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「自分らしく生きる」を目標にしてる人に言いたいこと。


自分らしく生きる。


最近よく、リアルでもネット上でもこんな宣言をよく見かける気がする。それを見て、ぼくはシンプルに「いいね」と思う。でも冷静に考えてみると、自分が自分として息をしている以上、自分らしく生きるのは「あたりまえじゃね?」と思ったりもする。ていうか、生きてるだけで自分らしいんじゃね?と。それでも、わざわざ自分らしく生きる。と宣言する人がいるということは、自分らしく生きていない人がいるという事実の裏返しでもあったりする。


自分らしさとは


そう。じゃあ自分らしさとはいったいなんやねん?ということになってくる。なってくるのだ。なにが自分らしくて、なにが自分らしくないねん?と。


本音で生きる。


自分らしさとは、本音で生きることなんじゃないか?と考えた。自分の心から湧いて出てくる本音こそが自分であって、本音に従って生きることはまさに自分らしく生きることだといえるのではないか。それならば会社の上司から飲みの誘いを受けたとき、「(正直気分がのらないので)今日はやめておきます」と断るのが自分らしいのか?じゃあ逆に、「(えぇ、今日はあまり飲みに行きたい気分じゃないなぁ。でも断っちゃうと後々気まずくなりそうだしなぁ、、、)いいですよ」と答えるのは自分らしくないのか?どっちなんだいっ。


どっちでもないっ


そう。ぼくはこの場合どっちでもない、つまりどっちも自分らしいと思う。なぜなら、自分の本音よりも上司の気持ちを優先する人もいるだろうし、それはそれでその人らしいと思ってしまうからだ。たとえそれが、「上司から嫌われたくないから」という理由であったとしてもだ。じゃあ自分らしさとはいったいなんやねん?ということになってくる。なってくるのだ。ますますわからない。

…少し考え方を変えてみよう。もしかしたら自分らしさとは、自分ではなく他人の方が知っているのではないか?という仮説が浮上してきた。そういえば昔、ぼくが好きだった子に告白して見事にフラれたとき、「まぁそれもお前らしいやん」と言って友人に慰められたことがある。なるほど。つまり自分らしさとは本音どうこうの話ではなく、実際の言動として表に出ている部分、つまりはた目の自分こそが自分らしさということなのか。

ぼくは当時の様子を思い出してみた。大学2年生のころだ。ぼくは恋をした。どの瞬間だったかは忘れたが、ぼくの心は「きゅんっ」とマンガみたいに音を立てた。あれは何の音だったんだろう。まぎれもなく恋に落ちた音だ。小さな恋は幾度となくしてきた。それでも「きゅんっ」を聞いたのはそれがはじめてだった。輝いた。視界のすべてが美しく輝きだした。いつもなら舌打ちが漏れて出てしまいそうになるくらい遅い、ファミリーマートの森本という名の店員のレジ打ちさえもアートだと思えた。それと同時に駆り立てられた。はやくあの子の彼氏になりたい衝動に駆り立てられた。


ぼくは童貞だった。


正確には素人童貞だった。中高6年間を男子校でにがい汁を吸ってきた。6年間でまともに話した異性は母親だけだった。そんなぼくが恋をするとどうなるのか。これまでの過去を美化しだすのだ。つまり、この子と出会うためにぼくは童貞を守り続けてきたのかと。「童貞も守られへんやつが、誰を守れるねん」をスローガンにして生きてきた。その「誰を」がついにぼくにも見つかった。ということはつまり、まぎれもなく運命だと。そのときぼくの脳裏にはとある名言が浮かんでいた。


明日やろうは馬鹿野郎。


童貞のぼくはもちろんプロポーズ大作戦を見漁っていた。そうだ。思い立ったが吉日だ。奇跡の扉を開くことができるのは、すぐに行動を起こしたやつだけなのだ。もっと仲良くなってからにした方がいい。と得意げに言ってくるやつらがいる。なんだその余裕は。お前らに彼女ができた栄光時代はいつだよ…中3のときか?


