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自己肯定感というBuzzWord:その7・我が家のモノサシ

●我が家の独自モノサシ

 各家庭に「独自モノサシ」があり、コドモはそのひん曲がりぐあいのスキマを、その生まれ持った個性(もらったDNA含む)を駆使するなどしてサバイブしていくのだ、という話の続き。

 我が家の場合、父親が普通以上にクラシック音楽を愛していて、非常に熱心に音楽的な家であろうとした、っていうのが、まず一大特徴でした。でも、骨浸りの音楽愛好家ではありましたが、親はふたりとも音楽家ではありません。つまりスキルやレベルにおいてどーのこーの言う圧力は低めだったのかも?と思います。
 しかし我が家で音楽をしない、という選択はなかったように思います。これについてはあとで詳しく述べます。

  第二に、彼らは普通以上には勉強が好きな人たちでした。2人ともある程度地頭の良さに恵まれていたとも思います。戦後同じ大学で出会って結婚しています。女が大学にいくのはめっちゃ珍しかった時代です。

 家業が学習塾だったことも相まって、我が家は「勉強することは絶対善」という価値観に貫かれておりました。それは貧乏な戦後日本全体に漂う価値観でもあったでしょう。人が這いあがってゆくには教育が必要だってことです。
 だけど、この夫婦のが持っていたのは、いわゆる「学問」を志すような頭の良さではありませんでした。おべんきょーが好き、というのと、学問、学究が好き、その道を追求して独自の地平まで届くのだー、というビジョンを持つのは、もう全く違う質の頭の良さで、全く違う人間を作る要素だと思われます。

 第三に、夫婦ふたりとも、三日坊主という言葉が辞書にないぐらい、始めたことはコツコツやる人たちでした。
 始めたからにはやるもんだ、というその姿勢と、習慣を保つ意志力とは、ちょいとナマケモノに生まれてしまったあたしを、常にちょいと追い詰めていました・・・・・っていうか、後から生まれた弟もしつこいばかりの努力家でしたから、なんかこの点については、あたしって逃げ場がないコドモでした。

 「三日坊主って言葉があるけど、人間ってとかくそうなのよねー。あはははは」という、朗らかな笑いが、我が家に響くことは・・・・なかったと思うわ。なんであいつらあんななんだろうな。

 しかし、そのおかげで、あたしは若干「矯正がかかった」生い立ちをもち、いろいろとポテンシャルを伸ばしてもらった気がします。あたしは中学の時に歯列矯正も受けたんですけど、その時に引っ込められた八重歯、みたいな人でした。八重歯はチャーミングだったり、大欠点だったりしますよね。我が家のスタンダードで言うと・・・・・まあなかったことにされるようなもん?かな。

●生物的な、そして本能的な

 もうひとつ。これはオマケじゃないけど、「特別枠」みたいな、どこのうちにもあるであろうモノサシがあるかと思います。それは、異性に対して、どのぐらいアピールがあるか、いわゆる「モテ度」に関するモノサシです。
  
 これに関して、我が家のスタンダードはけっこう高め(みんなモテる。したがってモテて当たり前)。でもモノサシそのものが水面下で複雑にねじ曲がっていました。そのねじ曲がりにはっきりと気が付いていたのはあたしだけだと思います。

 「こじらせ女子」という流行り言葉がありますけど、あたしのこじれかたはなかなかかわいそうなものでした(過去形)。
 こういう家に育つ女子はどのようにこじれていくのか、思春期の何年にも渡る自己分析と、その後の恋愛と結婚とその他による「救済」と、加齢による「なあなあ的大団円納得強制終了未決」にくるまれたその歴史(大げさ)については、別の切り口のエッセイ『容姿コンプレックスシリーズ』で放出しています。お楽しみに。(宣伝です)

 しかしモテって何でしょうかね?ここで言及している「自己肯定感」において、無関係ではいられない問題ですが、制度的な一夫一妻ですとか、繁殖の都合とか、モラルとかにからめとられて見えにくくなっていて、それでいて、非常にシンプルに「見える」部分が付きまといます。

 例えば、女子も男子も「みかけ」がまず問われます。ことに女子に!といったら殴られる昨今かもしれませんが、あたしが育った日本は昨今ではございませんので、ほんとにそうだったのよ、というしかない。

 それから、男子は運動のできる子が絶対的にモテたりしてませんでしたか?運動能力は「強いオス」という、これまたジェンダーを含んだものです。

●音楽と音楽家のはざま

 便宜上このように我が家の空気と方針とに関わる代表的なモノサシを4つ出してみました。これから各々について、コドモであったあたしがどのようにこれに対応したり逃げたり捕まったり苦しんだり救われて行ったりしたか、それが自己肯定感にどのように影響していったか書いてみます。

 まず音楽。あたしの家にアップライトピアノが「来た」のは、あたしが生まれて間もなくのことであったそうです。
 我が家はその時たった一部屋で、夫婦と生まれた長女(あたしよ)が暮らす、いわばフツーにビンボーな戦後日本の家庭でした。

 父はそれを中古ピアノを売る店で、その後長年(ほんとに長年!)そのピアノの調律をしてくれることになるFさんという人を連れて、店中のピアノを試弾してもらう、という方法で選んできました。月賦で買ったそうです。

つづく。




 

おひねりをもらって暮らす夢は遠く、自己投資という名のハイリスクローリターンの”投資”に突入。なんなんだこの浮遊感。読んでいただくことが元気の素です。よろしくお願いいたします。