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「愛を伝えたいだとか」が『美女と野獣』の歌に聴こえる件。

いきなりルッキズムの話で申し訳ないが、あいみょんは可愛い。
見るたびに素敵な女性になっていくなぁと思う著名人第1位と言っても過言ではないほど、わたしの中であいみょんは日に日にその輝きを増していく。

そんな彼女にハマったきっかけが2017年のシングル「愛を伝えたいだとか」だ。

「エモい歌」なんて言葉に収めてしまっては勿体ない。あいみょんというアーティスト感、その魅惑的な世界の扉はこの1曲で開かれたと表現したいほど、わたしはこの曲の素晴らしさに常々惚れ込んでいる。

軽快なグルーヴなのに、ちょっとどこか気だるいリズム。流れるようなメロディと、掴み切れたと思えばまた新たな解釈の余地が生まれるスルメ的歌詞。完璧である。何度繰り返し聴いてもその新鮮さが色褪せない。とにかく心地が良い曲、それが「愛を伝えたいだとか」なのだ。

わたしのお気に入りプレイリストには、かなりの高頻度で登場する本楽曲であるがゆえ、最近ではもはや日常に溶け込んだ1曲として生活の一部にすらなっていたのだが、先日ふと改めて、この曲の歌詞を1文1文丁寧に読み進めてみた。

すると、どうだろう。
わたしの中で、とあるディズニー映画の影が色濃く焼き付いてしまったではないか。

聞けば聞くほど、あの映画じゃん。
そんなディズニースパイラルに陥ったわたしは、慌てて「愛を伝えたいだとか」の歌詞考察ブログを読み漁るも、ディズニー映画との関連性を示しているものなどあるはずもなかった。

ならばパイオニアになるほかないだろう。
このまま1人で「あいみょん×ディズニー」の重荷を背負って生きていくことはできない。

今回はあいみょんの楽曲「愛を伝えたいだとか」と、とあるディズニー映画『美女と野獣』の関係考察をお届けしたいと思う。無論、茶番である。


***


バラの花に願いを込めて

元はといえば、そんな「愛を伝えたいだとか」の歌詞を読みふける数日前、ディズニーランドに行って『美女と野獣』のアトラクションになぞ乗ってしまったことが原因である。気の知れた仲間たちと、なんの後腐れもなく行ったディズニーがよほど楽しかったのか、その後数日間は『美女と野獣』のサントラと、あいみょんの曲のミックスが、わたしの耳元で鳴り響いていた。

そんな偶然の産物が、今回の考察である。
特に気になってしまったのは「バラ」の描写だ。

ご存知の通り、ディズニー映画『美女と野獣』のキーアイテムとして登場するのは、一輪のバラの花だ。このバラの最後の花びらが落ちるまでに、"真実の愛"を見つけることができれば、野獣は元の姿に戻れるという王道ラブストーリーのそれ。つまり、ディズニー史上最もロマンチックなアイテムともいえるバラは、恐ろしい呪いの象徴でもあるというわけで、獰猛で怪力の野獣が、たった一輪のバラを前に何もできない、というその儚さを描くさまが、この物語の非常に大きなミソなのである。
権力やパワーではどうにもできないという、無力さに打ちひしがれている野獣の様子から映画の幕が開かれるために、クライマックスに向けて展開する"美女と野獣"のダンスシーンや、そこで歌われる歌詞(やさしさが ひらいてく 愛の扉)に否が応でも感動できるのだ。

そんな『美女と野獣』のストーリーを頭の片隅に置いた上で、あいみょんの「愛を伝えたいだとか」に話を切り替えてみよう。

印象的な1番のサビ。そのはじまりはこれだ。

「バラの花に願い込めてさ 馬鹿な夢で踊ろう」

バラの花に願い込めてさ?馬鹿な夢で踊ろう???(2回も言うな)

そんな美しくも儚すぎる歌詞があっていいのだろうか?(それがあいみょんの魅力)

