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カリオストロ伯爵の言葉にドキッとして、クラリスと自分を重ねて。

名作『ルパン三世:カリオストロの城』
若かりし頃の宮崎駿が監督したルパン映画の原点にして頂点。
何度観ても新しい発見があり、ドキドキわくわくし、スクリーンの前でみんながみんなかつての童心を思い出す。宮崎アニメーションの中で、これを上回る傑作はない。(※個人の感想です)

『カリオストロ』といえば、誰もが知る名セリフがある。
「やつはとんでもないものを盗んでいきました。あなたの心です。」

銭形のとっつぁんが、本作のヒロインであるクラリスにかける最後のひと言。このひと言のおかげで、本作はただの子供向けアニメ映画ではなく、歴としたアニメーション映画として世界中で評価されている、と言っても過言ではないだろう。

わたしも長らく、ラストのこの粋な台詞が聞きたいがために、本作を何度も繰り返し観ていた過去があるのだが、最近久しぶりに流し見していたら、まったく別の台詞が頭から離れなくなってしまった。

そう、カリオストロ伯爵がクラリスに畳みかける一幕だ。

「(人殺し?) そうとも、俺の手は血まみれだ」
「だが、お前もそうさ」
「我が伯爵家は、代々お前たち大公家の影として、謀略と暗殺をつかさどり、国を支えてきたのだ」
「それを知らんとは言わさんぞ」
「お前もカリオストロの人間だ、その体には俺と同じ古いゴートの血が流れている」

なんとも味わい深い・・・
わたしはこの台詞に思わずドキッとしてしまった。

***

残念ながら(?) わたしはゴート族のような由緒正しい家系の人間ではない。国家だの謀略だのと、そんなこととは無縁の生活である。(大抵みんなそう)

だが、多かれ少なかれ、歴史に過ちは付き物で、時代が違えば正義も違う。きっと我が先祖にも人様には口が裂けても言えないような話があることだろう。田舎の小さな家系ひとつ取ってみたってそう思うのだから、誰もが知る大企業や団体、国家単位で見たら、そんなもの日常茶飯事のはずである。
そんな~と思うかもしれないが、歴史とはそういうものである。その時々の正義があり、その時々の正しさに、誰しも心酔して生きていくしかないのだ。

当たり前はどんどんと塗り替えられ、時代が進めば進むほどほど、倫理とか正義とかの基準が曖昧になってくる。物事は計り知れないほど多面的で、自分がどれだけ小さな存在かをまざまざと突きつけられ、大切だった何かがプツンと音を立てて切れていくことが幾度となく訪れる。

自分らしさや価値観なんてものは二の次で、世界標準で、世間一般論で、正とされることにしがみつくことに必死…そんな日常が誰の前にも広がっている。世間を騒がすニュースも、身の回りに起こる嫌な出来事も、結局はその理想と現実の狭間で発生していること。ゴートの血に抗うクラリスと、事実に従う伯爵。この構図が今も昔もどこにでも、蔓延って離れないのである。

***

そんな不条理・・・と落胆もしたくなるが、本作はそんな世の中を生きていくクラリスに、わたしたちに、これでもか!というほどのエールを送ってくれていた。古めかしいジャパニーズアニメーション映画は、いつだって物事の本質を捉え、1歩も2歩も先の世の中を見据えているのだなぁと感心してしまう。

映画のラスト、覆すことのできない事実を知り、クラリスはルパン一味とともに泥棒になることを望む。一緒に泥棒家業に入り、ルパンとともに自由に暮らすんだと。
だが、この決断では、結局ゴートの血に従うことと、大きくは同じなのだ。

目の前に広がる理想を追い求め、足るを知らずに生きていこうとしてしまう。クラリスも、わたしたちも、この決断に陥ってしまうことがある。だから、ルパンは言うのだ・・・

「バカなこと言うんじゃないよ、また闇の中へ戻りたいのかい? やっとお陽さまの下に出られたんじゃないか、お前さんの人生は、これから始まるんだぜ」


くさい台詞だ。
伯爵の台詞と比べたら、実に陳腐で、子供騙しのようで、垢抜けない台詞である。だが一方で、この言葉を信じずに、わたしたちはどう生きていこうと言うのだ。

現実にはこんなくさい台詞を言ってくれる人はそういない。
だからこそ、ルパンの言葉を自分事として受け入れ、クラリスのようにしっかりと生きていくことを、わたしたちは肝に銘じないといけない。

事実が明るみに出たとき、正しさの基準が変わったとき、蹴りを付けたとき、見切りを付けたとき。お陽さまの下に出られたそのときに、いつだってわたしたちはその生き方を問われている。

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