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餃子から、親の呪いについて考える

餃子、と聞いて私が思い出すのは、親の言葉って、無意識に子供を縛っているのではないか、悪気はなくても呪いになっているのではないか、ということだ。

私は餃子が好きだ。冷凍餃子を家で焼いても、惣菜としてスーパーで買っても、中華料理屋で頼んでも、まず大きく外れるということはなく、安定しておいしい。
でも、私は長い間餃子を食べることに罪悪感を抱いていた。お菓子をごはん代わりに食べているような後ろめたさ。
なので、大人になってから同僚と餃子を食べていて、同僚が「餃子は完全栄養食品だから」と言っているのを聞いてひっくり返りそうになった。同僚曰く、「だって肉入ってて、キャベツ入ってるから野菜もとれて、皮は炭水化物でしょう?」と。
まあそれで完全栄養食品と言っていいのかは疑問が残るが、確かにまったくのお菓子、ジャンクフードというわけではないか、と納得した。
では、どうして私は餃子に後ろめたさを抱いていたのか、と考えると、幼いころ、親が餃子を食べるたびに「おいしいけどね、なんにも栄養ないのよね~」と言っていたからではないかと思い当たった。

そして次々に思い返されるのは、私は大人になってからも、親のふとした発言に縛られてきたということ。「昔はベビーカーで電車に乗っちゃいけなかったけど、今はいいわね」「旦那さんが家事も育児もしてくれて、感謝しないといけないよ」「悪阻で休ませてくれるなんて、そんな職場なかなかないよ」
一応言っておくと、私の親は毒親というわけではない。私の教育にお金をかけてくれたし、結婚を喜んでくれたし、孫をかわいがってくれる。
悪気があって言っているわけではないことも分かっている。正直、思ったことを言っただけで深い意味はないのだろう。餃子に栄養がない、という発言と一緒。そう言いながら食べていたわけだし、餃子を食べる人を責めているわけではないのだろう。
けれども、私は餃子を食べることに罪悪感をもつようになった。
ベビーカーで電車に乗るのは、エレベーターを探したり、ホームと電車の距離が遠いと持ち上げないといけないから大変だけど、乗れるだけでもありがたいから、そんな文句言っちゃいけないと思うようになった。
私も夫もフルタイムで働いているから、家事や育児を分担することは当然を思っていたけど、そうではなくありがたいことなのだと思うようになった。
悪阻でつらくて、職場で謝ってばかりで、せめて家族からは「たいへんだね、つらいね」と言ってほしかったけど、仕事を休めるだけで感謝しないといけないのだと思うようになった。
親はそんなつもりではなかっただろうけど、それは私にとって呪いの言葉だった。
でも、同僚の言葉で、「餃子は栄養がない」呪いから解けたように、これからは私は自分で呪いを解いていく。
ベビーカーで電車移動するのは大変だ、と思っていい。
夫と家事育児を分担してもいい。感謝の気持ちは悪いものではないけど、それはお互いに持つべき気持ち。
悪阻がつらいときは、もちろん職場に連絡は必要だけど、仕事を休んで体調第一優先でいい。休むことに過剰な罪悪感を抱かなくていい。
そう思えるようになった。
これからも、自分の気持ちを大切にしていきたい。そして、自分は子供に無意識の呪いをかけないように、気をつけていきたいと思う。


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