飛躍した論だということは重々理解している。
が、わたしはこのワンフレーズが、どうにも野獣視点の切なすぎる心の声に聴こえてしまったのだ。(ディズニーに毒され過ぎ。)

というかむしろ、この世の中で野獣以外、バラの花に願いを込めて、馬鹿な夢で踊ろうなんて思い至るやつがいていいのだろうか。

たった一輪のバラを前に、諦めと微かな希望が入り乱れる「愛を伝えたいだとか」は、『美女と野獣』に登場する王子であり野獣の、彼の視点で描かれた歌ではないかという仮説を、まずは受け入れていただこう。


***


今日(こそ)は日が落ちる頃に会えるの?

では、ここから先は「愛を伝えたいだとか」の歌詞全文を、映画『美女と野獣』に照らし合わせていってみよう。



健康的な朝だな こんな時に"君の愛してる"が聞きたいや
揺れるカーテン 少し浮いた前髪もすべて 心地いいさ

歌い出しのかなり印象的なフレーズ、「健康的な朝」。
奇しくも『美女と野獣』のオープニングも、清々しく晴れた「朝」からはじまることをご存知だろうか。街中でベルが歌い出す冒頭のミュージカルシーンでは「朝の風景」という曲が使われ、本を片手に青空に向かって歌い上げるベルの姿は、まさに"健康"そのもの。
だがこれは野獣視点の歌。そんな街中にいるベルを(このときはまだ彼女の存在を知らないが)想って、本物の"愛してる"を求めていると考えたら、最初の一節から涙である。
さらに、鏡を見れば醜い野獣の姿ではあるが、そんな容姿にもすっかり慣れてしまい、少し浮いた前髪が心地いいだなんて思ってすらいるとしたら、続くフレーズにも不思議な哀愁を感じられるはずだ。


それに割れてしまった目玉焼き ついてないな
バランスをとっても溢れちゃうや
少し辛くて 少し酸っぱくて 甘ったるかったりさ

そして場面は変わり、朝食ダイニングの描写のようである。
『美女と野獣』といえば、野獣の召使いであるルミエールが歌う「ひとりぼっちの晩餐会」も有名な曲の1つだ。真夜中の城に迷い込んだベルを、豪華なディナーで歓迎する「Be Our Guest」と対を成すかの如く、ここでは早朝に野獣がひとりで食す質素なブレックファストを慎ましやかに歌っていると見て取れる。
またそんな寂しさを「溢れちゃう」と表現するとは何たる風情だろう。本当は愛する人と囲むべきダイニングテーブルであるはずなのに、野獣1人の体重だけで、ぐったりと傾いてしまった家具すらも連想させるではないか。
それでも「辛くて酸っぱくて甘ったるい」と、たくさんの味とちゃんと向き合ってきたことが伺える最後の1文。ここに野獣の本当の心を感じることができ、サビへと向かうわけだ。


とりあえず今日は
バラの花に願い込めてさ 馬鹿な夢で踊ろう
愛を伝えたいだとか 臭いことばっか考えて待ってても
だんだんソファに沈んでいくだけ

前述の通り、「バラ」の花への願いなのである。
野獣は過去の過ちを深く深く反省したのだ。反省して、反省して、自分を見つめ直して、酸いも甘いもすべて知って受け入れて、誰かを愛する準備はいつでもできている。それなのに、肝心の"誰か"が現れてくれない。愛を伝えたいから、今すぐここに、"誰か"が現れてはくれないかと、願う。まったく嘆かわしい歌ではないか。


僕が明日良い男になるわけでもないからさ
焦らずにいるよ
今日は日が落ちる頃に会えるの?

