「空気を読む」というフェイク


ずっと「場の空気を読む」というテクニックが美化されてきた。
まぁこれ、言い方を悪く言えば「力学を読む」って意味だ。
単なる「中央値の最大勢力」に寄り添えという同調圧力の事だろう。
こんなモノはただの利己、

保身の「世渡りテクニック」だろう。


まずこの中央値の同調圧力と言うのは変化する。
愚者の中での中央値と賢者の中央値ではまるで違うと。
つまり状況次第で変わるのだ。
また、この中央値から観た場合、
下振れはともかく上振れまでも同じアイコンで定義される。

「空気が読めない奴だな」と。


例えば、ぺちゃくちゃと図々しく他人の仕事の邪魔をする奴と、
理不尽な上司に勇気を出して突き上げをする奴を同類と見なすのだ。

その両方が「その場の力学」に逆らってはいるモノの、
まるで性質が違うはずだ。
問題提起をして事を荒立てる事を「大人げない」という風潮、
この理屈なら、まぁ一生全ての問題なんて解決しないだろう。
何か敵を作る事を良しとしないマインドは社会を滅ぼすに違いない。

例えば論旨が飛躍するらしい「武田邦彦先生」なんかは、
おそらくこの人の中では飛躍するだけの紐づけがあるのだろうし、
中央値の人達がこの文脈を察せられればむしろ理解可能なんだろう。
風が吹いたら桶屋が儲かる例えの様に、
論理の紐づけなんてモノはいつだって大きな個人差があるのだ。
受け手の多数派に先生のこの文脈が理解できるかどうかという基準、
これを「空気が読めない」と言ってしまうからおかしいと。

中央値からの「上振れ」、つまり、
高度なウィット、場における何らかの機微を中央値が理解できないなら、
逆に多数派側の思慮が浅く空気を読めない場合でも、
中央値から外れた言動は「空気が読めない」事になる。
多数派の論理であり、力学であり、大衆煽動だ。

この同調圧力は捏造可能な理不尽である。


責任者不在の群集心理、改善されない主体の無い力学が常に正しい、
「大人の対応」なんて言えるのは、それこそ詭弁に過ぎない。
暗記教育による責任のたらいまわし、だから妙な事ばかり起こるのだ。
判断力の無い「レミングス」の様に、谷間へみんな落ちてゆく。
空気を読む事でデビルマンの生首を掲げた群衆になり得るのだ。
日本人だけマスクを外さないのはこの原理だろう。

大元の元凶は議論を「勝ち負け」というメンツの勝負にするからだ。
ただ、議論に「勝ち負け」という序列を紐づけなければいいのだ。
ランク変動とか四六時中意識するからおかしくなる。
各々が中央値のムードに逆らったとしても、正論であれば言うべきだ。
場の空気を読んでいたら一生何も変わらず、時代遅れになるだけだ。

そんな歪んだ常識も、前世代の「負の遺産」だろう。
空気を読むだけならただ単に思考停止、世渡り上手の利己テクニック、
誰かが意見を言っても、それをフラットに受け入れて行けばいいだけ。
自分の地位、プライドやメンツを潰されたと感じなければ上手く行くのだ。
こんなもの実際は「大人の対応」とは真逆、保身努力でありプライド、

つまりタダの「利己主義」だ。


こんな欺瞞をそろそろ捨てるべきだろう。
お隣韓国のロウソク革命、いくつかのクーデターや冤罪もこれだろう。
「空気を読んで」煽動された大衆の裏には黒幕がいる。
ロウソクなんてアイコンは心理ギミックの一つだろう。
またそれが傘だったりパネルだったりTシャツだったりするワケだ。
だからそろそろ、

空気を読むなんて方便に疑問を持つべきだ。


自分が正しいと思うなら多数派相手だろうが言えばいい。
どちらが間違っているかは議論しなけりゃわからない。
誰のどんな結論が出ても、論理があれば受け入れるだけの事。
都合よく「大人の対応」なんて嘘をつくんじゃないと。
むしろ「子供のイジメ」と本質は同じなのだ。
それが「空気を読む」という事だ。
思考停止の多数派が保身を辞めれば上手く行く。

正しいと思った事を主張して、自分が多数派になり替わればいい。
空気を読むとか保身のプライドを捨てればいい。
自分で判断し、各々のロジックで中央値を書き換えるという事だ。
それでようやく変えられる。

おしまい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?