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『シン・ウルトラマン』─オマージュの宝箱

──いわゆる「ネタバレあり」の記事である点、予めご承知おき下さい。──

『シン・ウルトラマン』─オマージュの宝箱─

『シン・ウルトラマン』は、「オマージュの宝箱(あるいはその愛すべきおもちゃ箱)」でしたね。微細な点についてもいくつも思い当たりましたが、それでも映画館での視聴だけではまだまだ気づけていないものもあると思いますから、ここでは比較的大口の所を挙げることにします。

まずは「ウルトラマンの正義」の捉え方についてです。次の(1)、(2)の2点にそれが表れます。

(1) ゾーフィがゼットンをもたらす展開
─ウルトラマンの正義 その1─

まず想起したのは『ウルトラセブン』第33話「盗まれたウルトラアイ」(のマゼラン星雲人)です。マゼラン星雲人マヤはダンに「こんな狂った星を?見てご覧なさい、こんな星…。侵略する価値があると思って?」と言いますが、狂っているのは星自体ではなくそこに住む人間たちということですね。ゾーフィがゼットンを地球にもたらすのももちろん人間(人類)に対してでした。

さらに、『ウルトラマンコスモスVSウルトラマンジャスティス THE FINAL BATTLE』では、その符合度がさらに増します。マゼラン星雲人は人間に対しては「狂っているから爆破する」ということに終始したのに対し、ジュリ=ジャスティスとゾーフィとは「後に人間の価値を認めていく」という筋まで並行できます。

以前、『紀要ウルトラマン批評』(神谷和宏さん主宰の同人誌)で組まれた特集「ウルトラマンの正義」への拙稿で、正義というものの複数の型としてメフィラスの「無理なる」正義とジュリの「宇宙正義」について、彼らの「漆黒の姿の美」という類似点とも併せて並列して論じたことがあります。そのメフィラスが『シン・ウルトラマン』にもやはり登場しましたし、ジュリ=ジャスティスとデラシオンはゾーフィとゼットンにみごとに呼応しますね。『シン・ウルトラマン』は“精読”できる環境にまだないので、代わりに、やや長くなりますがこのジュリとメフィラスについての拙論の主要部を引用しておきます。

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メフィラス星人は、非暴力の礼儀正しい紳士として、「私のルール」に基づき、力づくで地球を奪うことはせず、「地球をあなたにあげましょう」という了解の言葉をサトル少年に求め、地球と違って戦争も交通事故もない、何百年何千年と生きられる星に住めるようにする、と誘惑する。だが、サトルは、僕は地球の人間として自分だけが長生きしたり豊かに暮らせたりしても嬉しくない、と斥ける。[…中略…]その後メフィラスはウルトラマンとの互角の対決を途中で放棄して言う。

「よそう。ウルトラマン、宇宙人同士が戦ってもしようがない。私が欲しいのは、地球の心だったのだ。だが私は負けた。子どもにさえ負けてしまった」[…後略…]

[……]
メフィラス星人には独特の「正義」があるといえないだろうか。すなわち、自ら決めたルールに従う正義や「人類の同意があれば地球を侵略してよい」という一定の筋道=主意主義に従った正義があると。
[……]
「宇宙正義」とはどのような正義なのか。「予測したからだ、未来を。今から二千年後、地球は宇宙にとって有害な星となる。よってすべてを消し去り、生命の進化をやり直すのだ」というジュリの台詞から判断すれば、「他の大多数の星にとって」有害なものを排除するということであろう。ジュリのいう宇宙正義とは、宇宙全体に対する「最大多数の最大幸福」をもたらそうとする点で、功利主義的正義といえる。
 このような宇宙正義の対立概念として、人類の側の「夢」「希望」「優しさ」「自己犠牲」「泣き、笑い、怒り、そして、思いやる心」等々の、情感のある温かな言葉が並ぶ。つまり正義とは、地球生命のリセットをシロアリの駆除にたとえる「宇宙の視点」を持つほどに冷酷なのである。宇宙正義の概念がこのようなものとなるのは、明瞭な正義と曖昧な心という対置の他、倫理的なものを含意する日本語の正義と善や倫理を含まない justice との相違にも由来しよう。
[……]
 ジュリ=ジャスティス─デラシオンの宇宙正義と対立するもの、メフィラス星人の「無理なる正義」が挑んだものは、ともに人間の「心」であった。正義─心が、冷─温あるいは硬─柔のイメージで対立し、後者がより人間的で大切であるように描かれる点で二つの物語は共通する。この共通性から発してメフィラスの無理も正義の一種だとする逆の筋も考えうる。黒・紺といった暗色に身を包んだ(それぞれの尺度で見て)美しい姿で、上から人類を見、ウルトラマンと互角以上の力を持つジュリとメフィラスは、酷似している。それは人間の心の対立者としての共通性であり、十分に理由のあることだといえる。ともあれ、両者の物語において正義概念はこのようにひとまずマイナス価値として出され、プラス価値として「心」の一語に象徴されるいくつかの概念がそれに対置される。