1番サビのラストである。
「明日、良い男になるわけでもない。」

そう。願ってみてはいるけれど、たとえ今日明日、自分を愛してくれるなどという"誰か"が、万が一にでも現れたとて、それですぐに元通りの姿になれるわけではないのだ。それも野獣は理解しているのだ。
だから彼はじっと堪えている。愛とは忙しなく求め合うものではなく、ゆっくりと2人の間に流れる時間を愛でるものなのだと、そんなことすらも伝えてくれているかのようではないか。

それでも彼には"期限"があるから。"呪い"があるから。やっぱり今日こそは日が落ちる頃に会えるのかと、最後にどうしても付け加えざるを得ないのだろう…。


"完璧な男になんて惹かれない"と 君が笑ってたから悔しいや
腐るほどに話したいこと沢山あるのにな 寂しいさ

2番になると、いきなり目の前にベルがいる。
しかも、2人の世界がある程度出来上がった仲として描かれている。
そう、野獣も理解をしていた通り、"誰か"が現れただけでは解決しないその歯がゆさが、2番以降で歌われるのである。そして、ここからが本当の試練でもあると告げるように。

『美女と野獣』の中では、お互いが少しずつ心を開き始め、野獣がベルのために城の図書館を見せてあげたり、ベルが野獣の身だしなみを整えてあげたりするシーンと重ね合わせることができるかもしれない。
付き合いたてのカップルを見るかのような微笑ましさがある反面、愛とは、恋とは、難しいものだ、という現実も同時に滲み出てくるのである。
完璧じゃない男なんて論外、でも完璧すぎる男も魅力的ではないと。そういうものなのだ。(しんどい)
目の前に理想的なあなたがいて、話したいこと、聞きたいこと、それはそれは山のようにあるというのに、寂しいなんて、実に切ないな。うう。


結局のところ君はさ どうしたいの?
まじで僕に愛される気あんの?
雫が落ちてる 窓際目の際お気に入りの花

ここでやってしまった。
愛を、相手に、求めてしまった。
でも野獣だって人間だもの。焦りだってあるだろう。相手の気持ちを試すような質問はナンセンスだと、頭では分かっていても「愛される気あんの?」と、そんな思いが先行してしまうこともある。(断言)
だがそんなことを思ってしまった後は決まって、野獣の目からも雫がこぼれてしまったりするわけだ。そして思うのだろう、こんなバラの花に、何を狂わされているんだと。そんなはずがあるわけもないのに、お気に入りの花にでもなったかの如く、毎日同じバラを眺めることしかできない辛さたるや。
そしてすっかり気持ちも塞ぎ込みたくなったところで、2番のサビである。


とりあえず今日は
部屋の明かり早めに消してさ どうでもいい夢を見よう
明日は2人で過ごしたいなんて 考えていてもドアは開かないし
だんだんおセンチになるだけだ

「部屋の明かりを早めに消して、どうでもいい夢を見よう」
な~んだ、結局2人で過ごしてるんじゃん、このこの~~!と思ったのも束の間、「明日は2人で過ごしたいなんて」と続くことで、まさに"ひとりぼっち"の夜であったことが明かされる、この神がかった歌詞の運び。
そして己の女々しさも、弱さも、情けなさも、すべてを2番のサビで曝け出すことで、改めて野獣の心は"ただの人間"であることが強調されているかのようではないか。
これはゴリゴリの主観でしかないが、こんなにどうしようもない歌詞なのに、なぜか2番のサビが、わたしは最も心地よく聴こえてくるのである。それはひとえに、この曲全体の中で、最も嘘偽りない感情が剥きだしになっているフレーズだからなのかなぁと、そんなことすらも感じられたりするわけだ。


僕は愛がなんだとか言うわけでもないけど
ただ切ないと言えば キリがないくらいなんだ もう嫌だ

うん、そうだろう。
野獣の姿で城に籠り切り。愛する人がいても、一筋縄でいかない恋。そりゃそうなるだろう。


ろうそく炊いて バカでかいケーキがあっても
君が食いつくわけでもないだろう
情けないずるいことばかりを 考えてしまう

ここで2人の出逢いの記憶とも言えるであろう、ベルが城に迷い込んだ夜の「ひとりぼっちの晩餐会」を彷彿とさせるかのような描写である。
だが本物の愛とは、ただ何かを与えるだけで得られるほど簡単なものではない。嘘と見せかけで、ずるいことばかりを考えてみたところで、それらしい愛を取り繕うことはできても、それではまったく意味がないことくらい分かっているのだ・・・。
そして続く、最後のサビである。


