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鳳凰三山薬師岳にて、北岳を肴に酒を飲む


この山をどういう言葉で称えたら良いだろうか。
私は、その山を形容する表現を探していた。
その山とは北岳である。
私はその山の東側に連なる鳳凰三山薬師岳の山頂にいた。

薬師岳と秋の空


 
十月初旬の午後のことだ。天気は雲が出ていたが、北岳を見るにはまずまずだと言えた。南には富士山が雲の上に出ている。石の上に南西を向くように斜めに座れば、左に富士、右に北岳と首を横に振るだけで体を動かすことなく見える。

左に富士
右に北岳

さて、この私が座っている石だが、じつは一ヶ月前にも座っている。八月末の夏の山だ。あのとき、私は北岳とじっくり対座した。見ることに飽きなかった。そして、秋の紅葉の季節にまた来よう、そのときはビールを飲みながら北岳と対座しよう、そう思った。それが今、実現している。

薬師岳(薬師岳小屋のほうから)


 だが、今回は、北岳を肴にするつもりで来たくせに、ポテトチップスを持参している。ザクザクと食べる音が、北岳と私の間にまるで下界の騒音のように雑念として入ってくる。これでは対座にならない。あの山を形容する言葉探しがザクザクという音に乱されて、明晰な詩的営為を台無しにされている。じゃあ、食べなければ良かろうと思われるかも知れないが、持ってきた物は食べて帰りたい。これが下界の雑念である。しかし、ビールを飲み終えるより先にポテトチップスが底を突いた。ようやく私はビールの味と北岳の山容というこのふたつの間に身と心を置くことができた。登山客は他に誰もいない。今、鳳凰三山薬師岳山頂からビールを片手に北岳を見ているのは、世界で私しかいない。この当たり前の事実が私をビール以上に酔わせたのだった。富士と北岳、標高で言えば日本第一、第二の高峰を同時に見ている。なんという贅沢だろう。しかし、私の意識は第一の高峰たる富士ではなく、第二の北岳に向いていた。富士は形から高さから、まぎれもなく霊峰である。

紅葉と富士

しかし、北岳は平凡である。平凡の最高峰と言ったらいいだろうか。いや、どう称えたらいいかわからないほど褒めたいはずが、平凡という言葉に辿り着いてしまった。しかし、山にはそれぞれ形がある。北岳には北岳にしかない形がある。これを個性と言ったらまるで人物を表わしているようだが、北岳は山脈のうちのひとつのピークにすぎない。となりの間ノ岳に稜線が繋がっている。間ノ岳も見事な山だが、薬師岳の位置は北岳と対座するのに絶好のロケーションである。だから、私は対座する相手に北岳を選び、自らの座す場所を薬師岳とした。この北岳を肴にビールを飲む幸せ、いや、幸せと言うのでは足りない。人生の二度ない時間なのだ。私は幸せより満足を求める。満足は求めるに足る対象があるが、幸せは求めて得られるものではない。独りで山に来ることが果たして幸せかどうか。私には共に登山する家族や友達がいない。そういう共に行く者がいたら幸せだろう。では、独りで登山する私は不幸なのか?家族や友達と来るのも一興だが、そこには会話が当然あるだろう。富士山や北岳を背景に記念写真を撮ったりするだろう、それはたしかに幸せではある。しかし、登山をいつも誰かと共有することは果たして山を堪能したことになるだろうか。人生の豊かさとは家族や友達とワイワイ騒ぐことばかりにあるのではない。独りで北岳と対座するのも、また、人生の中で、豊かな時の過ごし方なのである。
人生には色々な時があるが、今の私は北岳を肴に酒を飲む時にあるのだから、その対座にしっかり酔うことにしよう。

夕暮れの北岳

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