見出し画像

歪んだ純愛、または逆襲する女たち (そこにいた男/片山慎三)

 片山慎三監督は「岬の兄妹」において、「身体障がい者の売春」という衝撃的なテーマを描いた。脚に障がいを持つ兄が職場からリストラに遭い、生活苦から精神薄弱の妹の性を売ることを考え付く。妹がその意味を解さないだけに「人としての倫理」に悖る行為である。しかし映画はその悲惨さを憂えて終わるわけではない。妹は結果として、性的弱者を遍歴し、性的に目覚め、最後には「女性」性を獲得して行くという思ってもみない結末となった。
 そして、本作。片山慎三は、やりたいテーマを正面から見せて来た! 「女の本性」である。女性はとかく現実的な選択をするといわれるが、片山慎三はギリギリの局面における女性たちの究極の利己的・現実的な行動を描こうとする。それによって通常の価値観が逆転するような瞬間…。これは広い意味で「岬の兄妹」から続いているとも言える。話は嫉妬による衝動的な致死傷害事件。「ナルシストの屑男」翔にいいように騙されていた「貢ぐ女」紗季が主人公。その存在に気付いた本妻が自分の痕跡を屑男につけたおかげで事件は勃発する。この類の事件は珍しくなく、またそれを描いた映画も然りだが、片山慎三の手腕はその描き方にも発揮される。
 紗季は、「翔を分かってあげられるのは自分だけだ。」という思い込みに捕らわれて貢ぎ続ける。それは「翔が本当に愛しているのは自分」という前提に立っている。ところが「そうではない」と知り、彼に「他人の所有の刻印」を見たとき、衝動的にそれを除去しようと振り下ろす刃物・・・。この時、紗季において「刻印の除去」こそが為すべき事で、「対象の生死」など二の次だ。価値が反転している。あれほど、見てる方が胸糞の悪くなるくらい甘やかしていたのに、いきなりの、そして躊躇ない残忍な殺傷・・・。その「静かなる突発性」が映画の中心として効いている。
 悲惨な殺傷現場から一転、映画は取調室に移り、記録係の主任と、質問者の女性取調官の二名と紗季の対決となる。取調官は、半ば放心状態のサキの供述を聞きながら、経緯を振り返っていく。しかし、どう考えても話は尋常ではなく、所々サキの勝手な自己正当化が入る。それに苛立ち一つ一つ諭そうとする取調官。女性取調官の紅紫の口紅がテラテラ光って来る。紗季もその圧に次第に苛立つ。緊張が高まってくる。とうとう、そして突然の紗季の反撃。
 圧巻は最後である。何と刑務所のサキに、翔こと「ゲンタ」の本妻「ユウコ」が面会に来る。ここでもカメラが作る「溜め」が素晴らしい。サキの背中から左に回って前に出て行き、面会の本妻を発見し、斜めの2ショットになるまで移動して止まる。本妻は、「ゲンタ」の臨終の場面で、着の身着のままで泣き崩れていたが、今紗季の目の前では、生まれた子供を抱き、きっちり化粧をして、よそ行きの服装でアクリル板の向こうに座っている。そこまで場面を設えた後、片山監督は「ユウコ」に開口一番、「ありがとう」と言わせる。ゲンタには生前より愛想が尽きていたし、保険金等で却って暮らしが楽になった、と。この「反撃」には紗季もたじろぐ。「突発的な価値の反転」だ。「負け惜しみ」も覗くが「本妻としての矜持」である。紗季が自分の敗北を伝えようとしても一顧だにせず去って行き、気高い「偽らざる本音」として、強い印象を残す。
 このように片山慎三の映画は、常識やモラルからも逸脱し、出口無く追い詰められた女性たちの開き直りや、切羽詰まった反撃を描く。通常の常識や価値観を覆すような行為や発言のインパクトを、やや暗く、色濃く、重い片山慎三のショットがしっかり受け止めている。
 一方でその色濃いショットが生きるのが黄昏時。「岬の兄妹」の三崎口の夕景も美しかったが、この映画の二人のドライブで、背中越しに見えるフロントグラスの黄昏の景色が抒情あって素晴らしい。ドライブはラストシーンにも繰り返される。流れて来るJ-WAVEの「交通情報」は、紗季の願う「永遠のグダグダ」を許すBGMとして、ユルクかつ最高でかつ最悪の余韻をいつまでも残すのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?