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介護は感情労働(2)-感動/思考/倫理-介護労働Ⅳ-2.


4.負の需要と感動物語

① 負の需要とは 

 先に、感情労働においては、感謝や手応え、生きがいのような「感情的報酬」をともなうものであり、この感情的報酬が介護労働の低賃金の理由の一つにされているという珍妙な説を紹介しました。

 ところで、この感情的報酬はなぜ生じるのでしょうか

 それは、介護労働が「負の需要」への応答としての労働だからではないでしょうか。そして、この「負の需要」という概念は、介護労働が感動価値創造の説明概念になるのではないでしょうか。

 介護労働は「負の需要」に応答する労働です。

 「負の需要」とはこころはずむ欲求、喜ばしい欲求、嬉しい欲求・需要ではありません。止むに止まれない、仕方がない、諦観ていかんや悲しみを伴う欲求・需要です。

 よって、介護サービスはホテルサービスやレストラン等の飲食サービスとは違うのです。
 普通、人々はホテルサービス等の利用を楽しみにして、心をワクワクさせながら喜んで利用するものです。
 しかし、医療サービスや介護サービスは、好き好んで、喜んで利用するサービスではありません。病気になったから、怪我したから、障害があるから、止むを得ず利用せざるを得ないサービスなのです。

 医療も、介護も「負の重要」への応答ですが、病院は病気を治す場であり、入院患者には病気を治したいという動機があり、例え少々不自由でも我慢して入院生活を送ることができるでしょう。目標が治療ということで、明確なのですから。

 しかし、介護施設は障害老人の生活の場です。また、ほとんどの場合、入居者は自分の希望で入居するのではなく、家族への遠慮、配慮(非自発的同意)から入居するか、ご本人の意向などが無視されるかたちで無理やり入居させられるかです。介護施設に喜んで入居するお年寄りはほとんどいません。

 このように介護サービスは「負の需要」に応答するサービスであり、入居者が自らすすんで喜んで利用するわけではないというところに介護サービスの需要サイドの特性があるのです。

② 感動物語

 介護サービスが「負の需要」への応答であるということは、介護施設に入居する人達は、サービスの利用当初から既に病んでいる、傷ついている、痛みを抱えている、困難を抱えているということです。

 このように傷ついている方々の生活全般を支える場が介護施設なのです。
 介護施設に初めて入居してくる人は、すでに傷ついているのです。
 新入居者は傷ついている。このことを重く受け止めなければなりません。

 介護施設における介護とは、この傷ついて困難を抱えている当事者(お年寄り)と介護職員との相互関係なのです。
 そして、この相互関係の中で当事者が癒されていくという可能性があるのです。常にとは言えませんが、確かに、当事者が癒されることが実際にあるのです。
 これは多くの介護職員らが体験していることです。これこそが、「感情的報酬」といわれるものではないでしょうか。

 痛み、屈辱、不安などを抱え、傷ついた者が癒されていく過程、解放されていく過程の物語りは人々に感動を与えます。
 介護は人の痛みや困難を少しでも和らげ、解放させる営みであり、その意味では介護は感動物語を生み出す営みです。
 介護が「負の需要」への応答であり、それゆえに多くの感動物語を生み出し、介護される者とその家族たちのみならず介護する者たち自身もこの感動物語に励まされることがあるのです。 

 少々感傷的すぎますが・・・感動の物語をつむぎだし、それを記録し、未来に伝えていくことが介護施設の組織にとって、介護に携わる人々にとって、非常に大切なことだと思います。感動物語の積み重ねがより良い介護の土台、大地となるのだと思うのです。

 当事者(お年寄り)の笑顔、微笑みの表情、「ありがとう」の言葉をしっかり記録し、記憶に留め、当事者のことを語り伝えていくことが介護施設の精神的文化のいしずえになると思います。

5.思考と感情

 感情労働について考えてきましたが、そもそも、感情規則に従って感情を制御することができるのなのか。もしできるとして、感情を制御するとはどのようなことなのか。さらに、根源的な問いは「そもそも、感情とは何か」ということです。

 介護という相互行為は感情の相互交流でもあるし、怒り、恨みなどの否定的な感情が虐待の直接的なきっかけにもなっています。介護現場における虐待防止のためには感情について深く考えていくことが大切ですが、感情というものは一筋縄ではいかないようです。

①思考に振り回される感情

 一般的には、「頭ではわかっていたのに、感情に流されてやってしまった」とか、「冷静に感情をコントロールしなければならない」などと、「思考が感情に振り回される」のだという考えがあります。

 しかし、源河亨[1]さんは「感情こそ思考に振り回されている」と指摘しています。

 源河亨さんさんによると、ノックを2回するのはトイレに人が入っているかどうかの確認なので、部屋に入るときのノックは2回じゃダメだという、なんだかよくわからないマナーがあり、このように考える(思考する)人は、部屋のドアを2回しかノックしないと、「ここはトイレではない、失礼な奴だ」と怒るといいます。

