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改めて『ワンハリ』の魅力を語らせて。

恐ろしいもので...今年も残すところ20日ほどとなって来ました。
先日「今年いちばん面白かった映画は?」と不意に聞かれ、ぼーっと頭に浮かんだ作品は『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド/エクステンデッド・カット版』でした。笑
要は未公開シーンを入れて10分拡大しただけの『ワンハリ』なんですが、2019年の夏に公開されて以後、私はずっと本作が大好きだと声高に叫んでいます。

そして明日、『ワンハリ』でもそのクズっぷりが最高だったレオナルド・ディカプリオ(以下:レオ様)の新たなクズさ...もとい、新作『ドント・ルックアップ』が公開されるということで、改めて映画『ワンハリ』の魅力を語りたいと思います。なんだかんだnoteで書いていませんでした←

それではいきましょう!

永遠に「表裏一体」を描き続ける傑作

早速やかましい章立てですが...私にとって『ワンハリ』の魅力は、この一文がすべてです。

そもそも私は、この「表裏一体」という言葉・概念が大好きです。
物事には様々な側面があり、人には多様な顔があります。
世の中は思っている以上に複雑で、善と悪、陰と陽、生と死、男と女、喜びと悲しみ、無知と全能、風呂掃除とやる気(?)、などなど、どちらが正しいとか間違っているではなく、あらゆる物事が表裏一体で、不可分的な関係性によって維持されているという話です。これは皆さんも常日頃感じていることでしょう。

本作にはこれといって大きなストーリーがありません。
起承転結はある意味崩壊しており、物語を成していません。
ですが、これすらも「表裏一体」であり、究極的な日常こそ劇的な物語であると、そんな"ずるい"演出をひたすらに続けることが、本作の主たる物語になっていく様はまさに芸術です(褒めすぎ)

ではこの2時間40分で何が描かれているのか・・・


・レオ様とブラピ/光と影

まずはやっぱり主演2人の「表裏一体」です。
むしろ、これがすべてと言っても過言ではありません。
レオ様演じるリックと、ブラピ演じるクリフ、彼らの関係性は、映画のスター俳優とそのスタントマンです。
まさに光と影であり、表と裏とも言えるでしょう。
しかし面白いのは、リックが女々しく、クリフが雄々しいというキャラクター性。
彼らの日常を追っていく形で、物語は進んでいきますが、まさに彼らと社会との関わりが、ひとりの人生を、そしてひとつの時代そのものをまるっと描いているようで、2人のキャラクターがいながら1人の個を見ているような感覚にすらなります。
オープニングのクレジットで、レオ様の背中に「ブラッド・ピット」、ブラピの背中に「レオナルド・ディカプリオ」と入るあたりから、タランティーノ監督の珍しく分かりやすいヒントを感じ取れます。笑
光と影という、この世界を包括する「表裏一体」を表しているのではないでしょうか。そもそも「映画」というもの自体、光と影がなければ上映できない、成り立たない娯楽です。レオ様はハリウッドを一望できる高台に住み、ブラピはドライブインシアターの裏側にトレーラーで暮らすというのも、単にお洒落な演出というだけではなく、そんな「光と影」の関係性を感じます。


・ヒッピーとブラピ/夢と現実

本作を観たら必ず触れなくてはならない「ヒッピー」の存在。
最大のホラー要素であり、ある意味コメディ要素でもありますね。
この両者の関係性は「夢と現実」という「表裏一体」が考えられるのではないでしょうか。
映画の撮影スタジオという夢舞台に住み着いたヒッピーの一族と、そこがかつての仕事場であったブラピ。フリーダムという夢を語るヒッピーと、若い女の子にも免許証を提示させたがるブラピ。一見同じサイコパスみ溢れるキャラクターの両者ですが、一貫してヒッピーの理想主義とブラピの現実主義が相反する形で描かれます。これまた「ブラピのイケオジっぷりかっこいい〜」とだけ見せているのが巧みですが、俯瞰して見ると「若い女の子とオヤジ」という構図だけでなく「夢と現実」という観点でも楽しめるのではないでしょうか。いや、ただの足フェチタランティーノが入れたいシーンっていうだけかな。笑


