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深淵を見つめる者は、見つめ返される(ニーチェ)

私は以前まで、心の病魔のことを書いていたが、最近はラーメンの思い出など、毒にも薬にもならないようなことを書いている。病魔のことを書いていた私を知っていた人は、あれ?大橋、なんか変わったか?と思うかもしれない。そうです。変わりました。ユーザー名を変えました。SW大橋からSW大橋勇に変えました。深いことを書こうとすると、心の病のことを書くことになる。あるいは心の歪みとか。過去の失敗談だとか。しかし、そんなことを書いたりして悔やんだり、心の病を誰かと共有して慰め合っても、決定的には前に進めない。これには「決定的には」という言葉がつく。心の苦しみを誰かと共有することは一応前には進める。しかし、それは決定的ではない。そこに病気を通して友情が生まれると、病気を捨てて生きようとすることはその友人を捨てることにもなるかもしれない。すくなくとも病気を慰め合うことは卒業したいはずだ。私にも心の病で繋がった友人が何名もいる。そのうちひとりが亡くなっていたことを最近知った。私にとって彼は大切な友人だった。彼とは病気の関係で知り合ったが、私にとっては芸術関係の友人だった。彼は統合失調症という病で、重い症状がある人だった。働くことのできない状態だった。私は彼の部屋に入ったことがあるが、そこには部屋の真ん中にベッドがあって、テレビがあってそれに付いたゲーム機があって、書棚には哲学書があって、ギターがあって、壁には彼の描いた非常に個性的な絵画が掛けてあった。私は自分も同じ病を病んでいて、芸術家志望だったから、親近感があった。そういえばもうひとり病気関係で出会った芸術家志望の男がいて、彼はシンガーソングライターを目指して下北沢に住んでいると聞いた。ときどきクリニックで出会った。私が書いた詞に曲を付けてくれたりした。彼は楽譜を読めないとのことだった。それじゃダメだろ?と私は正直思った。しかし、私は後年、ジョンレノンやポールマッカートニーが楽譜を読めなかったことを知り、彼の夢も妄想で片付けられるものではなかったと思い直した。夢を見ている人を、妄想家と笑う人は夢を諦めた人だと思う。
ここまで読んでみて、私の話が、表題とズレていると感じた人も多いかもしれない。しかし、自分の病魔を同じ病魔に冒された他者に投影することは非常に自らを客体化するのに役立つ。つまり三人称で書くことが最も健康的な文章だと思う。
ここで私の過去の文章を読んできてくれた人は思うかもしれない。あれ?大橋は健康より幸福を、幸福より満足を求める人間ではなかったか、と。そう、病気でも夢を叶えることが大事だと私は言ってきた。しかし、私の夢は小説家として世界の歴史に名前と作品を残すことで、そのためには健康な精神であったほうがよいものが書けると気づいた。深淵を見つめていては、その深淵に見つめ返されてしまう。だから、ラーメンを食った思い出なんぞを書いている。統合失調症のことを書くと、その界隈で高い率で人気のトップに上がることがあった。しかし、ラーメンをネタにした界隈は激戦区だ。そこで人気トップの記事を書くにはどうしても心の健康が試される。おもしれえ、と思う。
私は現在、三人称の小説を「小説家になろう」というサイトに投稿している。アドリブで書いている。アドリブで書いていると、自分の素が出る。そこがまた、おもしれえ。私小説のように自分を見つめず、過去を見つめず、深淵を見つめず、本気で書く。すると深淵より深いものが書けると思う。その深さとは苦悩の深さではなく、愛の深さである。


『最低な三人と異世界転生ドラゴ二ア冒険記』
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ぜひ読んでください。


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