 普通は部屋のドアを2回ノックされたからといって怒ることはないでしょうが、特定の思考により怒る場合があるのです。つまり、思考が感情に影響を与えているのです。

(引用・参照:源河亨【連載】感情の哲学 入門の入り口 第1回 感情と思考は対立する? https://note.com/keioup/n/n8e8ac4081718 2023.02.07)

 感情が思考、価値観によって影響を受けるということは自分の思考・価値観にこだわり過ぎる人は、怒りやすいということです。

 例えば「入居者は自立できるよう努力しなければならない」「入居者は職員や他の入居者に迷惑をかけないようにすべきだ」等々という思考・価値観をかたくなに守ろうとすると、それができない入居者に腹が立つでしょう。

 観点を変えれば、多様で柔軟な思考・知識・価値観を有していれば、一定程度ですが、感情を制御できるということでもあります。

 実際に介護でも思考によって感情が影響を受けることがあります。
 認知症の当事者(お年寄り)が職員に対していきなり「馬鹿」と叫んだとしても、その職員がその当事者の個別の状況や認知症について基礎的な理解があれば、即座に怒りを感じることを制御できるかもしれません。

 このように、思考や認識によって同じ状況でも引き起こされる感情が異なってくる可能性があります。
 特に認知症の理解や個々の当事者(お年寄り)についての理解などが大切です。
 要するに、感情の制御には認知症についての教育や個々の当事者たちの理解が有効かもしれないのです。 

②ソマティック・マーカー

 また、思考と感情は対立するものではなく一体的なのではないかとするソマティック・マーカー仮説[2](somatic marker hypothesis:身体信号)なるものがあります。この説は神経学者アントニオ・ダマシオ(Antonio Damasio:アメリカの神経学者1994-2005)が主張した説で、感情には「善/悪・よい/わるい」の選別機能があり意志決定を効率的にするのではないかという仮説です。

「理性的判断には感情を排して取り組むべきだという従来の「常識」に反して、理性的判断に感情的要素はむしろ効率的に働くことになる。」

引用:池田光穂(文化人類学者、大阪大学名誉教授 1956-)「ソマティック・マーカー仮説」https://navymule9.sakura.ne.jp/070763somaticmarker.html 2023.02.23

 

somatic marker hypothesis Antonio Damasio

 この仮説は、自分が過去に体験した状況における快/不快の感情の蓄積(記憶)を参照し、現在の状況に適合した快/不快の感情を表出することにより効率的な意志決定ができるようになるという理論です。

 つまり、人はある経験をすると、快や不快の情動が生まれ、感情が沸き起こり、その感覚が記憶されることで、その後の判断の軸になっていくために、理性的判断を効率的にすることができるというのです。

 しかし、そうは言っても、実際の介護現場での感情、特に虐待の契機となるような「怒り」のような激しい感情が理性的な判断に資するとは思えませんが・・・

③一筋縄ではいかない感情

 思考が感情に影響を及ぼすこと、感情が理性的判断に影響を及ぼすらしいことはわかりましたが、常に思考によって感情を制御できるわけではないでしょう。
 カッとなって怒ってしまった時、自分が怒っているという意識(反省的意識)はなく、ただ単に怒りという感情にひたっているだけの場合が多いのです。
 「怒っている」と意識できなければアンガーマネジメントを発動することもできません。この浸され、襲ってくる感情を制御することは困難だと思います。
 また、「ソマティック・マーカー仮説」のように、快/不快の感情が理性的判断を効率的にすると言われても、それでは何故、介護現場の虐待が無くならないのか。釈然しゃくぜんとしません。

やはり、感情というものは一筋縄ではいかないようです。

 6.感情と倫理

① 受動的感情と能動的感情 

一般的には感情は受動的なものと思われていますが、感情には「怒り」のような受動的感情の他に「喜び」のような能動的な感情というのもあるといいます。 

 竹田青嗣さん(哲学者、早稲田大学名誉教授)はスピノザ[3](Baruch De Spinozaオランダの哲学者)の能動的感情と受動的感情の区別について紹介しています。 

「人間にとって「感情」はある意味すべてだといえる。人間は感情に支配されているという以上に、もっと深く、いわば感情こそそもそも人間の生きる理由であり、根拠でもある。」
「スピノザは受動的感情と能動的感情とを分けて、受動感情に支配されると、人間は自分の本姓から切り離されてしまう・・・」
「理性は、感情に対立しているんじゃなくて、よい感情とよくない感情(受動感情)を区別する能力でもあり、またよりよい感情をわれわれのうちに育てる能力だと見なすべきだ。」

引用:竹田青嗣2011「竹田教授の哲学講義21講」みやび出版 p96,97

 要するに、感情とは人間の生きる理由、根拠であり、感情には本人にとって良い感情、つまり「喜び」のような能動的な感情と、悪い感情、つまり「怒り」のような受動的感情があって、理性によって能動的感情を育てることができるというのです。 

 この良い感情と悪い感情を区別するポイントは受動と能動という概念です。

 この能動的、受動的という概念はスピノザにおいてどのように捉えられているのか、國分功一郎さん(哲学者 東京大学大学院総合文化研究科教授)は次のように解説しています。 

