見出し画像

【LCT】序章②:Great cause:LCTが皆の役に立つと考える理由

前回は序章①として「僕がLCTを必要と感じた理由」を、ただひたすらに伝えた。
あれは、僕のストーリー。
そして、序章②でやりたいことは、それとはまったく性質を異にしたものだ。
プロダクトアウトとマーケットイン、という言葉をご存じだろうか。

✅ プロダクトアウトとマーケットイン
・「プロダクトアウト」と「マーケットイン」は、製品開発の方向性に大きな違いがある。
・プロダクトアウト:自社の強みとなる技術や企業方針を基準として、サービスや製品を開発すること。
・マーケットイン:市場調査結果をもとに顧客ニーズを把握し、「顧客が求めるもの」を優先して製品を開発すること。

🌍 参考サイト >>> site.

前回やってきたことは、プロダクトアウトだ。
そして今回やりたいことは、マーケットインだ。
すなわち、「皆のストーリーにとってもLCTは大事だよね」ということを共有したい。
桃太郎だって、ただ話が面白いから流布されてきたわけじゃない。
「仲間で力を合わせて、困難に立ち向かうことを学べます」
「仲間になってもらうには、報酬(キビ団子)が必要であることを知れます」
「悪いことをしていると、退治されてしまう道徳観を獲得できます」

このように、なぜ桃太郎を読んだ方がいいのか、がなんとなく理解されているから、広まってきた。
今回は、LCTがみんなの役に立つ理由を、考えていきたい。

● 新人や初学者に歩きやすい道をつくるから

新人のときには、とにかく不安がつきまとう。
大海原に、イカダだけで浮いていて、陸はどこにも見えないような感覚。
何から、何をやればいいのか、まったく分からない。
そこで浮かんでくるのが、画像で示したような幾つかの悩みだ。
考える、ってどういうこと?
誰も、その定義を教えてくれなかった。
ただ、考えろ、考えろ…。
なにを?どうやって?正解がわからない。
LCTは、まさにこれらの悩みを解消することに役立つだろう。
LCTの主題とは詰まるところ、『考えながら臨床をするってどういうこと?』という疑問に、いくつかの明確な答えを与えようとする試みだから。
暗く深いジャングルに、道をつくるつもりだ。
大海原に浮かぶ君(& 僕)に、灯台を示したいと思っている。

● 冷淡なエビデンス野郎が臨床に近づくから

「エビデンス野郎」って、良いネーミングだ。
もちろん、僕がつくった造語ではない。
起源は分からないが、Twitterで見かけた。
「患者を見ようとしないエビデンス野郎は、軽蔑するぜ」的な感じだったと思う。
確かに、エビデンス野郎はいると思う。
彼らには、以下のような特徴がある。

・好きなセリフ「証拠はなんですか?」「エビデンスはありますか?」
・機械的で冷たい、そう見えてしまう人柄
・決まりきったことをいう

ぼくも、片足をそこに踏み入れている人間の一人だと自負している。
若手でこういう傾向をもった人間は、先輩から「勉強もいいけど、もっと患者をみたら」といわれることがあるかも知れない。
さらに、臨床を研究のごとく、論理的に考えようとするが、臨床という“生もの”には不整合なことが多すぎて、そこに悩んでしまうこともあるだろう。
論理的思考というのは、思考ツールなので、どうしても現実そのものを離れやすい。
というか、現実そのものを一旦離れてしか、存在できない。
光の中に闇が共存しえないような感じで(逆もまた真なり)。
だからこそ、その限界を理解し、意識的に臨床現場からの情報を得ることと、得た情報を論理的思考で処理する、ということの両刀を持たなければならない。
「いや、そんな難しそうなこと。どうやって、そんなことが可能になるのか・・・、無理。」
・・・、安心して下さい。
それこそが、LCTなのだよ。
LCTは、単なる論理的思考ではなく、『臨床現場に生かす』論理的思考だ。
水と油の如く、分離しやすい臨床現場と論理的思考というものを、フュージョンさせ、力を生み出したいと思っている。
そのとき、エビデンス野郎は、臨床で力を発揮する学術的側面をもった超人になるだろう。

● 尖った臨床家の裾野を広げるから

エビデンス野郎には困ったものだ。
だが、そういう人たちだって、案外逆の方向に困った人かも知れない。
そう、『職人(尖った臨床家)』だ。
職人には、以下のような特徴がある。

・好きなセリフ「全力で患者に向かえよ」「勉強が苦手でさ」「文字から何が分かるんだよ」「患者を見ろ」
・人間的で、感情的で、血の通った温かい人柄
・傾倒している手技以外に、選択肢がないことがある

