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介護・人間関係論Ⅶ.プライバシー


1.プライバシー:介護関係から一時離脱する権利

 プライバシー(privacy)という概念には、私生活に侵入されない権利、私的事実を公開されない権利、公衆の誤認を招く公表をされない権利、氏名や肖像などを盗用されない権利、自己の情報をコントロールできる権利、自己決定権や静穏せいおんのプライバシー権など時代の流れとともに様々な権利が含まれるようになってきています。

 さて、介護施設でプライバシーを大切にするといえば、排泄介助の時や入浴介助の時に、わけもなく裸の姿を他者に見られないように配慮することを想起する方が多いと思います。
 人は動物と違って、羞恥心を抱く存在ですから、この羞恥心への配慮は人としての品位を保つために非常に大切なことです。
 しかし、介護施設でのプライバシー保護を裸体や排泄行為をさらないということだけに限定してはいけないと思います。

 羞恥心、人間の品位にもとづくプライバシーの権利も大切ですが、私は「一人でいさせてもらう権利」(the right to be let alone)としてのプライバシーが大切だと思うのです。

 この「一人でいさせてもらう権利」は、プライバシーのもっとも古い定義らしいのです。プライバシーの権利は、1890年アメリカの弁護士のウォレン(Samuel D. Warren)とブランダイス(Louis Brandeis)が「プライバシーの権利」(The Right to Privacy)という論文を書き、ハーバード・ロー・レビュー[1]に掲載されたところに遡ると言います。(参照はWikipediaの「プライバシー」)

 介護は、介護される者と介護する者の相互行為です。そして、介護する者は、その介護行為・相互関係からの離脱は原則的に可能ですが、依存的存在である介護される者は、容易に介護関係から離脱することはできません。
 そこで、介護される者にとって大切なのがプライバシーだと思います。
 プライバシーは介護関係からの、一時いっときですが、離脱する権利だと思います。

2.パノプティコンとプライバシー

 私が、この「一人でいさせてもらう権利」を強調したいのは、介護施設がパノプティコン(panopticon;一望監視施設)的情況に陥らないようにするためでもあります。

 介護施設では、入居者は私事に属するあらゆる事柄が見られ、監視され、管理されます。それはもちろん、ご本人の健康のため、安全のために善かれと職員は思っている(パターナリズム)からです。
 このように、介護施設の基本構造は見る事、監視する事を中心に構成されています。このため、職員には、見る能力、監視する能力、見守る能力が求められ、訓練され、見ることの専門家として整形[2]されていきます。

 さらに、最近のICT技術(Information and Communication Technology)、特にモニタリング機器などの発達により、介護施設はますますパノプティコンとしての完成度を高めてきています。
 入居者たちは、監視(モニタリング)されていることも知らずに、監視されているのです。

 もしも、国家が市民の睡眠や起床、就寝、排泄、食事等々の状況を黙って、監視、モニタリングするとしたら大問題となるでしょう。であるならば、介護施設ではそれが許されるのでしょうか。

 確かに、入居者の転倒、転落予防のために、モニタリング機器は必要な場合があるでしょう。でも、入居者のために善かれと思って(パターナリズム)、無邪気に、一方的に、ただただ監視すれば良い、見守れば良いというわけではありません。
 まず、入居者の意向が大切ですし、入居者の安全を脅かすリスクとプライバシーという人権(価値)とを比較考量し、彼らのリスクがプライバシーの権利を侵害しても仕方がないくらい大きいと判断され、なおかつ、当事者及びその家族の了解、了承を得られた場合、初めてモニタリング機器を利用できるのではないでしょうか。

 これは、価値(人権)とリスクの大きさ(発生確率と損害の大きさ)とを比較考量するリスクマネジメントの基礎的考え方が身についていれば了解できるロジックだと思うのですが・・・
 新型コロナ禍において、個人の生を管理する、生政治(biopolitics:ミシェル・フーコー)が強化され、なんの問題も感じることなく、安易に面接禁止・制限を実施し、人に会う権利を侵害してきた介護施設には難易度が高くなっているかもしれません。

 とにかく、人には「一人でいさせてもらう権利」があります。
 ご本人が一人でいたいと思うときは、一人でいられる権利があり、監視されたくないと思っている時は、監視されない権利があるのです。
 ご本人の意向に最大限の敬意と配慮が必要で、それが、介護施設でよくいわれる「尊厳を守る」ということだと思います。