オレは今なんだよ!!


決まった。桜木花道にも負けない熱量で、月9の主役に抜擢されるんじゃないかくらいの陶酔っぷりで、ぼくはその子に想いの丈をぶつけた。好きですと。付き合ってくださいと。


無理ですと。


あれ?あ、うん。えっと、ごめんごめん聞き間違えちゃったかな。あのね、うん、ぼくはあなたのことが好...


嫌ですと。


え?ん、んん?い、いやってのは、うん?えっと、その…


付き合えませんと。


うん。あー、はいはい、なるほどね。えっとね、うん。いや、だからその、なんていうのかな。あの、ははは。あはははははははははは。ちがうちがう。ちがうよ。そんなに深く考えないでよ。ぼくはとってもポップな話をしてるんだよ?どれくらいポップかというとポッペストだよ?最上級だよ?消しゴム貸して?くらいのノリだよ?そんな真剣に考えられてもなー。ほら、ていうか冷静に考えてみてよ。ぼくはきみに恋をする運命で、きみはぼくと結ばれる運命なんだよ?これ大前提ね。これはもうさだめ、っていうかルールだから。いや、わかるよ。もちろんわかる。幸せになるのだって勇気がいる。覚悟がいることだと思う。でもね、考えすぎはダメだよ。大きい決断こそポップにいこうよ。ぼくの「付き合ってください」に、きみは「おっけ~♪」って返事するだけでいいんだよ?うん。減るもんじゃないよ。ていうかむしろ増えるんだよ?幸せの総量増し増しだよ?あ、そう考えたら、消しゴム貸して?よりも簡単な話だと思わない?だって消しゴムは減るよ?あれ?なにこれ、なんか出てきたよ?あふれ出てきたよ?あれ、どうしてだろう。まったく止まらないや。とめどなく流れてくるよ?あははは。なんで?これってどういう涙?悲しのかな?悔しいのかな?やるせないのかな?あはははははは。でもぼくは笑っているよ?ほら見てよ。あはははははははははは...


運命とは。


じゃあ運命とはいったいなんやねん?ということになってくる。なってくるのだ。なってくるのか?無論なってくる。運命とはそもそも、世の条理なのだ。そこに人の意思が関わる余地など当然ないはずだ。必然なのだ。ぼくは運命の相手を見つけた。そして条理にしたがって「付き合ってください」と言った。あの子は「無理です」と言った。ぼくはあの子と結ばれる運命だった。それでもあの子は「嫌です」と言った。この恐ろしい矛盾が示している事実はたった一つ。ぼくはあの子と結ばれる運命ではなかったということだ。つまりただの勘違いということだ。ぼくは恐ろしく勘違いをしていた。心の「きゅんっ」は、そこらへんの鳥のさえずりだったということになる。それをぼくは、運命の恋を見つけた音だととらえた。そして走った。ひたすら走った。オレは今なんだよ!!と自分を奮い立たせて、プロポーズ大作戦のやまぴーを自分と重ねあわせて走った。そして伝えた。等身大のラブソングを伝えた。そしてフラれた。完膚なきまでにフラれた。はじめてのことだった。まず告白したのがはじめてだった。落ち込んだ。泣いた。痛んだ。心が痛んだ。舐めた。童貞の友人と傷を舐めあった。そして友人は言った。まぁそれもお前らしいやんと。



やかましいわっ!!!



こんなに情けないぼくがぼくらしさだというのなら、断じてぼくはぼくらしさを認めない。認めてはいけない。受け入れてはいけない。運命なんか知るか。誰が決めたもんやねん。マジでファック。変わるのだ。この痛みをバネにして。運命に中指を立て続けながら成長していくのだ。つまりだ。自分らしさというものなどそもそも存在しないのだ。忘れかけていた本筋に話をもどそう。そういうことなのだ。自分らしくなんか生きてしまえばそこで成長はとまるのだ。「お前らしいやん」と友人が言ったと。知るかと。お前が決めんなと。ぼくにはぼくの理想があるんやと。「どういう自分になりたいか」がすべてなんやと。それだけが自分らしさなんやと。