──「「ウルトラマン正義論序説」へのメモ」(2011年、『紀要ウルトラマン批評 Vol.8』「特集 ウルトラマンの正義」所収)──

(2)『ウルトラマン』最終話「さらばウルトラマン」との呼応
─ウルトラマンの正義 その2─

この呼応の事実は、ゾーフィとゼットンの登場、ゾーフィとウルトラマンの最後の対話シーン等々、形の上では自明です。が、ここで重要なのはやはり、

「(初代)ウルトラマンの正義とは、あくまで人間の味方をするという一つの偏った正義であった」という基本線を踏襲している

という点でしょう。『ウルトラマン』や『ウルトラマンコスモスVSウルトラマンジャスティス』における「ウルトラマンの正義」は、ジュリ=ジャスティスの「宇宙正義」とは異なる正義です。特に『ウルトラマン』の場合、その独特の正義に沿った行動に向かうための、「一人の人間ハヤタを事故死させた償い」という具体的契機が与えられている(と読める)ということ。(初代)ウルトラマンが人間の利を優先し、ゴモラを倒しジャミラをも倒し、ヒドラにはさすがに怯むも、ウーをも制そうとした、それらすべてのひとまずの理由になっています。秀逸な活性フィクション。そして、その償いの過程でウルトラマンはハヤタや人間のことを好きになっていったのだろう…ということですね。そこは『ウルトラマン』では視聴者の想像力に委ねられた部分だったかと思います。『シン・ウルトラマン』ではさらに一歩踏み込んで、ウルトラマンが人間を好きになった「のはなぜか」ということについても説明・描写が為されました。その部分は、できる限りの徹底を意図したためか、「申し訳ないことをした、神永…」ではなく、外星人ウルトラマンは自己の利にならぬ「犠牲」の概念について初めは理解できない、だからこそ「興味を持った」から始まる…など、理屈っぽい台詞も多かったのですが、それだけに筋はよく通っていたように思えます。つまりこれは、『シン・ウルトラマン』の作者(たち)自身がその想像力を働かせた当時の視聴者であり、今回の映画作りに当たって改めてそれをある一つの向きに突き詰めていき、その想像を集約し創造に転換した、好結果であると捉えました。『ウルトラマン』ではさすがに唐突だったペンシル爆弾の件も、『シン・ウルトラマン』では「ウルトラマンと禍特対のしっかりとした協同協力による成功」の描写に昇華していました。また、その成功描写とは

ウルトラマン─神永にUSB(内の資料)を託された滝明久がベータシステムを2度連続して使うという打開策を見出し、それに沿ってウルトラマン─神永がゼットンに立ち向かい、撃破に成功

というものですが、この展開は『ウルトラマンティガ』最終話におけるマサキ、シンジョウ、ホリイによるティガ復活作戦(の失敗)への反転アンサーにもなっていると読み取れます。

さて、他にも、既存のウルトラマン/ウルトラ論との関連で重要と思えるものを2つ挙げておきます。

(3) シン・不同型…シン・同一型?

