自己の認識に対する哲学的懐疑は自信を喪失させる。

自分は存在するか?と自らに問うている人間に、おまえなんか存在するわけないだろう死ねなどと言うことや、無視することはその人の自信を喪失させ、自殺に追い込む可能性がある。内向きな哲学的思考に慣れた人間は議論に弱く、哲学科大学卒でも中学卒の気の強い無学な人と口論して負ける。大学教授などは「負けてもよい」などと言うだろうが、哲学科卒なのに訳ありで、中学卒の無学な人と対等に渡り合わねばならない状況に置かれている場合、口論で負けるのは、経済的不利さえ甘受しなければならないことになる。口論、あるいは議論、あるいは弁論が強い者が勝つのが世間で、正しい者が勝つわけではない。弁護士は正しい者を勝たせるのではない。その者が法に適っていると見せかけるのが弁護士の力量だろう。そもそも法律は絶対的に正しいのではない。しかし、法治国家は法に適った者が勝つ国家である。弁論の弱い者、内向きな者、優しい者、そういった者が負ける世の中である。憎まれっ子世に憚るである。哲学というものはそれを研究しているうちは弱い者になる。しかし、外を向き、哲学を戦うための武器とすることができれば最強である。しかし、最強でも、内向きに探究したときの優しく誠実な心を失ってしまえば、最悪である。自信とは自らを信じることである。自らの記憶を信じることである。つまり認識を信じることである。それを信じられなければ世間から脱落して行く。内向きに探究した哲学の経験から得た知識を強く信じ世間に押し通すことができれば、その人生は成功である。くれぐれも最悪にならぬように、負けぬように。

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