「我々は、自らが或る出来事あるいは行為の妥当な原因である時に能動である。では妥当な原因でありうるとはどういうことか。その出来事ないし行為が我々自らの本性によって理解されうるということだとスピノザはいう。」
「スピノザの言う能動を最も簡便な形で示すならば、それは、自らが自らの行為の原因になっているということである。・・・原因は結果を引き起こすというよりも、結果によってその力を表現する・・・我々の行為が我々の力を表現している時、我々は能動的だということができるはずだ。・・・」

引用:國分功一郎2022「スピノザ-読む人の肖像」岩波新書p211,212,213

 自らが、自らの感情の原因となっている場合、つまり、外からの原因より自分の原因によることが大きい場合が能動的感情ということなのでしょう。 
 すると、「怒り」という感情は自己原因より他者原因(他者の言動)の方が大きいと言えます。
 他者の圧倒的な影響力に抗することができなくなって、自分の「怒り」という感情に隷属れいぞくしている状態が「怒り」です。このときの怒っている自分は、受身、受動的だということになります。

② スピノザの感情論 

 さらに、國分功一郎さんはスピノザの感情論を次のように紹介しています。

 「感情とは身体の変状であり、また同時にその観念である」
「感情にはプラスとマイナスの方向性がある・・・前者は「喜びlaetitia」、後者は「悲しみtristitia」と呼ばれ、喜びは活動能力を高めてより大なる完全性へと、悲しみはその活動能力を低めてより小なる完全性へと個体を導く。」

引用:國分功一郎2022「スピノザ-読む人の肖像」岩波新書p197,p210

 「喜び」のような感情は、自らの能力を表現しており、自らの活動能力を高める能動的感情、つまり良い感情で、自分の力の表現で「悲しみ」のような悪い感情は自らの活動能力を低めてしまう受動的感情で、悪い感情ということです。 

 感情について考える際には、感情を良い感情と悪い感情とに区別して考えることが大切なようです。ということは感情について考えるということは、「良い・悪い」、「善・悪」について考えること、より善い生き方について考えること、つまり倫理について考えることに通底しているようです。

 では、倫理とはなんでしょうか。

 國分功一郎さんはスピノザの主著である『エチカ』[4](ethica)というタイトルから道徳と倫理の違いを次のように説明してます。

  「・・・道徳が超越的な価値や判断基準を上から押しつけてくるものだとすれば、倫理というものは、自分がいる場所に根ざして生き方を考えていくことだと言えます。この意味で、人間がどのように生きていくべきかを考えた本のタイトルに、スピノザがこの語を選んだというのはとても興味深いことです。」

引用:國分功一郎2020「はじめてのスピノザ」講談社現代新書p39

 

Baruch De Spinoza 1632~1677

 また、國分功一郎さんは「怒り」のような受動的感情は人間を不自由にしてしまうものだと指摘しています。

  「自分の感情の赴くままに動いている人間は、自分のことを自らの力のもとにあって自由だと思っているかもしれないが、そうではないというわけです。」

引用・参照:國分功一郎2020「はじめてのスピノザ」講談社現代新書p43

 感情の赴くままに動く人間は、感情に隷属れいぞくしており、感情に支配され自由ではないということでしょう。

 もっと自分の能力、自由を大切に生きていくべきだとスピノザは説いているようです。感情や倫理などを考えるときスピノザは魅力的な哲学者らしいですね。一度『エチカ』をじっくり読んでみたいと思います。 

 いずれにせよ、「喜び」のような能動的感情を育み、「怒り」のような受動的感情に隷属せず、より自由に生きていくためのマニュアルはありません。特効薬はないのです。 

 介護労働は感情労働です。
 ですから、感情労働に携わる介護労働者は、自分と当事者の感情に敏感である必要があるのだと思います。
 そして、日頃から、感情について、怒りや恨みについて、自分の思考・考えについて、倫理について、虐待について、などなど、地道に考え続けていくことが求められているのでしょう。

 memento mori(メメント・モリ)という有名な言葉があります。このラテン語は「死を想え」ということですが、介護行為においては自分と相手の「感情を想え」ということがとても大切なのではないでしょうか。


[1] 源河 亨(1985年~)慶應義塾大学で博士(哲学)。九州大学大学院比較社会文化研究院講師。専門は、心の哲学、美学。

[2] ソマティック・マーカー仮説 (somatic marker hypothesis)なるものがある。とは、神経学者アントニオ・ダマシオ(1994, 2005)が主張する説で、外部からある情報を得ることで呼び起こされる身体的感情(心臓がドキドキしたり、口が渇いたりする)が、前頭葉の腹内側部に影響を与えて「よい/わるい」という ふるいをかけて、意志決定を効率的にするのではないかという仮説。

[3] スピノザ(Baruch De Spinoza 1632年~ 1677年)は、オランダの哲学者。

[4] 副題も含めた正式名称は、『エチカ - 幾何学的秩序に従って論証された』(羅: Ethica, ordine geometrico demonstrata)。『エチカ』は1675年に一応完成したが、生前には出版できなかった。友人たちにより1677年に出版された遺稿集に収められた。

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