ウルトラマン─神永新二は、不同型か同一型か。noteマガジン拙稿「光の授受の挿話─ナゴール的な、もしくは非ナゴール的な─ ウルトラマン第一話の形態学」「ひとりぼっちの宇宙人─ウルトラセブン視聴記─」を書いている者として、ここに触れずにはおけません。神永新二はウルトラマンと別個体の人間であり、神永自身の人格を当然備えていました。その神永と「融合した」という(台詞による)説明があったかと思いますから、ウルトラマン─神永は、私の定義からすると明らかに不同型です。しかし、融合後のウルトラマン─神永が、神永の姿で、眠っている元の神永の身体をそのそばで見守るシーンもありました。しばらく神永の身体を“別に保存”していたのでしょうか。あるいは、その後「その身体が消える=魂?が小さい器具に納まる?」かのようなシーンも挟まれるので、ウルトラマン─神永自身が、神永が亡くなった場所を神聖化した上でそこに元の神永の身体の幻影を見ていた、などとも受け取れます。いずれにせよ従来の不同型とは異なる様相です。「融合」後の神永の言動・行動は、むしろ「融合」という語句(に代表される不同型を思わせる説明/描写)さえ無ければ、元の神永が『ウルトラセブン』の薩摩次郎に該当する「同一型」に近いのかとも思わせ…。しかしラストはやはり不同型の典型のように締めくくられます。「新二=新しい二」という名前には「不同型ではあるが、ある意味新しい不同型である」という含意があるとも読めます。いずれにしても、これまで連綿と繰り返されてきた「人間⇄ウルトラマンの変身」について「それはいったいどのようなことか」と改めて問い、それにただ答を与えるのでなく視聴者をも立ち止まらせ、どうなのか?一緒に詰めて考えてみよう…という感じになっている、と受け取りました。──映画(化)には「普段」のTVシリーズであまり省みられないそういった部分への説明や根拠付けの機会となる作用があるのでしょう。本稿はひとまずなるべく他の作品や資料には当たらずに書くことにしているので不正確な記憶かもしれませんが、『ULTRAMAN』での変身描写が独自であったこともふと思い出しました。──このような、あるいはそれ以上の説明が必要になってくる在り方も、おそらく意図的に謎めかしている(映画館での視聴のみでは謎めく…というバランスに置いた)ということなのでしょう。このような不明確さは、一般的には往々にして《フィクション不活性》に陥りがちなのですが、これに関してはそうはならず、視聴後に新たな《活性フィクション》を見出せることを期待させるような興味関心事項となっていると捉えました。

『シン・ウルトラマン』は確かに、『ウルトラマン』の単なるオマージュというだけでなく、かつての本編では説明の無かった個々の多数のフィクション──「ウルトラマンが人間を好きになった理由」「“巨大化”の合理性」等々──に、自己言及し説明を施し理由づけし辻褄を合わせようとしています。そのすべてに首肯できるわけではありません(後述)が、ともかく映画自体がそうした作業結果の披露であるという一面を持っています。

ならばこそ、それと同時に『シン・ウルトラマン』自体の謎も設えておこう…という作り手の意図/意気込みもまたあったということではないでしょうか。ウルトラマン─神永の(不同/同一の)型の曖昧性=“シン・不同型”性もそういう謎の一つとして仕掛けられたのかもしれません。

(4) ウルトラマンの超越性と生命性

まず、生命性について。ウルトラマンの存在は、『ウルトラマンティガ』において「M78星雲の宇宙人」から「地球古代の光の巨人」へとシフトしました。まさに切通理作氏の著書名の通り「地球はウルトラマンの星」になったのです。平成のウルトラマン復活にふさわしい大転換。ティガの石像はまさしくティガ自身でした。「ノアの神」の発展形。しかし、ノアの神の方は、その石像が彫られたという事実が、却って、石像自体はけっしてウルトラマン自身ではないことの証になっています。「宇宙から地球へ」の転換の象徴といえる反転/相違です。

「ダイゴは光であり人なのです」(ユザレ)や「人間は誰でも光になれる」(最終話のダイゴの台詞の要点)などの言葉に表れるように、『ウルトラマンティガ』においてウルトラマンとは光そのものです。「光」とは、人とは異質の「何か」であり、その具象かつ概念として「光」というものが採られました。

