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Re: 【小説】蛇神ちゃんドロップキック

 自分の身長ほどもある長いルーズソックスに足を入れて糊でふくらはぎに止める。
 姿見でミニスカートとのバランスを見ながら「よしっ」と小さい声で指差し確認。
「いってきます!」
 ローファーがアスファルトを叩く乾いた音が響いて、驚いた小鳥たちが飛んでいく。

 住宅街の真ん中に蛇がいた。
 リボンなどは付いていない。誰かが飼っていたのが脱走したのだろうか──そう思ってわたしは足を止めた。
 ローファーがアスファルトを叩いてカツンと乾いた音がする。
 近くに山があるような田舎ではないし、爬虫類のペットショップもない。
 辺りを見回してみたが誰もいない。
 早朝の青白い光に照らされてその白い蛇は少しだけ頭を上げた。

 このままではいずれ新聞配達の原付か通学の自転車かなにかに轢かれて死んでしまう。
 私は一瞬迷って
「ここに居ると轢かれるぞ」
 と声をかけた。
 当然、言語など通じるはずもない。
 白い蛇は黒い瞳で何を見ているのか、真っ赤な舌をちろちろとのぞかせている。
 蛇については明るくないけれど、ガラガラヘビとかコブラだとかではない。
 そう言えば蛇に雑種はあるんだろうか。

 白蛇は音もなく私に近づいてきたが、足元にくるとローファーの先に頭を乗せて丸くなった。
 噛みつく訳でもなく巻きつく訳でもなかった。とは言え足で蹴る訳にはいかない。
 じゃあ捕まえられるかと言うとそれは怖い。

 少しの間、私は路上で白蛇と見合っていた。
「ここにいると轢かれるぞ」
 スクールバッグを少し押し当てる感じで白蛇の頭に向けた。
 その意図が伝わったのかは知らないが、白蛇は近くの民家の庭にその身を滑らせていった。
 ふ、と短いため息が出た。
 遅刻は確定だ。
 蛇の相手をしていて遅刻なんて、先生に言って信じてもらえるだろうか。
 どうせなら、少しゆっくりしていこうか。
 私はスクールバッグの奥から黄色い箱のピースを取り出して火をつけた。
 通りすがりの老人は私を一瞥して、そのまま歩いていった。
 白い煙が蛇みたいにくるくると空に昇っていくのが見えた。

 先生は当たり前の様に蛇の話を信じなかった。
「東京の住宅街のど真ん中に蛇って、お前はもう少しまともな言い訳が出来ると思っていたがな」
 先生はやたら濃い色のお茶を飲んだ。
 理科部のビオトープみたいだなと思ったけれど、先生の湯呑みはひどい茶渋で厭な気持ちになった。
「でも本当なんです」
 写真でも撮っておけば良かったな、と今さらになって思うけどアフターフェスティバルだ。
「まぁいい。あしたは気をつけろよ」
 先生はそう緑茶を飲み干すと「これもな」と煙草を吸うジェスチャーをした。
 私はそれに取り合わず、礼を言って職員室を出た。

 授業を受けて、部活に出て、電車に乗って、帰る。
 普通の一日である。
 朝イチに白蛇を見ようが見まいが同じ日だ。
 当たり前だ、急に何かが変わるはずもない。何かの象徴であったとしても、それがその日に変化をもたらす訳でもあるまい。
 駅から家に向かって歩く。


 冗談だろう。
 家に向かう道の真ん中、街灯の真下に大きな蛙がいた。
 白い顎を膨らませたり萎ませたりしながら何かを見ている。
 わたしには見えない虫でもいるのか。


 そこにいては何かに轢かれる。
 別に蛙が轢かれるのが問題なのではなく、轢かれた死体が放置されることが問題なのだ。
 干からびて漢方薬にされてしまいそうな姿のままアスファルトの上に放置された無残な死体を何日も見たくない。
 それが仮に猫であれば役所も出てこようが、蛙では動きそうもない。

 蛇ならどうだろうか。
 半笑いで私の話を流した教師の顔を思い出した。
 市役所の人間だって同じ反応をするかもしれない。そう思うと不愉快だった。
 ひとまずこの蛙をどこかにやらなくてはならない。
 もちろん触ったりはできない。
 できればスクールバッグも押し当てたくない。蛙の体表がどんなものか知らないが、あの滑った光は不気味だ。
 それに蛇と比べると言葉も通じそうにない。
 そっとローファーのつま先で蛙の尻を突いた。するとその蛙は少し跳ねた。


 跳ねたは良いが、道の端から真ん中に出てしまった。
 これでは意味が無い。
 私は続けて蛙の尻を突いた。蛙は再び跳ねた。何度か繰り返して道の反対側まで蛙を追いやると、なんとも言えない達成感に包まれた。
「ま、これでいっか」
 わたしが蛙の轢死体を見るという不愉快さを味わいたくないだけだが、それでもひとうの生命を救ったことには違いない。