今日は バラの花もないよ
汚れてるシャツに履き慣れたジーパンで
愛を伝えたいだとか 臭いことばっか考えて待ってても
だんだんソファに沈んでいくだけ

映画さながらのクライマックス。
ここで、「バラの花もない」= バラの花のためではないと歌い上げるというのだ。
このフレーズ、枯れ行くバラのためではなく、目の前にいるあなた、ベルのためでなければならないと表現しているようには思えないだろうか。それはすなわち、バラに支配された野獣からの解放すらも意味し、野獣の姿から打って変わって、履き慣れたジーパンにすら着替えてしまっているほどだ。
そして再び、1番のサビと同じフレーズを歌う。だが今度は、"誰か"が現れるの待っている状態ではなく、目の前の君に向かって、本当の愛に向かって、真実の愛の言葉を探す中での思慮深さで、ソファに沈み込んでいるのかもしれないと思えるだろう。


僕が明日良い男になるわけでもないからさ
焦らずにいるよ
今日は日が落ちる頃に会えるの?

そして続く、1番のサビとまったく同じフレーズでのラスト。
だがこれまでの流れを踏まえて聴けば、不思議と明日は良い男になる気がするし、今日こそは日が落ちる頃に会えるような気がしてくる。そしてここで言う「日が落ちる頃」は、「十分すぎる日数が経過した頃」「最後のバラの花びらが落ちる頃」と読み替えることができるだろうし、「会えるの?」は、もはや愛する"誰か"などではなく、生まれ変わった自分自身に会えるのか?と考えるのが最適解だろう。

そうしてゆっくりフェードアウトしていって、わたしの考察も幕を閉じるというわけだ。


***


愛を伝えたいだとか

さて、ここまで読み進めてくれた皆が思っているだろう。
「そんな綺麗な歌なわけがあるかい!」と。

そう、そんなわけはないのである。
今回は"お上品優等生気質"の「ディズニー」という魔法を借りて、かなりの意訳で本楽曲を可能な限りの純愛に見立ててみたが、一度でもこの曲を聴いたことがある人なら分かる通り、"真実の愛"とひと口で表現できるほど綺麗な収まりの物語ではなく、良くも悪くももっと歪んだ愛の様子が節々に見え隠れする、というのが本来の姿だろう。

わたしがこの曲を初めて聴いたときの解釈は、単純に「彼女と上手くいっていない男の嘆き」だと思った。

だが次第にその解釈と解像度は広がり、「もしや制約の厳しさに嘆く同性同士の恋愛なのでは?」とか「思い通りにいかない歳の差や、身分差がある恋なのでは?」とか「相手の浮気や不倫を知ってしまった日の朝の歌なのではないのか?」などなどと、その考察は止まることを知らず、気付けばこんな荒唐無稽な論にまで飛躍してしまっていた。

だが「面白い」とはこういうことだと思う。
同じ曲なのに、その曲を聴くときの自分の年齢や、境遇や、環境や、気温や、曜日や、体調などと相互作用的に関わり合って、その時々でまったく新しい解釈が生まれる体験。そしてそんな体験を届けてくれる曲、エンタメ、人やもの、そういうことが「面白い」の本当だと思っている。
その意味で「愛を伝えたいだとか」は、やっぱり面白い曲なのだ。

しかし、たとえどんな解釈であれ、その「面白さ」のどれにも共通しているのは「愛を伝えたい」という願望なのだ。いや、正しく言うならば「愛を伝えたいだとか」という見えない含みをも持った人間らしい願望なのである。

その断言できない弱さというか、可愛らしさに、我々はたくさんの解釈の余地を持たせてもらっているのだろう。余白のあるものは、素敵だ。この歌の解釈が、今後もわたしの中で増えていくことを楽しみに、まだまだ色んなことに首を突っ込みたい。

以上そんな話だとか、である。


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