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貴方はわたしの希望の光


大きくなるにつれて「どうしてそこまで(物事を)考え抜けるの」と言われることが増えた。ある時は友達から、ある時は面接やインタビューで。

その答えとして、ある企業に提出した自分を表すキャッチフレーズでは「Why?を繰り返し、納得のいく結末を追求する」と表した。納得いかないと気持ち悪くて、それを解消するための思考の癖として自分や、時には相手に「なぜ?」と問いかける自分の性質。幼い頃に「賢い」「頭いい」と褒められた記憶のない私にとってそれは、あとから自分で身につけたものだった。

そして、この思考の癖を身につけたきっかけを、この思考ができたと思える最初の出来事を、私はハッキリと自覚している。



***


あれは忘れもしない中学1年の入学式。

私は地元の公立中学に進まず、女子校の私立中学に進んだ。

全く新しい環境。これまでになかった”制服”というものを身に纏っているワクワク。友達できたらいいな・部活何にしようかな、という期待。それらの一方で、誰もが少しよそよそしく緊張感漂うなか、私たちは式のため、講堂に集められた。

校長先生や来賓の方々の挨拶、お辞儀など、お馴染みの流れのあと、いよいよといった感じではじまる担任の発表、そして彼らの挨拶。

だけど綺麗事ばかりが長々と並ぶのはやっぱり退屈で、はやく終わらないかなぁと私も周りも思っていた。少しして、私のクラスだった1組の担任が発表される間だけ気合を入れて、すぐ気を抜いた。そんななかの、3組の担任の発表のことだった。


当時はたしか30代後半。背はそこそこ高い。かっこよくもかわいくもない、という第一印象の男の先生。

彼は私たちの前に立った瞬間、私たちに問うた。

「『しあわせならてをたたこう』って歌、知ってますか?」


その前に軽い挨拶くらいはしたかもしれないし、その軽い挨拶は彼の挨拶の最後だったかもしれない。だけど、あれから10年経つ今も鮮明に覚えている彼の挨拶は、やはり、幼い息子さんと『おかあさんといっしょ』を見てこの日に相応しいと感じたらしい『しあわせならてをたたこう』なのだ。

彼は流れを作るための言葉を少し語ったあと歌ってみましょう、ではなく「今みなさんでやってみましょう」と言った。ただ手を叩くだけ、足を鳴らすだけでいいから、と宥めるように。


爽やかな風が吹いたようになめらかな挨拶だった。挨拶、というよりも彼のステージであり、親もその子どもである学生も他の先生方も、会場全体が一体となった時間だった。


そしてその最後に言った。

「1年3組の担任、そして、みなさんの国語を担当します、ヤマシナです。この学校に今年から来ました。みなさんと同じ新入生なので、一緒に成長していけたら嬉しいです。授業で会えることを楽しみにしています。」


第一印象で心奪われた、彼のような人を カリスマ と言うのだと、このときの私はまだ、知らない。



それから数日後、ヤマシナ先生とは国語の授業で再会した、気がするけれどあまり覚えていない。


その次に彼にまつわるシーンで覚えているのは、ある日の国語の授業でのことだ。


そのときにはもう、私は水泳部に所属すると決めていて、入部届も提出済(だったはず)で、部活体験のときに一度だけヤマシナ先生を見かけていた。


そんな時期にあった国語の授業でのことだった。ヤマシナ先生は言った。

「僕、水泳部の顧問なんですよ。泳げないのにどうするんだ、って感じだし、自分まだ来たとこだから誰も知らないからどうしようって思ってたんです。でも、こないだ水泳部の活動見に行ったら、そこに座ってるね、(私の苗字)さんがいて。”あ!!知ってる人いる!!よかったぁ”ってめっちゃ嬉しかったんですよ。」

記憶とは当てにならないもので、残念ながら彼が喋ったまんまとはいかない。彼はもっとしゃべりが上手だ。だけど入学式の日に一瞬にして私の心をワクワクさせたあの先生が、私の名前を覚えてくれていた、私の存在を知ってくれていた、そして私が水泳部にいることを嬉しいと言ってくれた、というその感動が私の心を満たしたのはいうまでもない。


そのあとはじめての中間考査において、私は国語で学年トップの成績を残した。以後、中学3年の卒業まで私は常に学年トップ5に居座り続けた。ヤマシナ先生の専門である現代文のみならず、古典や漢文が増えたあとも。


それもあり、私とヤマシナ先生は仲良くなった。



***


ヤマシナ先生のカリスマっぷりは入学式の日だけにとどまらず、日頃の授業でも遺憾無く発揮された。

授業はぬるっとはじまり、みんなの集中力が途切れる頃を見計らったかのように雑談タイムが入り、また”ぼちぼち”という感じで授業が再開され、終わっていった。いつもあっという間だった。週に2〜3回しかない国語の授業がいつも楽しみだった。

