てぬぐい。

 「ただいま」
ワンルームの部屋に帰宅する。誰もいないのはわかっているが、何も言わないのも寂しいので、「ただいま」だけは言うようにしている。

 大学入学を機に田舎から出てきて、この部屋で一人暮らしを始めた。決して広い部屋ではないが、周りは静かな住宅街で落ち着くし、窓も大きく日当たりもいいので、なかなか快適に過ごしている。

 その、大きな窓を開ける。朝、学校に行く前に干しておいた洗濯物が楽しそうに風に揺れていた。
 
 脱衣カゴを持ち、一つずつ取り込んでいく。洗ったばかりの服から、とてもいい匂いが漂う。この瞬間がとても好きだ。

 ふと、手が止まる。そして、溜息をついた。
「またか…」
そうつぶやく。

 だるまのイラストがプリントされた手ぬぐい。それに、泥がつけられている。

 一か月ほど前から、このてぬぐいに泥をつけられる嫌がらせをされるようになった。

 誰かの旅行のお土産でもらったものだったと思う。誰が、どこに行ったときのお土産かも覚えていない。だるまが名物の地域か、手に三色のだんごを持っているから、だんごが名物の場所なのだろう。
 俺自身も特に気に入っているわけではなかった。しかし、気に入っていないからこそ出番が多く、かなり使い込まれ、手になじんでいる。
「また洗わなきゃだよ…」
ぼやきながら、だるまのてぬぐいだけ脱衣カゴには入れず、洗濯機に放り込んだ。気に入っているものでないとしても、洗い直すのは面倒くさい。

 はじめのうちは、車がはじいた泥がついたのかとか、カラスが落とした汚れがついたのかと思っていた。しかし、いつも同じてぬぐいが汚れているのに気づき、誰かがわざとやっているんだと確信した。

 近所の子供のいたずらだろうか。厄介な老人の仕業だろうか。それとも、知らぬ間に近所の人に恨みでも買っていたのだろうか。色んな疑念がよぎり、不安な日々を過ごしていた。

 「部屋干しすれば?」
友達が言う。大学で昼ごはんを食べながら、なんとなく話してみた。
「そんなもん、とっくに試したよ。でも、湿気がやばくてだめだった。気持ち悪くなるし、あのまま干してたらカビだらけになる」
「いや、そのてぬぐいだけでもさ」
「いや、多分。それでも周辺はカビ生える」
「そうか…」
 
 「隠して干せば?」
友達の彼女が言った。
「隠して干す?」
「独り暮らしの女子なら、みんなやってる方法なんだけど…」
彼女が言うには、女性ものの下着を干すとき、男物のトランクスをそれにかぶせるように干して、外から見えないようにするのだと言う。
「盗難対策?」
「それもだし、彼氏と一緒に住んでるように見えるから、ストーカー対策にもなるの。狙われるのがそのてぬぐいだけなら、使えるんじゃない?」
「なるほど。パンツ作戦か」
「その作戦名やめて」
彼女が笑った。
しかし、その作戦は確かに使えそうだと、俺は少し明るい気持ちを取り戻した。

 「ただいま」
家に帰り、洗濯物を取り込む。だるまのてぬぐいには、やはり泥がついている。しかし、俺にはパンツ作戦がある。溜息はつかなかった。むしろパンツ作戦を試せることを喜んだぐらいだ。

 そして、次の日の朝。パンツ作戦を実行に移す。しかし、手ぬぐいを隠せるほどの大きなパンツなんてないし、彼氏と一緒に住んでると思わせる必要もない。

 俺は、洗濯ばさみがたくさんぶら下がったピンチハンガーの、その真ん中にだるまのてぬぐいを干し、その周りを大きなバスタオルでぐるりと囲った。だるまが外から見えなくなるようにする。
「これで大丈夫だろう」
そう頷いて、大学に向かった。

