

ではなく

読む→筆記/感情→認識

のように感じている。

「書かないと認識できない」のだ。

これはもちろん異論はあるし、微細な順序の違いに過ぎないのかもしれない。

『ダンス・ダンス・ダンス』冒頭部は冗長だ。

書くことを巡って書かれているようにも見える。

すなわち、すでに書かなければならないこと、書きたいことがあって、それをなぞっているのではなく、デッサンのように、鉛筆を動かしながら、何がそこに出てくるのかを、確かめるように書いているように見える。

「いるかホテル」の夢を見て、彼女に去られた理由を探しに、「いるかホテル」へ向かう。わかりやすさという観点からすると、それだけでいい。あとは心理描写があればいいが、この作品で心理描写は、行為の連鎖を簡潔に、そして細部にわたって綿密に書くことでなされている。

第4章では、取材のために北海道を訪れつつ、時間の合間を見つけて「いるかホテル」に電話してみると、記憶の中のそれと似つかわしくない若い女子が、応対する。どうしちゃったんだ、と自分の記憶のあやふやさを疑い、翻って、自分のいる世界のあやふやさを感ずる。

自己と環境の二つのあやふやさの間でかろうじて成立している「僕」がいることを理解する章が、この第4章ではないだろうか。

『ダンス・ダンス・ダンス』の各章について、コメントをしていくなんて、それこそ冗長だ。

第4章なんて読み飛ばしてしまってもいい。実際、若い時なら読み飛ばしていただろう。あ、昔の「いるかホテル」とは違いそうね、なんつって。

「僕」は取材先の函館から札幌に向かい、「コーヒー・ハウス」に入る。今なら「カフェ」といったり「喫茶店」といったりするだろう。この「コーヒー・ハウス」が、少し気になった。

イギリスでは、17-18世紀に、商人たちの情報交換所として「コーヒー・ハウス」が流行した。コーヒーは、当時の植民地地域の産物として認識されていた黒い液体軽い麻薬のような昂進的作用もある。エキゾチックな雰囲気に酔いつつ、渡航や商売に関する情報を交換し合う場としての「コーヒー・ハウス」。

小林章夫氏の『コーヒー・ハウス』で、昔、知ったことだ。

講談社学術文庫

イギリスというと、そうしたエキゾチックな飲み物として紅茶があるので、その競合過程なんかに興味があった。

ちょうど2000年くらいに、日本でもカフェブームがあった。バブルの時のカフェバーが廃れ、スタバが進出して来、90年代末期に爆発的に増えていった。かなり濃くて苦味とコクのあるコーヒーの印象だった。

しかし、一方で、そうしたグローバル展開の事業に対しての反発から、こじんまりしたところでやっているカフェや、ロータスを代表としたカフェダイナーのようなオシャレな店舗が、原宿や表参道あたりに増え、私も後塵を拝した。そこからサードウェーブ系の隆盛までは、すでに長い歴史になりつつある。

1999年ごろから2000年にかけてのカフェブーム。私は川口葉子さんという方のブログ「東京カフェ案内」を見ながら、探訪することが多かった。まだブログが一般的であるとは言い難かった時代。「さるさるブログ」とか、今もサービスを続けているのかしら。

と、思い出話の迷宮に入りかかり、カフェブームの思い出に関しては、またどこかで書くとして、『ダンス・ダンス・ダンス』における「コーヒー・ハウス」は、「喫茶店」や「純喫茶」という名称を避けて記載されたものなのだろうか。単に、英米系の表記で、表面を整えただけなのだろうか、といろいろと考えたが、結論はでなかった。

第4章は、ジャック・ロンドンとコーヒー・ハウスに気をとられただけに終わった。

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