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abuse/虐待論Ⅱ.虐待原因論(1):虐待の原因は教育不足?


1.虐待の原因が教育不足は見当違い

 介護業界では虐待の原因は教育不足であるという言説げんせつ流布るふしています。

 確かに、厚労省が発表している『2022年度「高齢者虐待の防止、高齢者の養護者に対する支援等に関する法律」に基づく対応状況等に関する調査結果』でも、虐待の発生原因の第一位は、「教育・知識・介護技術等に関する問題」(56.1%)となっていて、2番目の「職員のストレスや感情コントロールの問題」(23.0%)の2倍以上もあります。

 しかし、もし虐待の主な原因が教育不足だとすれば、教育によって、虐待に関する知識が豊になり、意識が変われば、虐待は減少するということになります。であれば、十分に教育を受けてきたと思われる、介護福祉士や、ベテランの職員は虐待しないのでしょうか?
 現場の感覚として、そんなことはないだろうと思うのですが・・・

 ベテランでも、介護福祉士でも、虐待を行っている事例は数多くあります。
 介護福祉士は専門学校2年間で1,800時間以上もの教育を受けています。
 または、実務3年以上で450時間以上の実務者研修を受けているはずです。
 このように、しっかりと教育を受けたはずの介護福祉士ですら虐待を行うことがあるのです。 

 虐待に関する教育・研修を実施して、職員が「虐待とは、身体的虐待、心理的虐待、性的虐待、経済的虐待、介護・世話の放棄・放任という種別があって、その状況の深刻さから、緊急事態、要介入、見守り・支援の3つのレベルに分けて考えることができます。」などと、虐待の種別や介入レベルを説明できたとしても、それが虐待防止に有益なのでしょうか。

 また、教育・研修をとおして人権意識が高まるのでしょうか。
 私はあまり期待できないような気がしています。
 もし、教育・研修で人権侵害が無くなるのであれば、日本からはとっくに人権侵害が無くなっているはずではないでしょうか。

 犯罪に関する知識があれば罪を犯さないというのは妄想ですが、虐待に関する知識があれば虐待はおこらないとうのも妄想だと思います

2.日本の道徳教育の問題

 私は虐待の発生原因を構造的に捉えずに、職員個々人の道徳や倫理に負わすのは、日本の道徳教育の結果、成果?だと疑っております。

ちゅちょるさんは、小学校の教育指導要領を基に、[公正・公平・社会正義]という価値に関する道徳教育の内容を次のようにまとめております。

 小学校の道徳教育において「公正・公平・社会正義」の各学年の学習内容は次のとおりです。
〔第一学年及び第二学年〕
 自分の好き嫌いにとらわれないで接すること。
〔第三学年及び第四学年〕
 誰に対しても分け隔てせず、公正・公平な態度で接すること。
〔第五学年及び第六学年〕
 誰に対しても差別をすることや偏見をもつことなく、公正・公平な態度で接し、正義の実現に努めること。

 以上の学習内容を踏まえて、朱喜哲さんは、道徳教育の問題点を次のように指摘しています。

 「あくまで個人の内面、主観的な動機と、その発露としての個々人の行動が問題になっているのです。」
 「なんらかの個人の道徳や倫理観(「人として行うべき道筋」)なるものが先にあって、それが、社会という単位に拡張されたものだという理路になっています。」
 「社会正義という公共的で政治的な関心事の成立が、わたしたち個々人の能力や良心の問題にされてしまってる。」
『これは「公正・公平」のような公共的な理念を、個々人の私的な道徳観に直結させて語ってしまうことの、わかりやすい落とし穴だと思います。』

(引用:朱喜哲2023「<公正(フェアネス)>を乗りこなす 正義の反対は別の正義か」太郎次郎社エディタスp60,61,62,p64)

 道徳教育で、偏見や差別をしないという価値の実現が、個々人の内面、心の持ち方、に求められているように、介護施設におけるabuse/虐待も、職員個々人の道徳観、倫理観に直結させて考えてしまっているため、abuse/虐待発生の構造的な側面を把握できないのだと思うのです。

3.虐待は構造的問題

 

abuse

 確かに、個人の悪意による虐待もあるでしょうが、基本的には、職員の多くは善意の人です。問題は、善意の人が何故、虐待を行ってしまうのかなのです。

 私は介護施設での虐待は、介護関係の非対称性、パノプティコン性(panopticon;一望監視施設)、業務計画至上主義、およびパターナリズム(paternalism温情的庇護主義)が虐待の温床となっていると思っています。