『ウルトラマンダイナ』では「地球の」は弱まった感がある?けれども、第1・2話を見ると、石像という実体を持っていたティガと比べ、「ウルトラマン=光」という「抽象化」がさらに進んでいる印象です。そして次の『ウルトラマンガイア』では「地球の」が再度強調強化されました。

『シン・ウルトラマン』のウルトラマンは、『ウルトラマン』を踏襲し、抽象的な光(の巨人)ではなく「外星人の銀の巨人」となりました。そしてまた、融合後の神永は「ウルトラマンは神ではない。人間と同じ生命をもった有機体である」とも明言します。このように、『シン・ウルトラマン』のウルトラマンは、第1期・第2期および『80』、また平成3部作以後にそこへ回帰した『ウルトラマンマックス』『ウルトラマンメビウス』のウルトラマン同様、初め(=《光の授受》以前)からはっきりと生命存在とされました。人間にとって途方もなく凄い、とても手の届かない超人、それでいて、命ある、友情の成立する関係を結べる近しい相手でもある…。それがウルトラマンだと。

次に、超越性について。『シン・ウルトラマン』では、人間もベータシステムによる巨大化の可能性はあるが、光自体(=光の星の超人=ウルトラマン自体)にはなれない、とされていたようです。(2) でも述べたように、ゼットンを倒そうとする展開においては、ウルトラマン─神永から託されたベータシステムの資料を滝明久が読み解くことで打開策の着想へと向かいます。打開策を着想─展開したのは人間たちです。しかし人間だけではそこへは至れなかったことも含意されています。ウルトラマンという超越存在から託されたものがあったからこそ、またその解決法をウルトラマンに託し返してウルトラマンが自らの能力でそれに応えたからこそ何とかできた、ウルトラマンの導きも超能力も必要であった、ということです。さらにはもちろん、ウルトラマンだけの一度目の失敗もはっきり描かれ、人間とウルトラマンの協同協力が必須だったという流れにもなっています。超越者だが神ではない、という両義性です。生命性とも通じます。

『シン・ウルトラマン』が『(初代)ウルトラマン』への敬愛を軸とするなら「ウルトラマンの超越性・生命性」は自ずと要点になるはず…と考えていた通りのことが果たされていて、そこは素直な感慨をもって受けとめています。

(5) 怪獣星人存在の多様性の希薄化

『シン・ウルトラマン』の様々なフィクションのうちには、少ないながら難点と感じた部分もいくつかあります。ここでは一点、本稿(3) で述べた、自己言及し説明を施し理由づけし辻褄を合わせようとしているそのすべてに首肯できるわけではない、とした部分のみあげておきます。

怪獣星人存在の多様性について。ここは「怪獣挿話集」としての『ウルトラマン』に遠くおよびませんでした。登場個体数が少ないというだけなら1本の映画として無理からぬこと当然のことで、それを少ない/アレが出てない/コレを出せというのは“不摂生なツッコミ”でしょう。ここで言いたいのは単なる個数のことではなく、怪獣星人存在を一本に繋がった何かとして統一するというのはマイナスではないか、ということです。

「空想特撮シリーズ」の「空想」の由来は「空想科学」の「空想」であると捉えます。科学的根拠らしきものを用意するところが「空想科学」の「空想」です。当然ながらそこで与えられる根拠/説明はあくまで「らしき」に留まり、稚拙なことも多くなります。通常、SFのFはFICTIONのFでFANTASYのFではありません。「空想特撮」には後者のFも差し挟めるし、『ウルトラマン(総称)』にはその線の名作がいくつもありますが、前者のFの部分に対してはその「らしさ」の精度を高めようと努めることにもなるのでしょう。

けれども、そのような「らしき」空想であるからこそ、「理由」よりも「様態」こそが大事であると思うのです。「どのような」空想であるかがフィクションの面白さにとって重要でしょう。ところが作り手も視聴者も、そのように空想したのは「なぜ」か、「なぜ」その空想が成り立つか…という具合に、空想の根拠を求めていきがちです。そういうところにばかり注力し出すと、フィクションへの“不摂生”な付き合いになると危惧します。現実世界のリアリティーへの擦り合わせによって、せっかく拵えた“作品世界のリアリティー”の方を自ら損なわせるようなことが起きてしまうのです。