「いや、それは違う」
 藪から白蛇が現れた。棒の様に。
「お前は私の食事を奪った」
 白蛇は真っ黒な瞳でこちらを見ている。
「お前は蛙を救ったかも知れないが私を殺す可能性まで考えなかった」
 赤い舌がちろちろと飛び出ている。
「空腹だ」
 街灯に照らされて白い鱗がキラキラと光っていた。
「お前の思い上がりで私は死ぬかも知れない」
 白い蛇は立て続けに言った。


「ご、ごめんなさい」
 素直に謝った。謝ってしまった。
 別に狙って悪い事をした訳じゃないのだけどな、と思う。
「あれを喰えばしばらくは満たされてただろうにな」
 白い蛇はなおも恨めしそうに言う。
 慌てて鞄の中を漁ってみたが「お前のような奴が喰うものなど私が喰えると思うな」と吐き捨てるように言われた。


「じゃあどうしろってのよ」
 頭にきた。
 大体、今朝あんたを救ったのはわたしじゃないか。
 礼のひとつくらいあっても良さそうなものじゃないか。
 こんなところに蛇が出るなんて誰も思わないだろう。
 早朝の新聞配達か、それこそ通学の中高生に自転車で轢かれて死ぬ前に逃げられたのはわたしのおかげじゃないのか。


「そうとも言えるが」
 蛇は相変わらず黒い瞳でこちらを見ていた。
「それとこれとは別だ」
 そうか。ならば仕方ない。
 わたしは制服を脱ぎ捨てると乳房を千切って蛇に与えた。
「さっきの蛙はこれくらいだったかしら」
 血の滴る乳房を眺めていた蛇は「うむ」とだけ言うと、私の手から乳房を奪うと一息に飲み込んだ。
「もうちょっと味わって食べなさいよ、女子高生の乳房なんだから」
 煙草に火をつけると、煙はやはり白蛇みたいにくるくると群青色の空に昇っていった。
「私には女子高生だとかいう概念はあまり関係が無い」
 蛇は口のまわりを血だらけにしていた。
「それにしたって若い女の乳房よ」
 家に帰る前に缶コーヒーでも買わないと。
「使用済みの乳房は不味い」
「失礼なやつだ」
 わたしは蛇の首を踏みつけた。


 すでにわたしの乳房は蛇の喉を越えて胃に向かっている。
 吐き出す事は無いだろう。
 吐き出したとしても蛇の体液にまみれた乳房を再び装着する気にはなれない。
 今朝も見た老人がわたしを一瞥して歩き去っていく。


 何かの反応をしろ、と思った。
 半裸の女子高生が乳房を千切って白い蛇に与えているのだ。
 徘徊老人め。酷い悪臭を放っている。
 誰か通報してもよさそうなものだが誰もしない。
 無縁社会。
 馬鹿馬鹿しい、そんな議論をするためにここにいる訳ではない。
「ああいうのは食べないの」
 顎で徘徊老人を指すと、白蛇はもたげた頭を左右に振った。
「好き嫌いと言う訳じゃないが餌なら何でも喰う訳じゃない」
「そりゃあそうか」
 誰でもいいと言ったって、と言う話だ。


 わたしの乳房を胃に押し込んだ蛇は満足そうに赤い舌を出すと「うむ」と言った。
 それを見て、わたしは制服を着直した。
「じゃあ、気を付けてよね。轢かれないように」
「お主も二度と私の獲物を追いやるんじゃないぞ」
 そう言って民家の藪に戻っていく白蛇を見送っていた。
 群青色の夜空に消える煙草の煙みたいだなと思った。

 帰宅すると母親がテーブルの上に晩ご飯を並べているところだった。
「あら、どうしたの。胸の処が血だらけじゃない」
「うん、ちょっと」
「先にシャワールーム浴びてきちゃいなさい、待ってるから」
 母親がエプロンで手を拭いながらリビングと台所をせわしなく行き来している。
 リビングで弟が「えー、まだ待つの」と文句を垂れたがスクールバッグを投げつけて黙らせた。
「あんたもお母さんを手伝いなさいよ」

 シャワーを浴びて食卓に着く。
 弟はいただきます、と言いながらすでに料理に手を伸ばしていた。
 見たところ、鳥の手羽元を煮込んだもののようだ。それにしては多いし肉付きも良い。
 まぁいいかと手に取って食べる。
 味は鶏肉そのものだ。
「美味しい」
 わたしがそう言うと母は嬉しそうに笑った。
「よかった、試しに買ってみたお肉なの」


 黙っていた父が夕刊を畳んで顔を上げた。
 折りたたまれた新聞には「蛙、大量発生」「闇業者が鶏肉と偽り販売も」と言う見出しが躍っていた。
 大量発生なら私の乳房をあの蛇にくれてやる事も無かったな、と思った。
「姉ちゃん煙草吸った?」
 と言う弟の皿から肉をひとつ盗って食べた。

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