このタイプは、徒手療法、PNF、ボバースなど、特定の手技に傾倒しているセラピストに多い気がしている。
確かに、治療技術の手札は多く、技術的な臨床指導は得意だ。
だが、その背後に、万人が納得できる思考過程が存在しないことがある。
これは、ぼくは新人時代から、指導を受ける中でチラホラ感じてきたことだ。
「なぜ、この患者さんに対して、その手技がよいのですか?効果的なのですか?」という質問に対して、
「良くなったから、良いんだよ」
「俺はこう思うから(納得しにくい)」
「どうしてだと思う?(本人は知らないっぽい)」
etc...。
This is 職人的臨床家。
その最大の問題点は、人に受け継がれない、共有できないことだ。
仕組み(設計図)が分からないものを、後世の人々がつくり出すことはできない。
さらに、仕組みのBlackboxが存在することで、なにを言ったかよりも、誰が言ったかで正解が決まる
「俺は白だと思う!」と上司に言われれば、黒いものでも白くなる。
LCTは、ここにメスを入れる。
職人的説明を是とせず、臨床から得た情報が、論理的な思考過程で処理され、納得のいく結論や判断につながっていること(LCT)を是とする。
明確にそのプロセスが示され、周知されれば、職人的思考は喫煙者が自然に減ってきているようになりをひそめ、「思考プロセスを共有できる論理的な職人」という超人に近づくことだろう。

ここまでの3タイプとロジクリ思考を持つセラピスト(LCT therapist)を臨床レベル、論理レベルによって4章限に分けて図示しておく。

● 時代が来たから①:医療者主導型→患者主導型の医療へ

ひと昔前までの医療は、まさに『医療者主導型』だった。
その世界では、正解を知っているのは医療者だけで、患者はそれを施されるという立場だった。
そこに、選択肢は少ない。
いまでも、病院リハはその色がやや濃い印象だ。
だが昨今、患者中心の医療(Patient-centered medicine)が叫ばれ、医療の主人公は患者自身である、という風潮が強まっている。
Pluutは、この医療者と患者をめぐる両極のアプローチを『医療者主導型 (clinician-led)』アプローチ、『患者主導型(patient-led)』アプローチと呼んでいる(📕Pluut, 2016 >>> doi.)。
時代は、医療者主導型→患者主導型へ移りつつある。
食事を他人が選ぶはずがないのと同じように、医療だって患者自身が選ぶ、というわけだ。

そして、この問題がテーブルに乗せられたのは、ただ権力の重心位置の問題からだけではない。
患者の玄人化、がある。
インターネットの普及、スマホによる検索の簡易化、一般人が入手できる情報の高度化などによって、勤勉な患者はその疾患や病態の知見において、ときに医療者を凌ぐことすらある。
つまり、時代の進歩は、正解の所有者を医療者だけでなく、患者(一般市民)にまで拡大しつつある。

そのような状況の中で、『Shared-Dicision Making (SDM)』が重要視されている。
SDMとは、治療オプション、利益と害、患者の価値観、希望、 状況を踏まえ、臨床家と患者が一緒に健康に関わる意思決定に参加するプロセスと定義される(📕Hoffmann et al., 2014 >>> doi.)。
SDMに必須の4つの要素が提案されている。

■ SDMの必須4要素
• 少なくとも医療者と患者が関与する
• 両者が情報を共有する
• 両者が希望の治療について、合意を形成するステップをふむ
• 実施する治療についての合意に達する

📕Charles et al. Social science & medicine 44.5 (1997): 681-692. >>> doi.

注目すべきは、2番目の『両者が情報を共有する』である。
情報を共有するということは、「医療者の意思決定プロセスの全容を患者の目の前に明らかに示す」ことが要求されるということ。
そこでは、①意思決定プロセスがあること、②それが明確で論理的に整合性の取れたものであることが必要だ。
「そんなこと、僕にはできてないです。できる気もしないです・・・」
・・・、ですから、安心して下さい。
LCTでやりたいことは『臨床思考過程というBlackboxの見える化』である。
まさに、SDMのための営みといってもいい。
自分が何を考えているかを明らかに知り、それを言葉にし、相手に伝える。
洗練されたロジクリ思考をもつLCTセラピストは、いとも簡単にそれを成し遂げ、次世代に必要とされるセラピスト像に近づくことだろう。