3.プライバシーと消極的自由

 ちゅちょる[3]さんは自由について「積極的な(Positive)自由」と、「消極的(negative)な自由」があるとして、次のように説明しています。 

「積極的自由」は、個人や集団のあり方や行動を自分自身で決定するさいに認められるような自由です。

「消極的自由」は放っておいてもらえる自由です。つまり、だれかに干渉されない、なにかを強制されない自由というように、否定形で表現しやすい自由です。
(参照:朱喜哲 2023「<公正(フェアネス)公正>を乗りこなす」太郎次郎社エディタス p148 )

  この消極的自由は、「干渉されない」あるいは、「放っておいてもらえる」権利としてのプライバシーに他ならないと思います。 

 そして、この消極的自由は、積極的自由を担保する自由、大切に保護すべき自由だと、朱喜哲さんは主張しています。

『日本国憲法が定める「信教の自由」とは、個々人の消極的自由を担保するために、国家権力が行使しうる積極的自由を抑制するという建てつけになっているとのことです。』
『もちろん、「信教の自由」は積極的な意味でも解釈することもできますが、ここでみたようにそのための前提として消極的自由を守ることが求められます。』

(参照:朱喜哲 2023「<公正(フェアネス)公正>を乗りこなす」太郎次郎社エディタス p152 )

 つまり、権力に抗する権利としての消極的自由、プライバシーは、積極的自由を押しのけてでも守るべき重要な自由・権利なのです。

 例えば、極端な話ですが、介護施設が、積極的自由「なになにする自由」に基づき、善かれと思い、入居者全員に毎日1時間のリハビリをさせようとした場合、それに対抗する「リハビリしない」という「否定形」の消極的自由が入居者に保障されなければなりません。

 確かに、入居者のリハビリは必要で善きことかもしれません。
 また、安全のために入居者を監視・見守る必要もあるかもしれません。
 しかし、「干渉されない権利」、「放っておいてもらう権利」、介護関係から一時、離脱する権利、消極的自由の権利は、不可侵の権利だと思うのです。

4.プライバシーとネグレクト

 入居者の放っておいてもらえる権利、干渉されない権利は、職員によるネグレクト[4](neglect;放置)を生じさせる切っ掛けにもなりかねません。 

 入居者のプライバシーの要求は、介護関係からの一時いっときの離脱にすぎないのですが、入居者が「放っておいてください」と言ったからといって、一時ではなく、恒常的に放置すればそれは、ネグレクトになってしまいますし、また、「放っておいて」「干渉しないで」との訴えを無視してしまってもネグレクトになってしまいます。 

 介護は、介護される者と介護する者との相互行為です。
 そして、プライバシーの権利は入居者にとっては、その相互行為関係から一時的に離脱する権利ですが、介護者にとっては、介護という相互行為を一時的に停止する行為です。
 このことが、優秀なプロの職員にとってプライバシーを守ることを難しくさせているのかもしれません。優秀な職員は、どうしても、入居者のリスクが気になるからです。

 逆もあり得ます。1人になりたいと訴えた入居者を、これ幸いと、介護業務対象から外してしまい、自立支援のためということで、ほとんど介護しなくなることもあるかも知れません。

 高齢者介護におけるプライバシー問題は、入居者の基本的人権、尊厳に深く結びついていますが、入居者への過干渉と無干渉とのバランス、つまり介護におけるバランスの良い相互関係がとても大切なのだと思います。

 入居者のプライバシーの権利を尊重し、ネグレクトを防ぐためには、施設のスタッフや関係者が適切なプライバシー保護に関する指針の作成や、プライバシー保護が可能となる環境整備が不可欠ですし、常に自分たちの介護を訂正できる姿勢が大切なのだと思います。


[1] ハーバード・ロー・レビュー(Harvard Law Review)は超一流のリーガル・ジャーナルであり、トップクラスの法曹や法学関係の教授たちからも寄稿がある。

[2] 整形という用語を人格形成というような肯定的な意味ではなく、決まった型にはめ込まれてしまうというような否定的な意味で用いている。

[3] 朱喜哲(ちゅ ひちょる/JU Heechul 1985~):大阪大学社会技術共創研究センター招聘教員。専門はプラグマティズム言語哲学とその思想史。

[4] ネグレクト(neglect)とは無視すること、怠ること。養育すべき者が食事や衣服等の世話を怠り、放置すること。育児放棄、介護放棄。

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