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人目が気になる(3月エッセイ⑤)

 オードリーの若林さんが以前番組で『自分の本棚を見られることは肛門を見られるくらい恥ずかしい』と言っていた。自分は最初ピンと来ていなかった。本を読んだら、その感想をすぐに人に話したくなる。ジャンルや内容に関係なく、読んで何かを得たと思ったら構わず共有してみたいと思う。

 SNS上で「私小説を書きだしたら小説家は終わり」という言葉を目にした。小説家が私生活を切り売りしたらダメ的な文章がその後に続いていた。続いてエッセイってこういうのはあるあるだよねという文脈で『私の中で何かが切れる音がした。』という表現が使われがちという投稿がバズっているのを見かけた。どちらも一目見て、特定のジャンルに対する偏見であるように感じた。特に後者は、今まさに自分が書いているものの話で、過去に使っている表現の可能性がある。嘲笑するような内容に少し落ち込んだ。コメント欄には、「切れるのはネタなのにな」とか「何かが切れる音したことないんだけど、経験者どんな音か教えて」といったことが書かれていた。

 そこで初めてジャンルや内容ごとに、人はそれぞれ何となくの固定観念を持っているということを意識した。何を見ているか、何を好きかということである程度“人となり”にバイアスがかかる。そして、それらの固定観念を意識してしまったとき、自分の見ているものをオープンにすることは、つまり『自分の本棚を見られることは肛門を見られるくらい恥ずかしい』という言葉の意味に通ずるのだと分かった。「○○っていう本が好きなんですよね」と言っただけで、『あ、そういう人なんだ…』とがっかりされてしまうかもしれない。

 正直、自分の好きなものが人からどう思われようと関係ないとは思う。とはいえ、“○○といえばあいつ”みたいにその対象と自分が強く結びついた状態で、自分が人に迷惑をかけるような行動を取っていたら、 “○○を好きな奴らには極力関わりたくない”という烙印が押されてしまうのだろうか。

 エッセイを書く人に対して、「自分の生活の中にエッセイ的な展開を見つけちゃうんだろうな」というコメントも見てしまった。この人たちは、エッセイに何か傷つけられたり、悲しい思いをしてきたりしたのだろうかと思った。何かを書く人間に対する偏見と小馬鹿にしている様子が透けて見える文章を目にして、自分の好きなことが揺らぎそうになった。毎週投稿している自分からすると、ネタ切れも表現の仕方も自分の内面もあえて指摘されると、自分のやっていることがいかにしょうもないことか論われているような気分になった。

 ただ自分は書くということを続けていて後悔したことは今までない。少なくともこれだけは自信を持って言えることで、自分の身に起きたこと、普段から考えていること、特に人に話すことでもないけれど言いたいことを書ける場所があることは自分にとって精神衛生を保てる唯一の場とも言っていい。人の目に触れるからこそ、表現には気をつけるけれど、自由に何かを言える場があるというのはとても貴重なことだと思う。SNS上で見かけた発言に精神を削られても、書くことで少しずつ回復していくものがある。

 自分が目にした投稿主も普段から思っているモヤモヤとした感情をその場その場でぶつけているだけなのだと思えば、言いたいことを言いたくなる気持ちには少なからず共感できる。そこへちょっと自身が小馬鹿にしているの僕のような人間に自分の発言をネタにされた今の気分はどんなだろうと想像する。おそらく本当に気持ちの悪い人種だなと思っているんじゃないかと思う。きっとこの書いた文章は言ってきた相手には届かないかもしれないけど、それでも一応書いてみる。

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