雑談タイムでは、同じネタが繰り返されることは一度もなかった。

前述の『水泳部の顧問になった話』もこの雑談タイムで語られたもので、ある日は『就活でディズニーの会社(オリエンタルランド)に入る時に、自己アピールのためにそこら辺の女子高生に声をかけてプリクラを撮りまくってプリ帳を作り、”僕にはこれだけたくさんの友達がいます。僕が御社に入ればディズニーのターゲット層である彼女らのニーズを知ることができ、それを満たす提案をすることができます”と語った話』、ある日は『俳優になりたかったけど、顔面的に選ばれなさそうだから声優のオーディションを受けた話』、ある日は『美容院は何年もずっと同じところに通っていて、同じ美容師さんに毎回おまかせしてたら、何ヶ月か通って完成するらしい髪型にされた話』、ある日は『大学時代、バイトは必ず掛け持ちで1つにつき半年で辞めるっていうルールを作っていた、その時のそれぞれのバイトの話』、ある時は『林 修と知り合いで…という話』、ある時は息子さんの話。

時には仕事上の"大人の事情"をも隠さず語る、先生の"経験"は、私をいつも広い世界に連れて行ってくれた。

すべての話にオチが用意されていて、クスッと笑ったり、そこに込められた意図を汲み取って真剣になったり。まるでひとつの冒険だった。



授業だって普通に教科書を読むだけでは終わらない。現代文の読解のときにはいつだって、予備校のように「国語は感性や運ではありません。テクニックです。」と言い切って、解法テクニックや“文章を読み解く”ということの本質を教えてくれた。教科書なんてほぼ使わなかった。代わりに選ばれる教材は筑摩書房から出ている現代文の問題集や先生が独自ルートで仕入れた予備校の問題集だったし、ある時にはビートルズの曲を聴いて歌詞解釈を、ある時には自由に写真を撮ってそれに合う詩作り、ある時にはタブレットを活用した授業を進めた。俗にいうアクティブ・ラーニングを、最先端だった当時に導入していた。


定期考査の前には放課後に必ずテスト範囲に関する復習の講習会を行った。その講習では「テストには必ずこの問題を入れます」と教えられ、講習会に参加した人だけはそのことを知れてその問題は必ず解けるようになっていた。講習会に来てくれた=勉強意欲がある=“じゃあ得させてあげるね”という仕組みだった。

定期考査の答えには、毎回必ず学年トップ10の人の名前を載せていた。そして、そこに載った人は順位に応じて通知表の数字のもとになる“点数”に加点された。


この加点方式は夏休みのあれこれにも導入された。

1つは、参加任意の夏期講習。

ここでは基本的に何のかを知らされずに模試や入試問題を解かされる。そして、答え合わせのときに「これ、実は一橋大学の過去問です」とか「これ、実は20××年のセンター試験です」とタネ明かしされる。

センター試験や学力調査といったものは案外簡単なことが多い。そういうとき、先生はコメントで「“模試です”、“入試問題です”って構えると難しく感じるかもしれないけど、何も知らずに見てみたら案外解けるでしょ?ここで“思ったより点とれた!”って思た人は、国語力が伸びてる証拠です。よくがんばってますね。」と言う。

反対に、一橋の過去問や東大の過去問(改題)の時には「難しかったですね。でも、あと3〜4年後にはみなさん解けるようになりますよ。」と言って、魔法のように鮮やかな解説をした。偏差値50にも満たない学校の中学生だった私たちを相手に、ヤマシナ先生は決して妥協せず「みなさんの中から5年後、東大生が出ることも夢じゃないと本気で思ってます」と、トップを見据えていつも本気で授業してくれた。



夏休みの加点対象のもう1つは読書感想文だった。

クラス代表、学年代表、県コンクール入賞、といくつかステップがあり、各ステップを経るごとに加点が入った。

中1の時、加点が入ると知らない中で書いた読書感想文はクラス代表に選ばれた。中2の時は県のコンクールで優秀賞をもらった。中3の時は学年代表止まりだったけれど、あとから先生が「(私の名前)さんの文章、僕は好きだったんだけどね」と言ってくれた。

中3の時には読書感想文だけではなくて、生命保険作文ともう1つ何かしらの作文も夏休みの課題として出された。それらも加点対象で、私はそのどちらでも優秀賞をもらった。

加点なんてどうでもよかった。ただヤマシナ先生に褒めてもらいたい、先生を喜ばせたい、という想いだけで3年間、読書感想文や作文を頑張っていた。


ほんとうに人の心を動かすのが上手な人だった。



先生と出会った中学時代は、私にとって地獄の日々だった。

いつ不登校になってもおかしくないような中で、私が3年間無遅刻・無欠席でいられたのは奇跡で、それは水泳部の先輩後輩と先生方に恵まれたおかげだった。

3年間水泳部の顧問をしてくれた歴史専門のダンディなおじいちゃん先生。中3のときの担任で理科専門のうめちゃん先生。数学嫌いな私の成績を中3の時には学年順位一桁まで引き上げてくれた数学専門のおじいちゃん先生。後に母校となる地域トップ高を受験すると聞きつけて手作りのお守りをくれた、非常勤の数学の先生。彼らのことを想うとき、本当に感謝は尽きない。

