香港の男__1_

連載小説『香港の男』chapter one

chapter one: 香港的一個男人

「例えば、香港に住んでいたとする」
彼は話し始めた。

「何度も話そうとして、何度もやめた話だ。でもこの切り出しであれば、うまく伝わる気がする」

彼はそう言って、宙に浮かべていたコーヒーカップをソーサーの上に戻した。そして今度は置いたカップを指で回して、意味のない音を立て始めた。彼はいつもそうして前置きを作ってから何かを話し始める。

彼は僕よりも4つ年上だった。僕と彼は、当時住んでいた学生寮で知り合った。僕らは同じ大学に通っており、僕が後輩で、彼が先輩で、ただそれだけのことだった。

彼はよく、僕を寮の近くの古い喫茶店に誘っては、コーヒーを奢ってくれた。僕はどちらかというと話を聞くのが好きなほうだったので、彼が思いついたことをまとめて話すのを黙って聞いていた。彼は自分の考えを話すことを好む人間だったから、今思えば僕は彼に気に入られていたのかもしれない。しかし彼に気に入られたところで、授業の休み時間に呼び出され、煙たい喫茶店の店内でコーヒーを飲み、彼のする話に相槌をうつだけのことだったので、たいしていいことはなかった。

ソーサーがカチャカチャと音を立てる。彼はまだコーヒーカップを回す作業に没頭していた。体のどこか一部を常に動かしていないと気がすまない性格のようだ。いい成績ばかりを取るのに、大学の授業にはほとんど出席していない。彼が大学に行かないあいだの時間をどのように使っていたのかはわからなかった。こんなふうに適当な店に居座り、何か意味のないことをして時間を潰していたのだろうか。意味のないこと。例えば、カップをソーサーの上でいじるとか。彼が何者なのかについて気になったことは一度もなかったし、身の上話を求めたところで何の得にもならないことは、4歳下の僕でもなんとなく理解できた。僕から見て彼は、ただただそういうタイプの人間だったのだ。

そしてその日、彼がしたのが、「香港の男」についての話だった。

「例えば、香港に住んでいたとする。その男は、狭い香港の領内に200万棟くらいある高層マンションのうちのひとつの、これまた150室くらいはある部屋のひとつに、ハチノコのような形で住んでいる。男が住んでいるのは、四角い小さな部屋だ。香港のマンションが高層ビルのように巨大化する理由は、人が多くて土地が少ないからなんだ。だから、たとえその建物が高層マンションだったからといって、それがおれたちの街にあるような「高級マンション」のような小奇麗なものだというわけではない。その男が住んでいる部屋だって例外ではなかった。ベッドと、簡単な洗面台にキッチン。それにシャワー付きの便所があるだけのワンルームだった。シャワー付きの便所って想像できるか?アジアの国によくある、トイレとシャワーが一体になったバスだよ。トイレのタンクの横からシャワーのホースが引かれている。湯船はない。

部屋に窓は付いているけど、そこから見える外の景色は隣のマンションの灰色の壁だけで、しかもその壁との距離はたった50センチしか離れていない。換気のために、こういう隙間があるんだ、香港の建築物にはね。部屋唯一の窓はこんな様子だから、太陽の日差しが差し込むことはなくて、いつも薄暗くジメジメしている。もっとも、スモッグがある日には太陽なんてはなから見えないんだけどな。香港には日照権という概念がまだないんだ。たぶん今後もないだろうけどね。

彼はそこまでを一息に話した。そしてコーヒーに一旦目を落とし、少しスプーンを動かした。

「とにかくその男は香港のその部屋でハチノコのように暮らしている。その男は日中から夜にかけて、近くのスーパーマーケットでバックヤード作業員として働いている。力作業の現場で、周りの従業員はひげも剃らないごろつきのような輩ばかりだから友人と呼べるような人間はまずいない。朝から晩まで働いても、もらえる給料はしれている。その月にもらった給料はその月のうちにほとんどが家賃や食費に消えて、手元に残る金は無きに等しい。香港の家賃は高いからね。香港では一人暮らしって結構贅沢なことなんだ。だから散髪や服を買うための出費は生活費の二の次だ。大学を出てこの部屋に住み始めてからというもの、ずっとそのような生活だ。女との付き合いもその頃に途絶えた。とにかくその男は、高層ビルが立ち並び、絶えず何百万台の車や、運転の荒いロンドンバスが往来する香港の街の中で、巨大な蜂の巣のようなマンションの中に生活している。黄色くしみて擦り切れそうなシングルベッドの上で寝起きし、時々切れ味の悪いカミソリと石鹸を使ってひげを剃っては生活している。そういう人間だ。


