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アートはわからなくても大丈夫。「学芸員しか知らない美術館が楽しくなる話」を読んで。

・美術館に行くのは嫌いではないけれど、どうやって楽しんだらいいのかイマイチわからない。
・アートの知識も作品の背景も知らないから、とりあえず解説を読んでみるけど、頭に残らない。
・「なんかステキだなぁ」って思うけど、それで終わってしまう。

これ全部、私のことです。

美術の成績はずっとオール3。
描けるイラストはアン○ンマンと似ていないドラ○もんくらい。
ささーっとイラストを描ける人を見ると、心の底から羨ましく思っていました。

そのせいか、アートへの敷居はすごく高くて、普段美術館に足が向くことなんてほぼありませんでした。「学芸員=美術館の端っこに座っている人」という、誤ったイメージを持ち続けてきた美術館オンチの私。そんな私にも、この本はとてもわかりやすく、文字通り知らない世界の向こう側を見せてくれました。


良い読書体験とは、読む前の自分と読んだ後の自分の世界の見え方が違うことだと思っています。だとすれば、この「学芸員しか知らない美術館が楽しくなる話」は、私に素晴らしい読書体験をもたらしてくれました。その中で特に印象に残った3点について紹介したいと思います。


「アートは難しい。それは学芸員でも同じです」と聞いてホッとする


最初にこれははっきりお伝えしておきましょう。
アートは難しい!
ここでいうアートとは現代アートを指しますが、正直なところ学芸員だからといって、目の前に「はい、どうぞ」と初見の抽象画を出されて、即座にその意味を解釈してスラスラ解説できるわけではありません。「え、何だこれは?」と固まるのは、みなさんと同じです。

P130

この文章を読んで、すごくホッとしました。よくわからない。意味不明だと思っているのは私だけではない。学芸員さんも一緒なんだと思うと、少し、いやかなりホッとします。こんな風に同じ目線に立って、まるで隣にいるかのように解説してくれるから、ぐいぐい読み進められます。

現代アートは言い換えれば「コンテンポラリー・アート」です。同時代のアート、つまり今私たちが生きている時代に生まれたアートのことです。
中略
今では名画の仲間入りをしているモネやピカソの作品だって、当時の人たちからすれば現代アートだったわけです。モネの《睡蓮》を見て、ピカソの《アヴィニョンの娘たち》を見て、やはり「何だこれは?」とみんな戸惑っていたはずです。

P131

今は名画として愛されている作品も、昔は現代アートだったと言われると、確かにそうですよね。時間の経過と共に「現代」という枠から移行していったというわけです。でも今の人たちは、モネもピカソもすごい芸術家として認識しているし、その作品の素晴らしさも理解しているのはなぜなんでしょう。

それは作品が創作されてからすでにある程度の時間が経過して、その中で少しずつ作品理解が進み、美術史的な価値が論理的に説明できるようになったからです。

P131

この部分を読んで、すごく腑に落ちました。

当たり前といえば当たり前のことですよね。「なぜこの作品は価値があるのか?」という研究がなされてきたから、今、その素晴らしさを理解できています。

私は「アート=感性、感覚で理解するもの」という先入観があって、論理的な説明とは無縁の世界だと思い込んでいました。だけど、モネもピカソもこれだけ多くの人に愛されて続けているのは、美術史的に価値があり、ロジカルに説明できる新しさや素晴らしさがあるからなんですよね。感覚的に「すごい!」と思ったとき、その価値を伝えるには「言葉」が必要なんだと改めて思いました。

例えば、モネが目に映った美しいものをその感動も含めてキャンバスに描き出そうと試行錯誤し、絵の具を混ぜて色を再現するのではなく、キャンバスに細かいタッチで色を並べることで鮮やかな色合いが鑑賞者の脳内で再現されることを狙った筆触分割という技法を編み出したこと。
立体的で多面的なものを絵画という二次元の中で表現するためにはどうしたらいいかを突き詰めたピカソが、様々な角度から見た姿を合成するという革命的な表現方法を試し、キュビズム(立体主義)と呼ばれたこと。
中略
ひるがえって現代アートは、まだこのような説明は誰もできません。今生み出されたばかりだからです。もしかするとアーティスト自身もその意味を言葉では説明できないのかもしれません(不思議に思うかもしれませんが、そういうものなのです)

P131

モネもピカソも、断片的にしかその作品のことを思い出せないくらい、美術オンチの私ですが、その当時の先駆者的存在であったことが、この説明で理解できました。


美術をわかろうとさせてはいけない


(美術館に来た子どもに)美術をわかろうとさせてはいけない。
ただひたすらに楽しみ、面白いところを見つける手助けをするのだ。そうやって、面白いと感じることが、実は情操にとってはとてもためになっているのだ。しかし、その成果が一年・二年で出るものではない。十年・二十年後に、ふと、幼い日に出会った美術を思い出すということがあれば、それでよいのだ。一見、無限の無駄のようにしか見えない美術体験こそ、美術館に求められる最大の役割ではなかろうか。