自分らしさ=理想の自分


じゃあ理想の自分とはいったいなんやねん?ということになってくる。なってくるのだ。理想の自分か。憧れの人物でぼくは考えた。ひとりいた。憧れの人物は誰かと聞かれると、ぼくはこう答えたい。「本田圭佑です」と。


ケイスケ・ホンダ。


このまえ放送されていた、NHKプロフェッショナル仕事の流儀を見た人はいるだろうか。その回は本田圭佑の特集だったのだが、最後にお決まりの「あなたにとってプロフェッショナルとは?」という質問に対して、10秒間考えたあげく彼は「ケイスケ・ホンダ」と答えた。なに言ってんだこいつwとネットが少々荒れていたが、ぼくには意図がわかる。プロフェッショナルをもはや自分自身にしてしまう。つまり、自分らしさを理想の自分にしてしまうということなのだ。自分らしさなど勝手につくってしまえばよくて、理想を描いてその理想に自分を近づけていくのだ。それこそが自分らしく生きるということなのだ。よし答えは出た。いまからぼくは本田圭佑を目指す!


ケイスケ・ホンダ=ぼく。


と、上記の等式をたてたところで、ぼくはとてつもない違和感を抱かずにはいられなかった。そして、その違和感の正体に気づくのにはあまり時間を要しなかった。そう。ぼくは本田圭佑ではないのだ。どう考えても。これはまぎれもなく事実であって、自他ともに認めざるをえないことだ。ただ、もちろんそれはわかっている。ぼくは別にサッカー選手になろうとも思わないし、実業家としてサッカークラブを設立したいとも思わない。なので生き方の部分で目指す!という宣言をした。その認識はぼくもしっかりできている。それでもどうしても違和感をぬぐいきれないのだ。仮にだ。もし仮に、本田圭佑になるためのノウハウを完全にコピーすることが可能だとする。そしてそのノウハウに100%したがって努力に努力を重ねるとする。するとどうなるのか。本田圭佑とまったく同じメンタリティの人間になれるのだろうか。いや500%なれない。それはなぜなのか。その答えはぼくにはわかる。その理想を目指して努力をする過程で、必ずぼくらしさがこぼれ出てくるからだ。どれだけストイックに目の前のことに取り組もうとも、今日だけはと好きな女の子に電話をしてしまう自分が、どれだけトガった発言をしようと意識しても、くだらない下ネタを挟み込んでしまう自分が、本田圭佑のマネをして頑張る過程で絶対に顔をみせるのだ。そしてそのポロっとこぼれ出てくる自分こそが、自分らしさなのではないだろうか。理想の自分を自分らしさにしてしまってもいい。ただ、その理想を目指す過程で必ず個性がにじみ出てくる。上司に飲みに誘われて、つい承諾してしまう自分も自分らしい。でもそんな自分を変えたいと思って努力して、行きたくない飲み会には絶対に行かない自分になったとする。それでもそこでまた、新しい自分らしさが出てくるのだ。どれだけ本音で生きようが、どれだけまわりに流されながら生きようが、自分という人間はふたりとしていない。だから、安心してあなたはあなたを生きればいいのだ。理想を追い求めようが、もうこのくらいでいいやと成長をストップさせようが、夢があろうがなかろうが、どんなあなたも、まぎれもなくあなたらしい。だからぼくは、自分らしさなんかにとらわれず、どんどんやりたいことをやっていきたいし、どんどんなりたい自分になっていきたい。ていうか、この記事書くのに5時間くらいかかった。こんな予定ではなかった。ぶっちゃけこの記事書こうと思ったとき、こんな結論になるとも思っていなかった。本田圭佑はおろか、童貞エピソードを書くつもりなどさらさらなかった。なんだこのクソみたいな記事は。あなたの5分を奪ってしまいほんとに申し訳ない。でもまぁ、


それも自分らしいや。


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基本的に記事は喫茶店で書きます。その時のコーヒー代としてありがたく頂戴いたします。