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完璧で、生きづらくて、憎めない日々に。

【はじめに】
今回の記事はあまり綺麗な文章ではありません。
映画鑑賞直後、駅のホームでぶわーっと書いたものを、そのまま公開しています。
もちろんちゃんと推敲してからアップしようかと思っていたのですが、この作品に関しては、なんだかこれで良い気がしました。

お時間ある方は是非。


*** ***


この映画について、つらつらと分かったような気で第三者の言葉を当てるようなことはしたくないのだが、それでも勝手ながら、ヴィムヴェンダースの描く世界と、わたし自身の生きている世界に、少しの"繋がり"を感じることができたため、ここに鑑賞直後の気持ちを書き記しておこうと思う。


『PERFECT DAYS』
そのタイトルが伝えるように、元よりこの世界は完璧な日々の集まりなのであろう。

風に木の葉が揺れて、光と影が行ったり来たりと重なり合うことによってできる「木漏れ日」が美しいように、ある種の理として、この世界に映る光と影それぞれの側面が、その調和が、すでに"完璧な日々"を成しているのだと思う。

それなのに、ちょっとずつこの世界に生きにくさを覚えるのは、そんな光と影の重なりを美しいと思う者と、思わない者、その両者が混在しているからなのかもしれない。

光と影の重なりを美しいと思ってしまう人間(映画でいう役所広司)は、日常のあらゆる場面で、ただ単に「木漏れ日」の瞬間に立ち会いたいだけなのだろう。「人の優しさ」とか「関わり」とか「愛情」なんて言葉でも表現できるのかもしれないが、それが「光同士」「影同士」のものでは仕方がなくて、あくまで"光と影の重なり"によって育まれるそれであって欲しいと願ってしまうのだと思う。それが自身の弱さであることは分かっているし、でもそれを見て見ぬふりをするのは生きている実感が得られない。偉そうな口を叩いてしまうが、その気持ちにわたしは痛いほど共感してしまった。

だから一見すると、人がやりたくないことをやって…とか、誰かを差別しないで平等に接していて…とか、それにすごいね、偉いね、インテリだねなんて言葉をかけてもらえるときがあるけれど、そんな言葉を貰うための行動なんかじゃないし、そもそもそんなこともないし、ただ自分が幸せを感じていたい、本来あるべき"完璧な日常"を感じていたいために、自分勝手に生活しているだけのことなんだよなと思う。

自分に何か利益がもたらされるわけではなくとも、他人の光と影の重なりを見ることができたら喜ぶし。
反対にそれまで感じられていた重なりが途切れる、途切れさせるような行為を見ると怒りが込み上げてくる。
繋がりが見えすぎてしまうことで哀しみを感じることがあるし、これは光と影が繋がる瞬間かもしれないと思える場に立ち会うと楽しくなったりする。
喜怒哀楽あって、それがまた豊かに感じられたりもして、なんかよく分からないけど、そこに生きていられるという感覚。

でも、自分のこの感覚が必ずしも正しいとは思えないから、この価値観を人に押し付けることもできなくて、結局できることといえば、"完璧な日々"のひとかけらとして、たまに傍観者になったり、ちょっとだけ首を突っ込んでみたりして、ただ素直に生きるだけ。「今は今、今度は今度」って言うことしかできないんだろう。

時には自分の意に反して、影同士を重ね合わせることが必要なときもある。そんなことをやっても仕方ないとは分かっているけど、でももしそんな場に自分の身を置いてしまったなら、自分が光のような存在になるか、より一層暗い影となって、重なり合うことで変化をしていると思わせたいし、思いたい。無意味と分かっていても、それを信じることくらいでやっと、自分が"完璧な日々"の一部になれるのではないかと思ってしまうのだ。

もちろんそれにやるせなさを感じたり、でも自分が感じたところで何の意味もないことは分かっていたりする。そんな思考でぐるぐるしていても仕方がないから、束の間は音楽を聴いたり、本を読んだりして、この世界に生きていながらちょっとだけ隔絶された場所に身を置きたい瞬間があるんだと思う。そこまで考えての行動かどうかは分からないけど、きっと深層心理はそんなことなんだと思う。

そうやって自分だけの世界も確立した上で眠りにつくのに、夢で見る光景には美しい木漏れ日だけでなく、光と影、どちらか一方の強い刺激を避けて通れないんだから、まだまだ自分は弱いなぁと思うし、生きていくのって大変だなぁと思ったりするのかもしれない。

ただ、そんな風に世界を見ている人もいると伝えてくれるこの映画は、本当に優しい作品だなと思う。物語として取り上げた職業は「トイレ掃除」だったけど、別にどんな仕事でも、どんな年齢でも、どんなコミュニティでも、この感覚の人たちは確かに存在していて、別にそれが良いとか悪いではないけれど、ちょっと同じように頭上の木漏れ日を一緒に見てくれるような人が増えたらなと思ったりする。

作品として誰の人生にも強烈なインパクトを与えるものではないけれど、ふとした瞬間に『PERFECT DAYS』に映ったその景色がフラッシュバックするのであれば、そんなに素敵なことはないだろうな。

今はただ良い映画を観たなぁと思って、わたしの愛する人たちがこの映画を観たらどんな感想を抱くのかなぁなんて想像して、ぼーっとすることしかできないけど。



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本当にとりとめのない文章で失礼しました。

そして、これまた「だからなんなの?」というお話ですが、劇中の役所広司と同じように、わたしもよくフィルムカメラを持ち歩いています。

そんな日常の中で、偶然にも同じような写真を撮っていて、なんだか心にじんわりとくるものがありました。

2021年11月
2022年6月
2022年6月

諸行無常の毎日で、変わっていくものばかりで、安らぎを得たかと思えば、激しく傷ついたり、傷ついたかと思えば、また安らいだり。本当に忙しない日々だけれど、それでも留めておけたらいいなって思う瞬間は、確かに存在しているんですよね。

こんな写真1枚を通じて、「これは自分のことを描いている作品だ!」なんて思うことはないのですが、いろいろと自分の生き方や、世の中に溢れた様々な思惑や思想や言動について考えているときに、こういう作品と出逢うというのは、本当に不思議なものだなと思います。

わたしが映画レビューを書くときは、鑑賞直後の気持ちが高ぶっている間に、こんな風にとりあえず思ったことをぶわーっと書いています(スピード重視)
それから日を改めて、必要そうな情報を足したり、ポエミー過ぎて恥ずかしくなる文章を削除したりして最終的にアップすることが多いのですが、今回ばかりはそのままの状態が心地よく感じられました。

劇中の役所広司の設定年齢はおそらく40~50代で、スマホやネットの類には疎いという描き方をされていましたが、彼がSNSを使うとしたらどんなことを発信して、どんなことを共有するんでしょう。

冒頭お伝えした通り、この映画について、第三者があれやこれやと考察したり、論を立てたりするのはなんだか違う気がします。それでも、この作品を観て、一緒になって「木漏れ日」を浴びる人たちがいたらいいなと思ったので、あなたの隣のベンチにも腰掛けてる人がいる、くらいの感覚で、わたしの拙い文章を公開しておくことにしました。

完璧で、生きづらくて、憎めない日々。
泣きながら笑って、笑いながら泣いて、その歩みを進めることしかできないですよね。

作品を作った方々にこの文章が届くとは思えませんが、ヴィムヴェンダース監督と、俳優 役所広司と、すべての製作スタッフの皆さまに、ありがとうと伝えたい1作でした。

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