・ジュリアバターズちゃんとレオ様/始まりと終わり

これは「若さと老い」と表現してもいいかもしれませんが...笑
カッコよく「始まりと終わり」の「表裏一体」と言っておきましょう。
本作の中でも群を抜いて分かりやすい「表裏一体」の演出です。
子役との共演を前に、自身のキャリア、そしてこの先の未来に果てしない不安と情けなさを感じるレオ様。(ここのクズっぷりが最高です。)
対して、未来しかないジュリアバターズちゃんの輝くような存在は、嬉しくもあり悲しくもあり。
この時非常に面白いポイントとして、大人びたジュリアバターズちゃんが読んでいる本は、この世界でのある意味究極的な虚構を作り上げたウォルト・ディズニーの伝記であり、子供じみたレオ様が読んでいる本は、自分自身を映したかのようなカウボーイの小説。夢を創った人の現実と、現実を生きた人のフィクション、この何層にも重なり合う「表裏一体」の形は、単にひとりのキャラクターを立てただけでなく、作品全体としての構図を練りに練った結晶のように思います。
そうして同じ俳優として、常に始まりと終わりがあるセットの空間は、本作の中でもとびきりポップでありつつ、最も残酷なシーンとして見て取れます。


・兄と兄/プライドとコンプレックス

上述のジュリアバターズちゃんが劇中で撮影される映画の中に、これまたアイコニックな男が2人が登場します。
片方は青いジャケットを綺麗に着飾る紳士的な男。
もう片方は赤いシャツでカウボーイの出で立ちで登場する男。
どちらもジュリアバターズちゃんの兄として、故郷に戻ってくるのですが、2人のチープな掛け合いは、本作の中でも「このシーンいる...?」と誰しもが思うはず。
しかし、ここでも大きな「表裏一体」が描かれ、2人の兄がいがみ合う姿は、まさに自分たちのプライドとコンプレックスの表れ。
生きていく中で最もしょうもない二項の表裏一体ですが、これを最もよく分からないシーンとして織り交ぜるタランティーノの粋っぷりと言ったら...狂気すら感じます。


・シャロンとシャロン/虚構と現実

お待たせしました、やっとマーゴット・ロビーの登場です。
この何も起きない、何もない物語の中で、唯一観続けられるキーパーソンこそ、マーゴ演じるシャロンテートです。詳しくは「シャロンテート殺人事件」でお調べいただくとして...ここで描かれる「表裏一体」は「現実と虚構」です。
なんと言ってもシャロンが自身の出演作を映画館で観ている、あの多幸感MAXシーン。
虚構の自分を見つめ、楽しそうに笑う現実の自分。
しかし、シャロンテート自身はもう私たちの現実にはおらず、マーゴットロビーが虚構としてシャロンを演じている今。
そしてそれすらも『ワンハリ』という虚構において見ている現実。
なんでしょう、この入れ子構造・・・
ただただシャロンが日常で生きている、それだけを見られるだけでも十分幸せなのに、それを敢えてスクリーンで観るというシーンを挟むことで、この現実と虚構を嫌でも突きつけてくるというのは、優しさの暴力でしかありません。
画としては、スカートがめくれるシャロンを、シャロン自身が観て、周りの観客の様子にひとりにまにまするという、訳のわからん一場面なのに、なんでここで涙が出るんだろう、なんでここで究極の幸せを感じるんだろう、そしてなんで悲しいんだろうと、私の感情はジェットコースターです。「表裏一体」の連続が止まることを知らない一幕を終えると、その先には・・・

あのラストシーンですよね。
ここが本作の最も重要なポイントなので、直接的に明言はしませんが、あのラストを用意しておいたことが、最高の虚構と現実と言えるでしょう。


・レオ様とブラピ/生と死

そして再びのレオ様とブラピです。
これまでの日常盗み見映画が嘘のように、大過激シーンのラストを迎えるわけですが...笑
物語の最後では、"本作における"生と死の選別が行われます。
これは天国と地獄とかいうものでも言い換えられると思いますが、死という最後においても、そこには「表裏一体」があり、同じ死でありながら生きて死ぬのか、死んで死ぬのか、その光と影があるように感じます。
また、本作においては因果応報というものもあまり関係がないようで、本当にどちらとも取れる、どちらも一緒、あるのはその側面だけ、という冷徹さを突きつけてきます。でもそれが苦しいわけではなく、「そうか、それならなんだって大丈夫だ」となぜか心が軽くなる、その複雑な「表裏一体」さすらも、包括する寛大さが、この映画にはある気がします。


