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きみに会えたからまだ生きていたいんだ

きっと、わたしのことばに少しだけでも興味を持ってくださったひとが、この記事を読んでくれているんだと思う。

それってとっても幸せなことです。なんの変哲もなく、希望をなかなか見出せないような褪せた毎日を切り売りするくらいしか、今のわたしにできることはないのに、それでも文字を見てくれるひとがいて。

わたしの自分語りのエッセイやツイートって、すごく格好つけてるなあと思います。格好つけてるエゴだらけの自分まで括って自分自身なのです。リアルの世界で好きな人や尊敬する人に見られたら恥ずかしいというか、見られ方を気にしてしまうと思います。ていの悪いことのほうがありのままっぽくて書きやすいんだ。ていの良い綺麗なことばを使って綺麗に書くから、ある意味で自分の汚い部分は線引きをして隠してしまうわけで、これがリアルだと「格好つけてると思われるのが怖いな」みたいに考えてしまいます。自虐に走ったり、自分のプライドをわざと傷つける発言をしてしまうことも少なくありません。

そういう意味で、綺麗に書くことは、わたしにとって上澄みだけを掬う作業とは真逆のものなのです。自分の中の凝縮されて守られた部分だけを書いている、というような感覚に近いです。複雑すぎて意味わからんってブラウザバックされてたらつらいから、もうちょっと簡潔にやさしい説明で文章を書けるようにいつかなりたいね。

さいきん、わたしはわたしだな、ってすこしだけ思えるようになってきました。ま、わたしの『すこしだけ』って言っちゃったらだいたいは思えていないわけなのですけど、それでも多少は。お腹すいたからありきたりなこと書くと、人生のフェーズがばらばらでやりたいことも環境もバラバラな他人と自分比べてもなんの意味もないし、時間無駄だなって体感で思えるようになってきたんですよね。わたしの場合は環境を羨んでどうしようもないヘイトを素直に口から垂れ流しておいたら、逆に何も変わらない現状が浮き彫りになって諦めがついてきたって感じです。

はじめからそれを狙ってやってきたから、人生前向きだし諦めてないですね。理論的に自分を導いてる自分はつくづく律儀で偉いなって思います。じぶんのもってるものしかないんだから、ないないって言っても魔法みたいに目の前にご馳走が出てくる世界じゃないんだ。

わたしはずっと苦しんできたけど、大嫌いな世界が嫌いではないです。好きな人にも会えた。素敵な言葉にも会えた。全部を肯定することはできなくても、ハイタッチできる好きな自分に会えたよ。だからわたしはまだここに生きていたい。

おいしいものでも買って帰ります!
読んでくださって、ありがとうございました。

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