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選択肢は無限である

東浩紀さんも書いている人生の選択肢について

※東浩紀さんの「ゆるく考える」を読み、感じたことを記事にしました。


私たちは選択肢を意図的に狭めている

私たちは、人生には無限の選択肢がある事を知っています。
しかし、それを活かそうとは思っていないのだと感じています。
なぜならそこには、将来と言う『漠然とした不安』というものが存在するからだといえます。
この、芥川龍之介も悩んだとされている、『漠然とした不安』から考えてみようと思います。

『漠然とした不安』とは一体なんでしょうか。
この『漠然とした不安』という名前がついているものは、厳密には正体がわかっていないものですが、私は、『学歴社会』と『世間の目』と言えると思います。

私たちは、社会性というものをどこで判断するかといえば、『後ろ指を刺されない程度の生き方』をすることによって、社会性があるとみなします。。
人から笑われるような生き方をしている人に対して、「もっとちゃんとしろ」という言葉をかけます。かける、と言うよりも“浴びせる”人の方が多いのかもしれません。

それは、“社会性の無い人”に対しての怒りであったり、「自分は我慢してちゃんとやっているんだから、お前もやれよ」というある種の傲慢さが招いている言葉であると思います。

これには、不思議なことがいくつかあります。

一つは、“我慢している”という点です。
我慢して、社会性を保っている人は、思いのほか多くいらっしゃいます。
なぜかといえば、それが“社会で生きる”ということだからです。
ここにでは、『無限の選択肢』は忘れ去られています。

もう一つは、“”世間体”です。
これにも疑問を感じます。
私たちは、「ヨソはヨソ、ウチはウチ」と言われて育ちました。
それなのに、ひとたび進路や出世などという『比べられるもの』に関しては、やたらと他人と比べたがります。
そこには「人から笑われるような生き方はしたくない」という、『他人と比べて成績が悪い』と思われることへの恐怖を感じることができます。
『他人と比べて、劣った生き方をしたくない』と曲がったプライドを守ろうとする考え方が、背景に見え隠れします。

選択肢というのは、本来、いくつもあって良いはずです。
そこには、3択も、4択もあるはずです。
それなのに私たちは、人生の岐路に立たされた時、必ずといっていいほど、2択という選択肢で人生を進んでいます。

進学は、するか、しないか。
就職は、するか、しないか。
結婚は、するか、しないか。
家は、持ち家か、賃貸か。
車は、持つか、持たないか。
子供は、つくるか、つくらないか。

このように、二者択一を選択して生きています。
どちらかを選んでは、どちらかを諦めているのです。

人生の分岐点というものは、常に『分かれ道』であったのです。
右か、左か。
西か、東か。
そんな選択の連続を、私たちは人生と呼んでいるのです。

しかし、本当にそうでしょうか。

高校に進学せずに、海外に放浪の旅に出る。
中学の途中から、漫画家として生計を立てる。
小学校から、芸能活動をする。

こんな人がいても、「あの人は特別」と思っていないでしょうか。

人生の選択肢というものは、無限にあるのだと、さし示してくれている人のことを、「あの人は特別」で片付けてしまったら、自分の人生の選択肢も広がることはありません。

本当の意味で、人生の選択肢を持とうと思うならば、色々な人の人生を見ることです。
過去の偉人も、現代に生きる人のことも、あらゆる人の人生を見ることで、自分の理想の生き方を見つけるのです。

『自分の人生を生きる』というのは、固定観念や、既成概念を壊すところから始まるのです。
「こうするのが当たり前」という思考では、自分の人生を生きていることにはなりません。誰かが「こうしましょう」と決めた道を、文句も言わずただ黙々と進んでいるに過ぎません。

人生一度きり。
自分の人生を、自分の人生にしたいのなら、選択肢は二つではなく、いくつも持つべきなのです。

人生の選択肢は、無限です。
自分の頭に描けるだけの、人生という道が存在するのです。

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