「昨日はありがとう。さっそく、パンツ作戦やってきた」
「だから、その作戦名やめて」と彼女が笑う。
「でも、それで解決するといいね」
そう言ってくれた。

 そして、大学の授業が終わり、家に帰る。「ただいま」と中に上がり、大きな窓を開けた。
「…うそだろ」
いつものようにだるまの手ぬぐいに泥がつき、バスタオルは丁寧に干し直されていた。
 てぬぐい以外は、まったく汚されていない。むしろ、バスタオルに汚れが付かないように折りたたんだ形で干されていた。
 その丁寧さが、気味の悪さを増幅させた。背中に、冷たいものを感じる。
 警察に通報した方がいいだろうか?そんな風に考え、おまわりさんとのやりとりを想像する。
「どうしました?」
「いつも、だるまのてぬぐいが汚されるんです…」
こんな相談をしたら、バカだと思われる。
「何か対策はしましたか?」
「パンツ作戦を実行しました」
こんなことは聞かれないだろうが、想像しただけで恥ずかしくなった。
「どうしたもんかな…」
頭を抱えたまま、手ぬぐいを洗濯機に放り投げた。

 「休校?」
朝。洗濯機を回しながら、学校へ行く準備をしているときに、大学からの連絡で、休校のお知らせが入った。

教授がうんたらかんたら。
事務がなんたらかんたら。

色んな事が書いてあったが、我々学生の目には「休校」という文字しか入らない。ぽっかり空いた一日。学校のつもりだったのでバイトも休みだ。「なにしよっかなぁ」と胸を躍らせた。

 その時、洗濯機が完了の音をたてた。
「…そうか」
そのとき、気づく。もし、犯人を捕まえるなら、今日がチャンスだ。

脱衣かごに、湿った洗濯物を回収して窓際へ向かう。そして、いつも通りに衣類を干していく。
 だるまの手ぬぐいを、窓枠から見えるギリギリの端っこに干した。
 なるべく、自分が外出している状態に近づけるために、部屋の電気を消し、カーテンを閉める。しかし、手ぬぐいの様子だけ見えるように、ほんの少しだけ開けていた。
 テレビもつけない。万が一、窓の外から姿が見えてしまわないように、常に低い姿勢で過ごした。
 その状態で過ごすのはなかなか大変だったが、今後、ストレスなくここで生活するためだと、我慢し、窓の外のだるまをにらみ続けた。

「腹へったぁ~」

 昼の、十一時が過ぎたころ。空腹を感じはじめる。何か作ろうか、しかし、物音を立てたら犯人が現れないかもしれない。軽いおやつをつまんでしのごうか、頭を悩ませているときだった。

 窓の端で、だるまの手ぬぐいが動いた。
「きた!」
態勢をより低くし、じっと手ぬぐいの動きを見る。手ぬぐいは、窓枠の外に向かってピンと伸びている。何者かが引っ張っているのがわかる。

 俺は、気づかれないようにゆっくりと玄関に向かい、靴を履いた。そして、音をたてないようにそーっとドアを開ける。足音を立てないように、抜き足差し足でぐるっとアパートを一周回る。はたから見たら完全に怪しい人物だが、気にしてはいられない。そして、俺の部屋の前に来ると、物陰に隠れた。

 そして、呼吸をととのえる。相手は、子供か、年上の大人か、それすらわからない。得体のしれない相手に文句を言うのは、かなり勇気が必要だった。ほうきか何か、武器になりそうなものを持ってくればよかったと後悔した。

 しかし、取りに行っている間に、犯人は逃げてしまうかもしれない。呼吸をととのえ、意を決して物陰から飛び出し、声を出した。

「やめっめろぉ!」

声がうわずり、言葉を噛む。ふり絞った勇気に比例して声が大きくなり、恥ずかしくなった。
「…あれ」
思わず、拍子抜けする。子供のいたずらか、意地の悪い老人の仕業かと思っていたのに、そこにいたのは、乳母車を押す若いお母さんだった。
「…あの、ごめんなさい!」
お母さんが、泣きそうな顔で頭を下げる。
「いや、こっちこそ、ごめんなさい!」
思わず、謝ってしまった。
「いえ、本当に、ごめんなさい。そちらは、何も悪くないです」
そう言うお母さんは、とても疲れているように見えた。もしかして、育児の疲れからストレス発散にやっていたのだろうか。しかし、そんな意地の悪い人にも見えないし、そんな人なら、謝罪などするだろうか。

