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#9 アメリカ人夫との初デートとパラダイムシフト

結婚して17年、出会いから数えると彼と一緒にいる年月と出会う前が同じくらいになってきた。

今日も相変わらず、夫がじゃあ行ってくるとランニングに出掛ける先は森やビーチ。

気分転換も兼ねて体を動かす習慣は50歳を過ぎた今も継続中。

今日は鹿がすぐそこにいたとか、フクロウを見たとか、帰って来るとあれこれ出会った動物話。

前だったらその日のタイムや走り具合だったのに、年と共に変わるものだと気づくこの頃。

森いっぱいの日差し

1.まさかの自転車

初デートは1990年代後半の日本、彼が最初に住んでいたアパートから自転車で出発し、同じ市内にある小高い山までのサイクリングと思っていた。

ママチャリよりはスポーティだったが、基本的には舗装された道路を走る自転車。

2台あって小さい方はちょっと壊れてるけど大丈夫と言われた通り、乗り心地は悪くなかった。

それほど遠くない距離で疲れることもなく麓に到着。さあここから自転車を置いて歩くのかなと思いきや、前を行く彼は一向に止まろうとしない。

アスファルトから農道へ、さらには山道を細いタイヤでどんどん登って行く。  

え、まさかと思う先からもう息切れ。


   ちょっと待たんかい


どこまで行く気かと聞いたら山頂まで行くつもりだった。

初デートだしひ弱なやつだと思われたくないのでその場は笑って済ませたが、山腹にある畑を通り過ぎ、竹林を抜け勾配が上がってくるとさすがにきつい。

休憩を要求したら、当時の彼のつたない日本語で

  「我慢がないねぇ。」

と言われた。

   、、、、

これは語彙力がないからそんな言葉になるのか、それともとんでもなくタフな人なのかと、山道で自転車をフーフー漕ぎながら考えた。

私の英語は意味不明、出会った当時彼の日本語もイマイチで、お互いが何について喋っているのか話の途中でわからなくなることもあったがこれは違う。

笑顔だったけどたった一言私の忍耐力がないことを指摘している。

日本語のセンテンスとして間違いはないけど英語を直訳した雰囲気と、日本人ならこの場面で多分使わない表現。

   どういう心境…


付き合ったらこれから先どんなことになるのかちょっと気になった。

その後、山の中腹と思われる地点までなんとか到達したがもう限界。これ以上は無理な旨を伝えると快く下山を了解してくれホッとして向きを変える。

当時は私もスポーツをやっていて体力がない方ではなかったが、さすがに自転車で山頂まで行くというマインドセットはなかった。

出発前に彼はそう言っていたのかもしれないが、聞いていなかったか、お互いの言語力不足だったのか。

まあなにはともあれ下りは楽チン。お天気も良かったし登りに苦労した分、帰りはビュンビュン楽勝だと思ったのも束の間、ちょっとスピードが出たカーブで気がついた。


  ブレーキの効きが悪い


それから後は登りのヘトヘトとどっちがマシかわからないくらい必死のハンドルコントロールで転倒防止。


 そして彼は軽快に飛ばしてはるか前方


足をつけて減速したり自転車を引いて歩いたりしながら思った。

そういえば、出発する前にちょっと壊れているけど大丈夫とか言ってなかったか?


やっと麓で追いついた時彼に言った。


  ブレーキがあまり効かなかった


「そうそう、でも大丈夫だったでしょ!」


 初デートで結果オーライ…ですか?

野生のりんご

2.甘えという厄介もの

誰にも自分のペースというものがあって、例えば一緒に歩くと遅いけど、そのうち追いつくから先に行って適当な所で待っているというのは理にはかなっている。

それがハイキングではなく、なにかと一人置いてけぼりを食らっているような寂しさがアメリカに来てからの生活において多発するようになった。

精神的に自分はいつも自立しているつもりでいたけれど、その寂しさを作り出していた原因は言葉も違う新しい環境に来たという甘えの気持ちが根底にあったから。

経済力はともかく精神的に双方が自立していてこそ甘えも可愛くて有効になるが、普段が寄りかかり気味だとそれは厄介もの以外のなにものでもない。

逆の立場であればその負担がわかるというもの。

とは言えおんぶに抱っこの状態だったつもりはなく(だったかな?)、世の中にはなにがどうあれ優しい旦那さまもいらっしゃるらしいが、うちの場合彼は最初から額面通りだった。


   手取り足取りなどしない


そもそも初のデートのあのスタンスから彼はなにも変わっていないし、それはある意味誠実である。

   寂しいと言う前に気づけ

石の壁は開拓の跡

3.気持ちの損切り

もっと優しくしてくれたらとか、相手から自分の理想を引き出そうとするのは虚しさにさいなまれるだけということを、商売始めのドサクサの辺りから思い知ることになった。

そしてアメリカ生活の出だしはなんともお荷物な私が、亀の歩みで次第に自分の中にある甘えに折り合いをつけようと試みる。

理不尽だと思ったことでも敢えて見切りをつけた方が、結果的には双方へのダメージは少ない。

できることなら相手に気持ちを汲んで欲しいところだけど、その相手が変化してくれるまでにかかる時間は未知数でもある。


とすれば結局は自分かということになり、心の処し方をどうするかで長い年月を費やして精神的依存傾向から次第に脱却。

当初の甘えベースからパラダイムシフトをしてしまうと、状況は同じでも寂しさのないかつ心地よい距離感を持って楽に生活できるようになった。


そうして思うのは、私がああでもないこうでもないと一人右往左往している間、夫は初デートの時から一歩も動かず元の場所に立っていたということだ。


そしてもしこれが、彼が最初から描いていた理想のカップル像であったのなら、もうお見事としか言いようがない。

してやられた



出会った頃の彼は、25歳までもう十分生きたから残りは余生だとしゃらくさいことを言っていた。

そんな25そこそこで出がらしになっていた彼は、年の割に見かけが老けていると思ったらそんなことを考えていたせいかもしれないが、なにかいつ会っても私とは関係なく楽しそうな人だった。

とはいえ陽気で明るい西洋人男性ではなく、お寺で一人禅問答をしているような印象が断然強い彼ではあるが(どんな人…)、


未だに粗末な英語を喋り続け、成長のない私を損切りせずにいてくれるのはとてもありがたいことである。


  最後まで読んでいただき
    ありがとうございました

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