「怪獣はなぜ日本にのみ現れるのか」「怪獣とは一個体のみか種として存在するのか」というのは、その“不摂生”なツッコミの代表例(に程度によってはなりえるもの)だと考えます。そういうツッコミに対し、誠実にあるいは意地を見せて?回答を与えようとして、生物兵器という設定へ至ったのだろうと推測しますが、そういう理由付け(“納得させ”)は、往々にしてフィクション自体の不活性化を招きます。

ここのところは、『シン・ウルトラマン』に限らず古くから連綿と続いてきていることだともいえ、『ウルトラマンエース』のヤプール、『ウルトラマンガイア』の根源的破滅招来体、『ウルトラマンコスモス』のカオスヘッダー等も同様です。“空想野が狭まる”とでも言ったらいいのでしょうか…。

「怪獣挿話集」=『ウルトラマン』に現れた多種多彩な怪獣たちは、相互に独立無縁というあり方が基本であるからこそ、個々の魅力が光る存在になっていたといえます。それらはまさにただどれもが「怪獣である」という認識によってのみ一括りにできるのであり、その分類自体にアプリオリな付加的意味=存在根拠が備わっているわけではなかった──少なくとも作品世界内では明示されなかった──のでした。そのような怪獣星人存在を何らかの統一の下に扱うことによって、個々の怪獣星人の固有性が無化または希薄化していきます。

メフィラスは、単独存在として飛来したのであってヤプールのような統一悪の感はなかったものの、「実は地球の禍威獣を仕切っていた」ということではあったかと思います。初代メフィラスがザラブ、バルタン、ケムールを従えたときは、相互に独立無縁だった怪獣星人存在の世界の中でそのように配下を持つ唯一の存在──後にジェロニモンが現れますが──として異彩を放ったところにまさに意味がありました。あのザラブ、バルタンより上位?…という脅威の表現です。しかし『シン・ウルトラマン』では地球の禍威獣たちすべてがメフィラスの脅威を示すためのダシになった感があり…。メフィラス自身については、一度『ウルトラマンメビウス』で「エンペラ傘下」に矮小化された恨み?もあり名誉回復とも取れるのですが(笑)、禍威獣たちの方の存在の器が小さくなってしまったことは否めません。

また、パゴスとネロンガとガボラを「これらは実は“同じ”だ」ということに正当な理由を与えて出現させる、しかも「初代は顔だけは違っていた」ということも逆手にとって「パゴスとガボラの顔は同じ」とする…と、確かにいろいろ面白いのですが、それはやはり“フィクション活性度”が低下する向きに働いています。(『ウルトラQ』および)『ウルトラマン』では「同じ」パゴスとネロンガとガボラが「まったく違う」怪獣だという、まさにそこが面白いということではないでしょうか。

──連綿と続けられるシリーズで原初の怪獣挿話集的多彩性を保つことの困難さについては十分想像もできますが、今はその点は置いています。──

(6) 結び

『シン・ウルトラマン』について私が難点を感じた箇所は(5) の他にもいくつかあるのですが、(5) を含め、ほぼどれもが他のウルトラ作品やウルトラ以外の特撮あるいは広くTVドラマ一般や映画一般においても散見される種類の難点です。それに対し、本稿(1) 〜(4)で書いた、およびそこに書ききれなかった、好評価できる多くの箇所のほとんどは『シン・ウルトラマン』独自の特徴特性が散りばめられた箇所だといえます。ここへきて小口のものを一つだけ挙げるなら…ウルトラマンの映画でルドルフ・シュタイナーと高橋巌の名が映り、思わず小さく声が出ました。ウルトラマン─神永が人間の文化と知を書物で吸収しようとするというフィクションの自然な描写の中での、《神永の斎藤性》の一瞬の表出。とこれはあまりに細かく特殊過ぎる例かもしれませんが。

もとより中身に惹かれない人は価値を感じないし、外からの制約や外への限界に目を向ければついつい「ないものねだり」をしたくもなるものの、そこにある中身に惹かれて目を向ければ他にない魅力がたくさん詰まっている…『シン・ウルトラマン』もまさしくそうした「宝箱─おもちゃ箱」の一つであると思います。

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