・『ワンハリ』と私たち/映画と観客

とはいえ、これもただの娯楽映画、フィクション、おとぎ話です。
シアターが明るくなり、劇場を後にする時、この当たり前すぎる事象にハッとさせられます。
私はこの章を"永遠に「表裏一体」を描き続ける傑作"と称しました。
タランティーノは「映画」という箱を用いて、この「表裏一体」の連続を永遠のものとして閉じ込めたんだと思います。映写室の窓を開ければ、再生ボタンを押せば、Netflixを開けば、そこには2時間40分という制約はあるものの、永遠にこの世界の「表裏一体」が描き続けられていきます。
『パルプ・フィクション』の、あのケースの中で光り輝くものは『ワンス・アポン・ア・ハリウッド』ではないかと、私個人はその解釈で何杯でも白飯が食べられます。笑


愛することは恐れること

なんともまとまりのない文章で、すみませんでした。
なんかこう、言いたいことが先行してしまって、今回文章に落とし込むのがめちゃくちゃ下手ですね。笑

最後は少しだけ、ビシッと決められるような文章を。

ここまで書いてきたことは、言うなれば作品の振り返りというか、私個人の感想というより、おさらいに近いものだったような気もします。

でも「表裏一体」を描いていることは間違いないと思いませんか?
その結果、常に作品全体が流動的であり、誰のなんの話?となるのは必然なのでしょう。
少しでもそれを和らげるためかのような豪華なキャスト陣と、その演技力にはひたすらに圧巻・・・あんなに演技してないように見せる演技がありますか、、、個人的にはそれだけでも涙ものです。笑

が…なかなか本作の魅力が万人に伝わらないことも承知です。笑
しかし、今回自分なりに「表裏一体」というキーワードを提示してみて、作品の評価が二分すること自体も「表裏一体」なんだなと、ニヤニヤしてしまいました(いよいよ変態)
そうして観客の半分が狂ったように面白いと言い、半分がつまらなかったと言う。ああ、これもタランティーノの手の内かと、彼は神でもなんでもない、ただのオタクですが、少なくとも『ワンハリ』を観てしまった人々は、ひとつ彼の物語に組み込まれた者として、その虚構と現実を生きているのだななんて、厨二病らしい感想を抱きました。

と、ここまで考えた上で、やはり本作を楽しむひとつの鍵は「シャロンテート」を愛せるか否かではないかと思います。
「表裏一体」と言うキーワードを置くのならば、「愛することは恐れることであり、恐れは愛すること」という哲学的な話も避けては通れないと思いました。

言葉は悪いですが、つまり人質の構図です。
愛するものができると、それは自分の弱みであり、恐れに繋がります。
対して恐れ多いというのは、自分が謙ることであり、それはその対象への愛であると考えられます。

愛を手に入れると、それを失うことの怖さを知る。
これは本作でいえばレオ様のポジションでしょう。過去の栄光を知っているが故に、落ち目となった今、その怖さを誰よりも感じています。

その一方で、逆に失っているのは全てを手にしてることと一緒です。
本作でいえば、ブラピのポジションであり、過去の誤ちによって今の達観した姿が描かれます。

では、本作において我々が愛すべき対象は……「シャロンテート」その人です。
彼女の日常を見れば見るほど、彼女を愛することができればできるほど、本作が放つ儚さと、怖さ、美しさが際立つような気がします。

映画として物語を成していないからこそ、本作は誰かに感情移入するというよりは、自分はあくまで観客として「シャロンテート」を、そして『ワンハリ』を観られるかどうかがポイントではないでしょうか。

こういう点でも、本作は非常に異質な作品です。
『デッドプール』のように、分かりやすく第四の壁を越えるという芸当をなしに、観客が観客であることを意識して観ることで、初めて作品として完成されるような気がします。

その点、初めからハリウッドスターに恐れおののく、つまり愛を持った我々ファンたちは、最も簡単に本作の魅力にのめり込んだのでしょう。笑
ぜひ私が愛する恋人にも、この記事を通じて『ワンハリ』の面白さを改めて感じて欲しいです。笑(そういうオチかい!)
明日の『ドントルック・アップ』は、私がチケット代払います。



それでは。

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