それでも私にとってヤマシナ先生は、やはり特別だった。

いつだったか、先生は私のことを「完璧な人」「成績も良くて、ピアノ(伴奏)も上手くて、歌も上手くて、水泳もできて、文章書くのも上手で、ちゃんと意図を汲み取る賢さもある。」と称した。その上で「俺とか、歳が離れた人から見たら素直に”ああ、すごいな”って思えるけど、世の中にはそう思えない人もいるし、そういう人が大半だったりする。(私の名前)さんの正しさやすごさを、認められない弱い人もいるんだってことは、覚えておいた方がいい。」と言った。正直な気持ちや綺麗事のない現実は先生が伝えてくれさえすれば、私の生きる糧となった。



先生は3年間、私のクラスの現代文の担当であり続けたし、2年までは古文漢文の担当でもあったけれど、水泳部の顧問だったのは中1の1年間だけで中2からは文芸部の顧問になってしまったし、3年間一度も担任になったことはなかった。

中1の終わり、先生が水泳部に来る最後の日、部活が終わった時に呼び止められて「これ、ほんまは言っちゃあかんから他の人には内緒やねんけど、」と水泳部の顧問から外れること、文芸部の顧問になること、本当は6年間水泳部の顧問として私を見守っていたかったことを、私にだけ、教えてくれた。

すごく、すごくショックだったけれど、本当は教えてはいけないことを教えてくれるくらい、自分は先生から信頼されているんだ、ということが何より嬉しかった。


中1で出会って仲良くなって誰にも話せないような悩みも打ち明けることができた先生の元には3年間、よく通った。2人だけのとき、先生が教師としての意見ではなくて、対等に、一個人としての意見を伝えてくれることが嬉しかった。

中高一貫であるこの学校を出て公立高校に進学する、という選択肢が浮上した時も、真っ先にヤマシナ先生に相談した。先生は、もちろんそれもいい選択だと思う、と言ったのち「これは俺の勝手な気持ちだけど、本音を言えば行かないでほしい。」と言ってくれた。結局、公立高校に行く、と言った時には「(私の名前)さんなら、公立高校の入試問題くらい、特に国語は余裕やと思うけど、わからん問題あったらいつでも聞いて。」と応援してくれた。



ヤマシナ先生はとにかく変わった人だった。

(本人も度々自分で言うけれど)おっさんなのに、趣味嗜好がとにかく女性的でスイーツやピンク色といったかわいいものに目がないし、イケメンが大好き。KAT-TUNの赤西くんが好きでライブで女の子たちに混じってきゃーきゃー言ってる自分を見て赤西くんが「え?男!?」ってびっくりした顔していたことを“自分の存在を認知してくれたんや"と喜んだことや、退所の時にボロ泣きしたことをジャニオタのテンションで語るし、K-POPにハマってLINEのアイコンが韓国アイドルだったりもした。

クラスの中心の子たちが先生のことを「キモ」「ムカつく」と言うことに対してはムカついたけれど、「ヤマシナに言われるとムカつくけどなんかやる気出るんだよな〜」と先生の策略にまんまと引っかかっていたのは痛快だった。そんな先生は彼女らからイジられはしても嫌われることはなかった。



ヤマシナ先生みたいな人になりたい。


それは私が、将来の夢を職業名でなく、どんな人になりたいか、という目線で考えるようになったきっかけだった。


先生の持つ”カリスマ性”は天性のもので、凡人の私に真似できるようなものではないとわかっていた。

それでも諦めきれなかった。


だから、凡人なりに”カリスマ性”の正体を必死に考えた。

それが私の思考力の原点だった。

つまり、それまで思考力を自覚したことがなかった私が初めて思考力を発揮したのは、ヤマシナ先生のような大人になるためにはどうすればいいのか?だったということだ。

私が先生に惹かれた理由。

①オリジナリティ(誰にも真似できない授業アイデア)
②おもしろい話ができること(雑談力がある)
③人をやる気にさせるのが上手なこと

それらを自分の中に落とし込むためには、人間力をつけること、その中身として「幅広い知識を身につけて、いろいろな経験をすること」が必要だと結論づけた。


後に、私立の中高一貫校にいながら高校受験を決意したこと、大学受験において苦手な理科や数学をやることになっても国公立を目指した勉強をしたこと、その結果受験に落ちても”不合格ではあったけどこの経験は必ず私の財産になる”と思えたこと、最後まで心理学を学ぶことを諦めなかったこと、「自分の価値観を変える必要はない。伝え方や言葉次第で価値観が違う人とも繋がれる可能性はあるかもしれない」と考えて言葉を工夫することに注目したこと。それらは全て、このときヤマシナ先生に出会い、彼のようになりたいと憧れ、見出した行動軸があったからだ。