● 時代が来たから②:「俺はこう思うから」が通じない世の中

教育のあり方も、変わってきている。
これまでの教育というのは、タコツボ型で行われてきた。
つまり、1つの指導者-非指導者のペアごとに、1つのタコツボの中で、独特の教育が行われてきた。
あるペアはボバースアプローチを指導され、あるペアはEBPTを一緒に学び、あるペアは指導者の強烈な哲学を一方的に叩き込まれた。
だが最近、1つ1つのタコツボの外壁が壊され、1つのものになりつつある。
誰が壊しつつあるか。
『標準化』の波が、だ。
以前、コンピテンシーベース教育(Competency-based education; CBE)についての文献抄読をした(🌱 >>> note.)。
CBEとはつまり、ある一人の人間が1mm前進したら、すぐその後に全員が1mm前進する標準化教育のことだ。
たとえば、膝関節伸展の筋トレ介入のコツをセラピストAが発見、もしくは学習したとする。
CBEでは、その介入のコツを万人が納得でき、また真似できるように『方法や仕組みが明らかで合理的な介入』として全員に共有しようとする。
その世界において、これまで通じてきた上司-部下の「なっ。分かるやろ。(納得できる中身なし)」が通じなくなる。
なぜなら、その共有は上司-部下の1:1で行われるものではなく、個人と集団の間で行われるものになるからだ。
その世界においては、組織内の権力は無効となり、合理性/効果性/簡便性/納得感といった実利的な価値が優遇されるだろう。
つまり、シンプルに『実力』が問われる。
何の実力かと問われれば、自分自身の思考プロセスや根拠を論理的に相手に説明し、お互いが納得し、意思決定し、一緒に行動する教育者としての実力だ。

また、新世代のセラピストがもつパーソナリティも変わってきている。
ミレニアル世代(1981年~1996年)やZ世代(1996年~2015年)の注視すべき特徴として、以下のようなものがある。

✅ ミレニアル世代(1981年~1996年)Z世代(1996年~2015年)の特徴
・自分らしさを大切にする:「人と違って当たり前」と考え、自分らしくあることを大事にする
・承認欲求が強い:承認欲求が強く、他者からの評価に敏感
・ミレニアル世代はデジタルテクノロジーを駆使し、情報収集はインターネットが中心
・Z世代はSNSとの親和性が高く、TwitterやInstagram、TikTokなどのSNSを使いこなす

🌍 参考サイト >>> site., 📕Sarac et al. JBJS 104.4 (2022): e10. >>> doi.

このような教育の受け手に対して「なっ。分かるやろ。(納得できる中身なし)」といった場合、

・いや、あなたと僕は考え方が違うし。僕が納得できなければそれを選択することはない
・じゃ、ちょっと調べてみます(インターネット & SNS)→いまわかっている事実やトレンドとは違いますね

となってしまうだろう。
大事なことは、事実ベース、論理的ベースで、相手の納得が得られるかどうか、だ。
そして、相手が「確かにそうですね」と能動的に選択するような教育を提供できるか、だ。

このような教育を巡る時代背景の中、望ましい教育者になることはエベレスト登頂の如く、険しいものに見える。
その方法を、LCTで考えてゆきたいのだ。
もちろん、いきなり山頂にはいけないだろう。
だが、一歩ずつ近づくことはできる。
意志をもつ者なら、誰にだってできる。
これから登るべき山は、分かっているのだ。
だったら、その登山ルートや、脚力を鍛えておこうではないか。
LCTは、そのための地図やトレーニングジムとなるだろう。

さて、ここまでで、「僕がLCTを必要と感じた理由」「LCTが皆の役に立つと考える理由」をあらかた話し終えた。
桃太郎でいえば、鬼退治が必要な理由の共有、くらいまでは進んだろうと思う。
次回から、いよいよ本編に入る。
繰り返すが、登る山は、山頂が見えないほどには高い。
だが、それに登ろうとする覚悟を持つことが大切だ。
同じ一歩を刻むにしても、その一歩の方向性や質が変わってくるから。
ぼくは、この山を登る。
是非、一緒に登ってほしい。

富士山に登る第一歩。
三笠山に登る第一歩。
同じ一歩でも覚悟が違う。
目標がその日その日を支配する。

後藤静香

○●━━━━━━━━━━━・・・‥ ‥ ‥ ‥
目の前の臨床をActiveに!『LCT -ロジクリ思考-』
こちらから♪
↓↓↓

‥ ‥ ‥ ‥・・・━━━━━━━━━━━●○
#ロジカルシンキング #論理的思考 #クリニカルシンキング #臨床思考過程 #ロジクリ思考 #LCT #logical #clinical #thinking #理学療法 #リハビリ #リハビリテーション #統合と解釈