 「…何か、あったんですか?」
そう、聞いてみる。
「…あの、だるまさん。この子のお気に入りなんです」
乳母車の赤ちゃんは、風に揺れるだるまの手ぬぐいを見て、笑っていた。
「この子、一度泣き出すと、泣き止ませるのが本当に大変で…。ミルクをあげても、抱っこしても、おむつを変えても、全く泣き止んでくれなくて。このままだと、近所の人に虐待を疑われるんじゃないかって、不安になって…」
赤ちゃんは、それほどのひどい泣き声を出すとは想像できないほど、朗らかに笑っていた。
「とにかく、外に出ようって。泣き続けてるこの子を乳母車に乗せて、散歩に出たんです。なるべく、人のいない道を選んで歩いて…」
確かに、この辺は人通りは少ない。
「そうしたら、ここに来た途端ピタリと泣き止んで。このお散歩コースが好きなんだろうなって思って、ちょっと安心したんです。でも、次の日は泣き止んでくれませんでした。あの、だるまさんがいなかったんです」
お母さんが、だるまの手ぬぐいを見上げる。
「あのだるまさんを見ると、その日一日、割と大人しく過ごしてくれるんです。泣き出しても、あまり癇癪起こさず、あやしたらすぐに泣き止んでくれて…」
「そうだったんですか」
「なので、あのだるまさんを、毎日干してほしかったんです。汚れがついていれば、洗い直さなきゃいけなくなって、毎日干してくれるんじゃないかと思って」
「本当に、ごめんなさい」と、お母さんが、深く頭を下げた。
「そんな、謝らないでください」
そう言うと、安心したような顔を上げた。
俺も、意地の悪い老人や、俺を恨む近所の人の仕業じゃなくて良かったと安心していた。そして、手を伸ばしてだるまの手ぬぐいを取る。
「はい、どうぞ」
だるまのてぬぐいを赤ちゃんに差し出す。小さな手で掴むと、可愛く笑った。
「いえ、そんな」
「いいんです。特別、大事にしていたものでもないので」
そう言って、赤ちゃんを見る。
「あい」
しかし、赤ちゃんは俺にてぬぐいを返してきた。
「あれ、気に入らなかったかな?」
「いえ、違うんです。きっと、もう一度あそこに干して欲しいんだと思います」
「あそこに?」
「実は、私も似たようなハンカチを買ってあげたりしたんです。でも、それじゃあ泣き止んでくれなくて…。この子は、ここで風に揺れてるだるまさんを見るのが好きみたいなんです」
「なるほど」
子育てって、大変だなぁなんて思いながら、もう一度、物干し竿にだるまを干す。
「きゃはは」
また笑って、両手でぱちぱちと拍手をした。
「これからは、毎日ここに干しておきます。いつでも、好きな時に見に来てください」
「いいんですか?」
「はい。他にもハンカチとかタオルとか、たくさんありますから」
「ありがとうございます」
お母さんが、深く頭を下げる。こんな事で、この人の子育てが少しでも楽になるなら、お安い御用だ。
「いつでもおいでね」
赤ちゃんに言う。しかし、赤ちゃんはいつの間にか、すやすやと眠っていた。「あら」と小声で言う。
「すいません」
「いえいえ。眠ってるいまのうちに、おうちに帰った方が」
「そうします。本当に、ありがとうございました」
そういって、お母さんは赤ちゃんを起こさないようにゆっくりと歩き出した。その背中を、だるまと一緒に見送った。

 「…また休校?」
大学からのメール。休校の通知だった。教授がうんたら、設備がかんたらと書いてあるが、そんなことはどうでもいい。今日は、家で一日中ゲームをして過ごさせてもらおう。

「腹減ったぁ~」

朝からゲームをやり続け、空腹を感じる。時計を見れば、昼前だった。
「何か食うか」
キッチンに立つ。やかんを火にかけ、カップ麺のフィルムをはがす。
「きゃはは」
外から、可愛い赤ちゃんの笑い声が聞こえてきた。窓に目をやる。赤いだるまが、風に揺れていた。

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