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エゴン・シーレの絵を見てゲロ吐いた、そんな女性も(多少は)いて欲しい。

近代において芸術という観念はつくづく恐ろしいものだ。ときに画家は人の社会的パーソナリティを嘘だと見なし、洞察力によってモデル自身おもいもよらない姿を描き出す。たとえばシーレの場合ならば、ときとしてモデル自身でさえ自覚していない、本人が制御できない性的な危なさを画家は暴いてしまう。どこまでそれがそのモデルの真実なのか、あるいは画家の妄想なのか。はたまた他ならない具体的なモデルその人を越えた〈性〉の観念を表現したものなのか、それは誰にもわからない。



次に、シーレにとって女たちはおおむね柔らかい曲面の組み合わせであり、画家にとっては表現し甲斐のある対象だろうけれど、しかし往々にして作品のなかのモデルに人格はない。それはほとんど肉塊である。


もっとも、なかにはシーレがいかにも思慕を寄せただろう少女もいて、そういう場合かれはモデルを人格を備えた清純な少女として描くのだけれど、たいへん例外的だ。おそらくシーレはゲイ寄りのバイなのだろう。一概には言えないことながら、フェミニストにとってシーレの絵画は不快を拭い去れないのではないだろうか。もちろんそんな反応もまたシーレのとてつもない表現力のゆえだろうにせよ。



またシーレの描く風景画も、シーレの不安きわまりない精神状態を露わにしている。なお、ぼくが風景画に狂気を感じるのはゴッホとシーレのふたりだけだ。なお、この感想はぼくとしてはどちらかと言えば肯定的なつもりではあるのだけれど。

シーレはその絵画活動によって牢屋にまで入れられ、それでも自分の信念を貫きとおした気概ある芸術家ではある。たしかに絵を描いたことによって投獄されるような社会はろくなもんじゃない。あきらかに間違っている。ただし、他方でだからといって当時かれから自由を奪った司法の連中を芸術を理解できない無教養な田吾作たちと非難できるかと言えば、それもまた微妙なところだとぼくはおもう。



余談ながらぼくは音楽においてポストパンク、ノイズ系、アヴァンギャルド、それらのジャンルのなかに大好きな作品も多い。現実に対して間違っている、そもそもおれはこの社会が大嫌いだ、とオルタナティヴな叫びを発することは(巡り巡って)社会にとって有益なこと。かれや彼女がどんなに歪んだ世界像を示したとしても、自分の感受性に忠実であることは芸術家の使命ですらある。とうぜんぼくはシーレの作品を非難する立場ではない。アートは美/醜、善/悪、真/偽の基準を揺るがせることができてはじめてアート足りうる。シーレの仕事はまさにその基準に適っている。しかもシーレの絵画はさまざまなことを考えさせてくれる。世紀末のウィーン。フロイト。性的ファンタズム。あるゲイ寄りのバイ(?)にとっての女性観・・・。



それでも他方でぼくはおもう、いま世間に蔓延しているシーレ大絶讃の大合唱には少し違和感がある。少しくらいは「わたしはシーレを見て、ゲロ吐いた」とか、「シーレは女の敵だ」とか、そんな非難の声も多少は混じっていて欲しい。それが社会のバランスというものだとぼくはおもう。自由な思弁は芸術家だけの特権ではなく、鑑賞者だって自由な精神は必要ではないか。



エゴン・シーレ展は、上野・東京都美術館で4月9日まで開催中です。シーレと同時代の画家たちの作品も同時に鑑賞することができます。さて、あなたはどんな感想を持つかしら。


Eat for health, performance and esthetic
http://tabelog.com/rvwr/000436613/


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