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ものぐさ精神分析

「文明とは病気である。それもかなり伝染性の強い病気である」

そんな書き出しで始まる「続・ものぐさ精神分析」岸田秀 著 は、俺の人生を変えた一冊と言っていい本。鬱屈していた22歳頃だった。大学の先輩の家にいてふと目についた本だった。そしてその一行を読んで頭の中のモヤモヤがスッと晴れていくような感覚になった。
「これ貸してください」
「あ、いいよ、なんならあげるよ」

そこから俺の精神分析を軸にする考え方が始まった。自分のことはもちろんのこと、親のこと、周囲の友人のこと、テレビでやってること雑誌に載っていること、、、目につくあらゆる疑問・理不尽なことを岸田秀氏は「人間が作り出した幻想」と言い切る。元も子もないじゃないかと思う人もいるだろうが、悩みまくっていた俺からすると実にスッキリする視点だったのだ。

「そう、絶対的なんてことなんてないんだ」

どうしても生きていると、そこかしこに常識という名の妖怪がいる。常識を盾にしてアドバイスする、時に他人を叩く、結果振り回される。
「なんなんだ常識って?」
「常識が理解できない俺は"一般"人じゃないのか?」
いやそもそも「一般人じゃなきゃいけないのか?」

他のタイプの人が集まるところに行く、例えばバイトを変える、なんなら海外に行ってみる、、、なんてしてみるとその「常識」ってやつがいかに脆いものかが分かる。「常識」なんて時代時代で変わるし、国によっても変わるし、なんなら誰と仲間になるかによっても変わる。実に脆いものなのだ。

日本では「面白半分」と言うが
英語では「半分真面目~half-serious」と言うらしい
同じことでも見る角度が違うと表現方法が変わる
そんな程度です、常識なんて

ところが昨今は他人と直に接する前に、web~SNSなどで強制的に「常識」が形作られるようになった。それも世界的な。そもそもが脆い「常識」を、世界共通のシンプルなものにしようとするから言葉が軽くて除菌されたものになってしまう。Love & Peaceのようなことしか言えなくなる。。。。か、各種ヘイトスピーチのように、裏アカを作ってまで毒を思い思いのままに吐き出す、ようなことが起きる。ニュースでは毎日毎時のように「今日は誰が問題発言したか?」を報道している。そんなに簡単に「常識」なんて共有できるものだろうか?「差別」ってそんなにシンプルですか?

そんな時に精神分析的に世の中を見渡すのは、自分の精神衛生上はすごくいい。そもそも人類特有の病気であり、幻想である「文明」。もちろん自分自身、社会の中で生きて行くためには、ある程度の迎合・調整は必要だけれど、その文明・常識が絶対的なものではないよ、と言う風に解釈できてるかどうか?はすごく大事に思う。

この本では例えば日本の文豪を精神分析している
■三島由紀夫
両親の意向そっちのけで、自己中心的で支配欲の強い祖母の元で育てられた結果、自己の欠如、精神病の部類。その空虚な自分を誇大に見せるための演技であり文章であった。
ちなみに精神病者とは、押し付けられた現実を否定して自分の現実を構築したものの、それを人々に認めさせるのに成功しなかった人である。

■芥川龍之介
父が二人、母が四人いた。実父母・義母・養父母・伯母。実際育てられたのは伯母。
彼は神経症的。この複雑に育った、押し付けられた現実を、意識的には容認していながら無意識的には否定していて、葛藤を抱えている人。

■太宰治は甘ったれである。成長、大人の自我を作るのを拒否し、甘えの態度を強く持ち続けた。
甘えの態度が固着した者は自我が発達しにくくなり、自我が恥部となる。→人間失格のような作品になる。
だから永遠の子供でありたい憧れと嫌悪感の2つに分かれる評価となる。

■サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」の主人公ホールデンは「自己不確実型精神病質者」とみられる、と。

■あとついでに、アメリカという国は国ごと「強迫的な性格神経症」

などなど、こう列記しただけでも面白さが伝わる人には伝わるでしょう。自分はなぜこれを面白いと思うのか?嫌悪感を抱くのか?そうしたことを精神分析的に見渡せるようになること、そう言う視点をせめて知っておくことは精神衛生上すごくいいことだと俺は思う。

今やっている #舞台バードランド の上田竜也演じる主人公ポールも間違いなく精神病、それも精神分裂病の部類だろう。精神分裂病的な兆候がいくつもみられるようにキャラ設定ができている。自分がしたことと他人がしたことの区別がついてない時があったり、ホンネとタテマエがうまく使い分けられない感じもそうだし、都合よく嘘をつきまくってしまうのも、社会不適合者として、病名がつくほどの人物だ。

そんな破綻した人物を、有名アイドルを主人公に立てて開催できる舞台って改めて懐深いなぁ・・・と思うがその話はおいておいて、そんな破綻した人物を見る時に、ある程度精神分析的視点があれば、(直接的害さえなければという条件付きだが)もう少し暖かく見守れるはずなんだが、と思うんだ。そして作品やライブ自体を楽しみにしてれば、彼の存在場所と社会が接点を持てるわけだ。それはこの舞台脚本がイメージしていると思われる60-70年代のロックスターなどがまさにそうだ。彼らは発言はおろか、行動もひどいし、ヤク中だし、、、今ならロックスターにたどり着く前に干されるか精神病院行きとなってしまうだろう。

昨今の、言葉の上っ面・一部分・肩書きだけでその人の価値を判断しようとする報道・バッシングのあり方が、我々の生きづらさの源1つだなと思う。報道する人、裏アカでつぶやく人自体も大なり小なり病んでいる、という前提をできれば共有したいものだ。そう、この本「ものぐさ精神分析」にもあるように、人間は本能が壊れた生き物なのだから。

誰かが正常で誰かが異常という視点自体が間違っている。

自分もそうだし、皆おかしい、、、言い換えるならば全員違っているのが普通なのだ。そこをスタート地点にできたならば、わずかでも相手と自分に共通点が見つかった時に、好意を持てるようになるわけで、その方が他人に優しくなれる。その相手がどんな肩書きや病名を持っていたとしても、、、と俺は思っている。

精神分析的な視点、理解して噛み砕くのに少し時間はかかるかもしれないが、どんな時代にこの先なろうとも、大切な視点だと思う。

文明文化や常識は変わりゆくけれど、
人間は人間のままだから。

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