先輩は顎の調子が悪いらしく、顎を横に動かしカクカクと鳴らした。彼の癖だ。本人は何も気にしていないが、周囲にはそのカクカクという音が動物の骨を打ち合わせる楽器のようによく聞こえてくる。音を鳴らすときの顎の動きも、初対面では一種異様なものを感じる。僕はもう慣れてしまったが。

顎を鳴らし、点検を終えた彼は、香港の話を続けた。

「ただそんな男にもひとつの楽しみがあった。シフトを上がったあとの閉店間際のスーパーで食材を買い、自分の飯を作ること。それが、男が持つ唯一の楽しみだった。売れ残った商品が並ぶ店内を回りながらその晩作る飯の材料を考える。帰り道に抱えて歩く食材の入ったビニール袋の重み。それらを狭いキッチンに並べ、料理をし、使わない食材はラップを巻いて冷蔵庫に入れる。鍋や食器の汚れをすすぎ落とす。それらの作業は男の中で、暮らしの自由を象徴するささやかな儀式のようなものだった。男はたくさんの種類の料理を作り、それらの味や見た目や費用について、毎日日記に感想を書き記した。料理を作り日記に残すこと。男は、「このことはいつか必ず役に立つ」と信じ、ひっそりとそれを続けていた。

彼の死に気がついた人は、数にすると驚くほど少なかった。彼の部屋は、調理中の不幸なガス爆発によって彼もろとも消し飛んでしまったのだ。爆発の影響で、彼の部屋があった場所だけがすっぽりと空洞に変わり、黒焦げの煤になってしまった。彼の死のニュースは、テレビはおろか新聞の片隅にも載ることはなかった。ただSNS上の複数のアカウントの間で、爆発の際の音とその後に来た消防車両のサイレンの音が少し話題になっただけだった。

25歳の男性が、彼の暮らしていた部屋とともに消し飛んだとしても、世間はその事実に関心を寄せられるような余裕を持ってはいなかったようだ。人はいつも自分のことで精一杯だ。彼が料理に関する全てを綴ったはずだった日記について、その行方や内容を気にかける人はひとりとしていなかった。そもそも、その日記の存在自体を知る人は彼以外にいなかったのかもしれない。彼のいた部屋は事件後数週間でリフォームが施され、半年後には新しい入居者が見つかり、今では何食わぬ顔で蜂の巣マンションの中のありふれた一部屋に戻っている。ここであった爆発のことはもう誰も覚えていない。彼のことを知る人ももういない。香港という有機体の中で、一つの細胞が潰れ、新しい細胞がそれに取って代わった。街全体からしたら単にそれだけのことで、それ以上の意味をもたない出来事だった。」

先輩はここまで言ってから大きく息を吸い込み、そして吐いた。少し疲れたようだった。当然だ。これだけのことを一気に話せば誰だって疲れる。彼は僕の方を見た。神妙そうな目で僕を見ていたと思う。そのとき、僕はいつもとは違う彼の切実な思いを感じたような気がした。彼はほとんど僕に助けを求めていたのかもしれない。

そして、こう言った。

「おれが言いたいのは要するに、この男はおれかもしれないし、おまえかもしれないということなんだ。おまえかもしれないし、おれかもしれない。誰だって、香港の男になってしまう素質を持っているんだ。おれの言いたいことって、わかるか?」

そのとき僕は「はあ」というしかなかった。あの頃の僕にはそうするしかなかったと思う。だって僕たちはその頃、4つも歳が離れていたから。

だけど、それからというもの、僕は事あるごとにその香港の男について考えるようになった。電車の中で、訪れたホテルのマットレスの上で、アルバイトの休憩所で。その男は、いつも日記を書いたり、汚い台所で包丁を握っていたり、スーパーバックヤードからたまに見える月を眺めていたりしていた。香港の巨大な街の中で消えていった1人の男。僕はそんな男が本当にいるとは思っていなかった。あれは先輩のたとえ話で、根幹の部分から間違いなく作り話であるはずだった。しかし、先輩が語った話は奇妙な切迫性を持って僕の頭の隅に留まり続けた。なにかもやもやとした暗いものが頭の隅に植えつけられてしまったような感覚が、いつまでも消えなかった。先輩はこう言った。「香港の男は、おれかもしれないし、お前かもしれないんだ。」僕はあのときの「はあ」という返事をその後何度も頭の中で繰り返した。

僕が先輩と会わなくなってから、もうすぐで5年が経つ。

To be continued...

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