P 136

この言葉は、長らく板橋区立美術館の名物学芸員だった安村敏信さんという方の言葉だそうです。そしてこの文章を読んだとき、私はある美術館を思い浮かべました。それは、石川県金沢市にある「金沢21世紀美術館」です。

https://www.kanazawa21.jp/data_list.php?g=11&d=1


金沢21世紀美術館は、通称「21美」と言われ、円形ガラス張りの外観から「まるびい(丸い美術館)」という愛称も持っています。「まちに開かれた公園のような美術館」をコンセプトにしていて、大人だけではなく子どももウェルカムな雰囲気。その証拠に、美術館には珍しい託児所が設けられていたり、金沢市内の全小学4年生を招待するプログラムを実施していたりと、掲げたコンセプトを体現しています。(私は石川県在住ですが、金沢市民ではないので、かなり羨ましいです)

子どもたちは、アートの素晴らしさを論理的に理解はしないでしょう。うちの息子だったら「え、よくわかんなかった」と言う気がします。でもきっと、10年後、20年後に「そういえば…」と思い出す小さな種をまいていると思えば、期待はずれのそっけない反応も気にならなくなるかもしれません。


「わからないまま」でも大丈夫。「タイパ」の呪縛から抜け出そう


ライターをしているくせに、流行り言葉や若者言葉に疎い私は「タイパ」という言葉を見て、一瞬「?」となってしまいました。「コスパ」はよく聞きますが、個人的にはあまり使わない言葉です。調べてみると、2022年に「今年の新語」で「タイパ」が大賞に輝いていました。かなり市民権を得ている新語ですね。

「タイパ」とは、タイムパフォーマンスの略のこと。コストパフォーマンスの「コスト」の部分を「タイム」に置き換えたものです。つまり「費用対効果」ならぬ、「時間対効果」を指します。

「短い時間でどれだけの効果・満足度を得られるか」という視点が重視されているわけです。

それは私も体感しているし、意識しています。

時間は有限であり、お金で買えないものだから、いかに手早く、効率よく物事を進めるか。

育児と家事と仕事を両立させているお母さんたちなら、誰でも意識していることだと思います。子どもとの時間を充実させたい。でも料理も洗濯も掃除もしなきゃ。仕事だって頑張りたい。そんな感じで、どうやって時間を有効に有意義に使うかに日々頭を悩ませています。

それは学習や教養においても同じだと思います。

効率よく学ぶ方法として「ファスト教養」というジャンルも出てきているそうです。「30分でわかる!〇〇の歴史」「高校3年間の数学はこの1冊でOK」みたいな感じでしょうか。そういうタイトルって確かに魅力的。大学で学ぶような教養や知識をものすごくわかりやすく解説したYouTubeや本は本当によく目にしますし、ちょっと知りたいなと思うときには重宝します。

でもそうやって、タイパを意識して、表面だけわかったつもりの知識はすぐ忘れてしまうことも実感しています。なるほど、とわかったつもりでも、人には説明できませんから。

広く浅く知識があるよりも、狭くても深い知識がある方が、個人的にはかっこいいなと思っています。だからこの本の著者「ちいさな美術館の学芸員」さんの言葉にはとても共感を覚えました。

たしかに話の仕様を徹底的に切り落として、小話も雑談も交えず、本質的かつ重要な部分だけをかいつまんで説明するだけなら、それで事足りるでしょう。
でもそれって、一見スマートなようで、頭には残りにくいのではないでしょうか。自分の血肉にするには、飲み込んだ知識を頭の中で反すうしてゆっくり身体になじませていく時間が必要なはずです。
中略
そこで美術館が持つ役割に話がいくわけです。繰り返しになりますが、生活の中にアートや芸術と呼ばれるものがなくても人間は死にませんし、美術館なんてなくても暮らしには困りません。
「必要・不必要」「役に立つ・立たない」という価値基準の外にあるアートだからこそ、美術館でゆっくり鑑賞するという体験を通して、タイパの呪縛から抜け出すヒントが見えてくるのではないかと思っています。アートは無駄だし、役に立たない。だからこそ今の私たちに必要なんだ、といえるかもしれませんね。

P 168

この本を読む前と読んだ後で、私の現代アートや美術館に対する認識は大きく変わりました。自分も行ってもいいんだと、受け入れられている気持ちになっています。

効率的かどうかはひとまず横に置いておく。そんな時間や意識も忘れずにいようと決めました。



これからは美術館に行っても、端っこで座っている方は学芸員さんではなく、パートやアルバイト、ボランティアの監視スタッフさんなんだと思えているでしょう。

作品を端から端まで見なくても、罪悪感を持つこともないでしょう。

そして何よりも「わからない」状態を恐れずに、「わからないけれども、なんか好きだな」という感覚を楽しみ、自分なりの言葉でその良さを伝えられるようになれたらいいなと思えています。

「ちいさな美術館の学芸員」さんは、noteでの執筆がきっかけで本を出されたそうです。noteの記事も楽しみに読みたいと思います。


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