 そもそも、介護される者と介護する者の関係は非対称であり、圧倒的に介護者が強者であり当事者(入居者)を抑圧する潜在的可能性・構造があるのです。

 また、パノプティコン的介護施設では、絶対的な強者である介護者が主体であるべき入居者を監視対象、規律訓練の対象、生政治の対象とし客体化してしまい、その主体性をないがしろにしてしまう構造があります。

 そして、業務計画至上主義により、業務遂行の邪魔になる当事者の訴えを蔑ろにし、当事者の存在自体を邪魔者扱いする動機・構造となっているのです。

 さらに、これらの情況を正当化するのがパターナリズムです。
 職員は全て入居者のためだと思い込んでしまっています。職員は善意に溢れているのです。
 パターナリズムにより職員は当事者(お年寄り)を庇護すべき存在として子供扱いするようになります。
 子供扱いするということは、相手の話、訴えに真摯に向き合わないことになりがちです(「子供の言っていることだ、適当にあしらっておけ。放っておけ。」)。
 そして、相手の話、訴えを無視し、その人間としての存在を無視し、やがては、ネグレクト(neglect;放置)、abuseに繋がっていくのです。

 このような複合的情況の中で職員の個人的要因(疲労、ストレス、イライラ)等により、ネグレクト(無視)から、abuse、言葉による暴力、そして身体的暴力へと虐待がエスカレーションしていくことになります。

4.abuseの是正から始める

 

Stop Elder Abuse

 日本語の「虐待」と英語のabuseのニュアンス[1]の違いを考慮するなら、「虐待」の前にabuse(不適切介護)段階があると推察されます。
 abuse/虐待はエスカレーションするのが常だからです。このabuse段階での介入が「虐待」防止に有効だと思います。

 例えば、次のようなabuseの具体的事例を見逃せば、その後には虐待が待っていると思うのです。

「当事者(お年寄り)を見下したような態度を取る」
「当事者に声をあらげて厳しく指示・指導する」
「当事者の訴えを無視する」
「当事者を子供扱いする」
「汚れている衣服を着替えない」
目脂めやに鼻糞はなくそをきれいに拭き取らない」
「髪の毛が茫々ぼうぼうとしているのに髪をかさない」
「動物に餌を与えるように会話も無く異様に速く食事介助する」
「芋を洗うように当事者の入浴介助する」
「当事者が失禁しているのに迅速に着替えない」    等々

 虐待の根は日常の介護現場にあるのです。この日常の介護現場への介入なしには虐待はなくなりません。

5.構造的虐待リスクのチェック

 経営者または施設長は介護現場がどの程度、構造的虐待リスクを有しているのかを、以下の項目例などを参考に、自分の目で確認、評価してはいかがでしょうか。

□  飾りつけやレクなどのプログラムが子供仕様になっていないか
□  当事者への話し方が稚拙、幼稚なものとなっていないか(終助詞の「ね」を多用していないか)
□  当事者に対する職員の態度が失礼ではないか、馬鹿にしていないか
□  当事者を怒鳴っていないか
□  当事者のその都度の訴えに対して真摯に応答、即応しているか
□  介護人員が十分に満たされているか
□  介護職が忙しそうに走り回っていないか
□  共同生活室に当事者が放置されていないか
□  環境が整理整頓され清潔であるか
□  当事者の身なりが整っているのか、汚くないか、臭くないか 

 目に見える兆候を注意深く観察し、兆候が見られたら、その場で是正していくことが最も効果ある虐待の防止対策です。

 それ故に、虐待防止のための職員教育は、座学のOFF-JT[2](集合研修)ではなく現場におけるOJT[3]が最も大切だと思います。

 人員不足、パノプティコン、介護関係の非対称性、業務計画至上主義、パターナリズムなど、虐待は構造的なものです。
 虐待を職員の教育不足やストレス、感情コントロール等の個人的な問題に[4]矮小化わいしょうかしてはなりません。


[1] ニュアンス(仏語nuance)とは色あい、音の調子、意味、感情などの、ごくわずかでありながら、相当に違う感じを与えるような違い。日本語の虐待は「むごくあしらう」というイメージだが、英語のabuseは「常識からかけ離れた扱いかた」というイメージがある。

[2] Off-JTとはOff-the-Job Trainingの略称であり、日常の仕事を通じて教育を行うOJTに対し、職場や通常の業務から離れ、特別に時間や場所を取って行う教育・学習をさす。

[3] OJTとは On the Job Training (オンザジョブトレーニング)の略で、職場の上司や先輩が、部下や後輩に対して、実際の仕事を通じて指導し、知識、技術などを身に付けさせる教育方法をさす。

[4] 矮小化とは、物事や物を小さく見せるということ。

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