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アメリカ視察記⑥【公園でバスケ】酸欠と息継ぎ

アメリカ視察3日目。
明日には日本に帰らなければならない。
実質最終日。

前日にドタバタ劇を演じサザエさんと化してしまったのだが、この日の朝は早い。

4時半に起きて、5時ごろにホテルを出発。
1時間ほど歩いてバスケットゴールがある公園へ出向く。

最高に気持ちのいい朝の時間

ディズニーランドを越え、大通りを一歩入れば住宅街が広がる。ゴミは落ちてないし、臭いもない。治安が良いだろうなと思いながら通りをひたすら進む。

狭い土地に縦長の家ではなく、広い土地に横長に作る家がザッと続く。
それぞれの庭には天然芝があり、ガレージがある。俺の知ってるアメリカの家。

なんだかバランスおかしい

そしてガレージがあるのに路駐も多く、「車社会だから複数台必要なのか」「そもそもガレージに入れるのが面倒くさいのか」など生活を想像しながら公園へと向かう。

目に映るすべてがカッコイイ

1時間ほど歩くと考え事をしていても、思考が尽きる。
頭が空っぽになり、ひたすらアメリカの街を歩くだけの時間が訪れる。
この道中の写真はあまり残っていない。
ある意味、シンプルにアメリカを堪能していたのだと思う。

そうこうしているうちに公園に着く。

人見知りは人知れず心配を募らせる

バスケットゴールだけでなく、フットボールができそうな広場、野球場、散歩を楽しむスペースなど広くて最高な空間。

バスケットコートには誰もいない。
朝早く家を出たのは気兼ねなくゴールを使うためである。

ゴールを使われていたら、英語ができなくて人見知りの俺は何もできない。
ただ、ゴールが空くのを待つだけである。

もし、そのような状況になったとしてバスケットボールを持った日本人が所在なさげに待っている状況を見て、気を利かしたアメリカ人が「お前も一緒にやるか?」と言われたらと考えると自分は怖くて仕方がない。

そこで入っていけるのは「バスケ経験があって、英語ができて、社交性がある」という条件が揃った人だけである。

自分のような「経験がない、英語できない、人見知り」の場合、ミニゲームに参加させられたら萎縮しかしないだろう。
ゴール前でパスをもらったら、シュートを打つ、、、いや、パス。となるに違いない。

ミニゲームはミスを笑いあえる中だから楽しいのだ。

とりあえず、ゴールを使えることができる。
周囲に人はいないし、「譲れよ」という圧を受ける心配もない。
心置きなくバスケを始める。

https://www.instagram.com/p/CvureCdPpgzEarMHA9NW3SKJN4KT0cPeE4pRxo0/?img_index=1

入った本数を数えるわけでもなく、できるようになりたい技術を徹底的に練習するわけでもない。

自分のできる範囲のプレーで「ボールが手に吸い付くドリブルの感触」「シュートが入った時のネットの音(三井が欲しがったアレ)」「一連の動作がうまく噛み合った時の余韻」を五感をフル活用して味わう。

しかも、誰もいない朝の公園で。
本場のアメリカの雰囲気を味わいながら。

もう、何もいらない。

歩きながら自販機で水でも買えばいいやと思ってホテルを出たのだが、日本とは違いそんなものはなく水分補給ができない状態だったので「こんなところで熱中症や脱水症状になってはならない」という防御本能も働き、そこそこでプレーを中断。

公園内をぶらぶらして、リスを追いかけ、清掃のお兄さんと談笑をして去り際には握手を交わし、帰路に着く。

定番のリス
広くてデカくてキレイ
スプリンクラーが作動中

帰りの道中、奥さんとLINE電話をしながら歩いていたのだが、
「顔がスッキリしてるな。よかったな。こっちは全然大丈夫やで。」
と言われた。
どうやら自分は完全に整っていたようである。

リセットしてから1日を始める

朝に早起きして体を動かして整う。
これはいつものルーティーンである。

自分は小学校4年生のときから野球の朝練をしていた。

朝早く起きて、ランニングをしたり素振りをしたりして身体を動かす。
当初は少年ジャンプの主人公のように「努力・勝利」に向かって突き進んでいる感じが自己肯定感にもつながっていたのかもしれないが、それは表向きの理由である。

継続できた理由は、自分だけの「ひとり空間」を満喫したいからに他ならない。

なぜ、観光地にいかずに公園に行くのか。
なぜ、バスケやスケボーをしているだけで多幸感がハンパないのか。

すべては、そこにつながっている。

家族、友人、学校、仕事。人との関わり合いにおける感謝もあれば、しんどいこともある。
すべては都合よくできていない。

日本という国は家族・仲間・組織という〈ウチ〉の圧力が強い。

自分は「みんな一緒」という圧が、ある一定以上の水準を超えるとと息苦しくて、その場にいられなくなる。

家から飛び出すように素振りをする
親戚の集いがしんどくて散歩に出かける
クラスTシャツを買いたくなくて頑なに拒否する
家を建てるときは書斎を作る

社会という〈ウチ〉から〈ソト〉に飛び出すことで息継ぎをして、社会生活に戻っていく。

この時間はクリエーターがやるような自分の内側に潜っていく、本当の自分を抉り出していくような作業ではない。

やっていることに生産性はなくとも、それをしないと酸欠になって苦しくなるのでやってしまう作業である。

思考が止まるほど体に負荷をかけて、リセットしてから1日をスタートさせる。

それはランニングでもバスケでもサウナでもライブでもゲームでもいい。
今回はアメリカという場所で、それをさせてもらったわけである。

こんな贅沢は他にないし、つくづく思う。

社会で生きていくためには〈ウチ〉と〈ソト〉の行き来をするバランス感覚が必要だ。

これからも朝に体を動かしたり、
洗濯などを引き受けてダラダラとラジオを聴きながら干したり、
聴きたい曲がちょうど聴き終わるように道を選びながら家に帰る。

成功と勝利につながっている訳ではないけど適度に息継ぎしながら生きながらえよう。

そして、いつの日かもう一度アメリカでバスケをしたいという思いがふつふつと湧いており、どうすれば(奥さんの)マイルを貯められるのかを日々考えている次第である。


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