中学を卒業してから、ヤマシナ先生には2度会った。


1度目は、高校1年の時。文芸部関連の会議が私の高校で行われたらしく、それに出席するために来たヤマシナ先生に会うことができた。当時の担任から突然呼び出され、向かう途中に担任から「恩師なんでしょ?少々次の私の授業遅れてもいいから、しっかりお話ししてきなさい。」といってもらえたことを昨日のように思い出せる。

その日、「(中学)にいた時よりも、生き生きしてる。元気そうで、よかった。」とヤマシナ先生は言ってくれた。


2度目は大学受験を終えてからだった。

毎年交換していた年賀状に、いつだったか「連絡先です。(私の名前)さんにだけ、教えておきます」と添えられていた。あまりに嬉しすぎて、すぐに登録したその連絡先を使った何度目かの連絡で、会いましょう、となった。

久しぶりに会った先生の変わった点は、奥様と離婚して息子さんと2人で暮らしていたことくらいで、本当に変わっていなかった。

当初の予定だと、私たちと6年間過ごしたら他の学校に異動するはずだったけれど「もう少し残ってほしい」と引き止められて、結局私の中学に残っているとのことだった。

いつだったか、先生はうちの中学の改革のためにやってきた、と言っていた。それほどのものを持っている先生だったな、と今でも思う。


高校卒業後、一度だけ「どうやったら先生のような人になれますか?」と本人に聞いたことがある。

その答えは、大学生時代の過ごし方をメインに語られたけれど、私には、というよりもほとんどの人には真似できないような、先生なりのマイルールで埋め尽くされていた。(例えば、恋人とは最長6ヶ月で別れる【多様な価値観を知るため】、携帯を買い換えるたびに連絡先をかえて人間関係をリセットする【色んな人とつながるため】など)

もちろん先生が先生のような人になれたのには天性のものもあるだろうけれど、その裏には努力もちゃんとあったんだな、と知った。

その頃には、先生のような人になりたいからと言って、必ずしも先生と同じルートを辿る必要はないということをわかっていたから、盲信することなく”私には真似できないな”と素直に思えた。



最後にあったあの日「(私の大学のキャンパス)はうちに近いし、またぜひ会いましょう。」と先生は言ってくれた。何があったわけでもないけれど、それ以来、先生には連絡もとっていないし、会ってもいない。

きっと、先生から卒業するタイミングだったのだろう、と思っている。




中学を卒業して7年。
今でも時々、先生のことを思い出す。

あれから私もたくさんの人に出会って、いろんなものを見聞きして、さまざまな経験をして、いろんなことを知り、考えた。

それでもやはり、先生を超えるカリスマには出会っていないし、先生から見出した自分軸は変わらずそこに、ある。




ヤマシナ先生

お元気ですか。私は元気です。

突然ですがこの夏、憧れのパリへ留学に行くことになりました。そこで使うお金を貯めようと、今必死でコンビニのバイトをしています。先生が私たちにしてくれたおもしろい雑談はこういうところから生まれるのかもしれないと思うと、理不尽なことがあっても「これも社会勉強だな」と頑張れます。

大学に入ってから、noteというプラットフォームでエッセイを綴っています。先生が、私の読書感想文を褒めてくれたから、私は今もこうやって文章を書いています。

そして今年の2月、就活を終えました。来年からは東京で働きます。
いつだったか、先生は「東京は山手線1駅で1日中遊べるんだよ」と教えてくれましたね。やっとそれを体験することができそうです。

この数年、いろんなことがありました。
もちろん中学時代も先生と過ごした時間は素晴らしいものでしたが、中学よりも高校、高校よりも大学が、楽しいです。常に、現在が人生で一番楽しいです。きっと今後、先生とお話しするときは中学時代に話していたような暗く、悲しい話ではなく、明るく、前向きな話ができます。

それはやっぱり、中学時代に先生と出会い、先生からたくさんのことを学べたからだと思います。

オリジナリティあふれる授業。雑談タイムのおもしろい小噺。私たちをやる気にさせる説得の言葉たち。あの頃から今も変わらず、先生は私の憧れです。

先生、私と出会ってくださり、ありがとうございました。私のことを信じてくれて、対等に話してくれて、ありがとうございました。

どうか、また会う日まで、お元気で。

ずっとずっと、大好きです。










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