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遠距離恋愛のはじまり

高いビル群に、鳥の巣のような特徴的な建物。
窓から見えるその景色に、私は両手を大きく上に伸ばす。
ここに辿り着くまで、電車で3時間近くかかった。山々と畑が多く広がる地元では決して見ることができない景色だ。

ここ―東京にはるばる来た目的は、観光ではない。つい1か月前に恋人となった人と初デートをする為だった。
世間でいう『遠距離恋愛』という関係を、私とその人は始めようとしていた。

簡単に会う事が出来ない、東京に住むその人と付き合う事に迷いが無かったのは、前の恋人との関係が私の恋愛観に大きく暗い影を落としていたからだ。
大学生になって初めて付き合った前の恋人は、彼女という存在のいい所だけ得ようとし、私が少しでもできないと徹底的に攻撃してくる人だった。
恋人ってこんなものなのかな。こんな、毎回傷ついて、こっそり泣かなきゃいけないのかな。
そんな疑問を抱きながら付き合い続けたら、私の心は砂時計の砂みたいに小さく削られ、さらさらと下へ下へと零れ落ちて行って、ついに1粒も無くなってしまった。

恋は、永遠に上下が返らない砂時計のようだ。

空虚さしか残らないなら、恋なんてしたくない。
そんな風に思って20代半ばになるまでフラフラしていた私に、友人は「恋で傷ついた心は恋で癒せ」とお節介を焼いてくれた。

しかし、近くにいられたらまた行動全てが支配されるかもしれない。
臆病な私は、『遠距離恋愛』という安全圏で再び恋に向き合おうとしていた。


≪総レースのカーディガン≫

会うまでに1か月。電車に乗って3時間。
近距離の恋人同士ならば、考えられないほど膨大な時間を費やして会うその人と今日行く場所は水族館だ。

「久しぶり」
「お久しぶりです」

短い挨拶を交わし、お互いぎこちなく微笑む。どちらともなく手を繋げば、そこには初々しいカップルが出来上がる。
そんな関係に、私たちがようやくなった事など、道行く人は誰も想像できないだろう。

すぐ隣に恋人がいるのは、こんなに心躍るものだっただろうか。
恋にまだ臆病になってる私を押し込んで、熱帯魚の綺麗さや上手に隠れる魚を見つけてははしゃぐ事に専念する。
が、大水槽を抜け、屋外にあるペンギンエリアに着いた頃に1つの問題が起きた。

着ている総レースのカーディガンが、暑い。しかも重い。

太陽の光をキラキラと受け止めてくれる買ったばかりのそのカーディガンは、友達にもよく似合っていると評判で、私の1番のお気に入りだった。
初デートのコーディネートも、このカーディガンを中心に考えた。

しかし、地元ではひんやりした風しか吹かないのに、東京の初夏は随分と日差しが強い。
仕方なくそれを腕にかけるが、つるつるして扱いに困る。隣にいる彼の様子を窺うと、随分とペンギンの様子を熱心に眺め楽しんでいるので、すぐに移動しそうになかった。

ペンギンエリアは、上からペンギンの泳ぐプールを見下ろせる構造になっており、肩の高さほどのアクリル板が目の前に設置されている。
子供も無理なくプールを覗き込めるよう配慮されているそれは、すっかり邪魔な荷物と化したカーディガンを掛けるのに丁度良く見えた。

カーディガンの半分をプール側、半分を自分側に垂れるようにアクリル板にかける。落ちた時に受け止められるようにだ。

案の定、そのカーディガンはするりと落ちてしまった。
ペンギンたちが優雅に泳ぐ、そのプールへと。

ばちゃん。

派手な音を立てて空から降ってきたソレを、完全に外敵とみなして逃げ惑うペンギンたち。

買ったばかりのカーディガンが。
友達にもよく似合ってるって言われた、白の総レースのカーディガンが。

「係員さん呼んでくる!!」

あまりのショックで呆然としてその様子を眺めていたが、彼のその声で我に返った。


≪無駄な時間が与えたもの≫

「ごめんなさい・・・・」

何度目か分からない謝罪をし、すっかり意気消沈し肩を落とす。
快く対応してくれた係員は、回収するまで待ってくれと言って去って行ったので、そのまま通路の端で2人並んで待機している。

今日会うだけでも1ヶ月と3時間かかり、会えば帰りの電車までのタイムリミットがある。こんな事に時間を割く余裕など遠距離恋愛には無い。

私は何という無駄な時間を彼に過ごさせてるのだろう。申し訳なさで消え去りたい。
前の恋人だったら、どんな罵倒が飛んできたか分からない状況だ。思わず身がすくむ。

「いいっていいって。俺、あんなに必死に逃げ惑うペンギン、初めて見た!!!」

だが彼は、皮肉ともとれる言葉を朗らかに言い、その顔には一片の悪意も見当たらなかった。
しばらくその顔を眺め、こっそりため息をつく。ほっとしたのだ。

(この人は、前の人とは違う)

当たり前の事に、私はこの時本当に安心した。安心して、笑った。
やっと笑った私に、彼はペンギンが動物の中で一番好きな事、先ほどは実は4種類ものペンギンがいた事を話し始め、ペンギンに関する造詣の深さ披露した。
そんな彼の話に相槌を打っていると、回収できた係員が袋を持って歩み寄り、ぎこちなく渡して来る。
係員の様子を不思議に思い、2人で水分を含んでずっしりと重い袋の口を開ける。

「「これは・・・・・」」

生臭い。
魚の生臭さに加えて、獣の臭いもする。
つまり、とても臭い。

「家に帰ろう」
「え!!?」

彼の決断の速さに、思わず声を上がる。

だって、のんびり水族館を楽しんだ後は、調べ倒したレストランに行く予定なのに。1か月も打ち合わせしたのに。

戸惑う私に、彼は袋を指さしてニヤリと笑う。
「だって、それ持って歩くの嫌でしょ」

確かに嫌だ。でも、そんな事していたら、私はあっという間に帰る時間になる。

「大丈夫!俺の家、おしゃれ着洗い用の洗剤あるから!!」

ズレた発言と共に私の手を引き、彼は真直ぐと、迷いなく出口に向かった。


≪大失敗な初デート≫

彼の家で洗濯していると、案の定あっという間に帰りの電車の時間になった。

初デートは大失敗だ。
彼にはただ、慌ただしい時間だけを過ごさせてしまった。

申し訳無くて発車メロディーが鳴ってもなかなか乗り込めない私を、強引に押し込んで、彼は別れの言葉と共に見送る。

「今度は、俺がそっち行くから」

ドアが閉まり、手を振る彼の姿はあっという間に小さくなる。
代わりに煌びやかなビル群が窓に映り夜空を明るく照らしている。もう3時間したら、こんな景色とはかけ離れた山々と畑に囲まれた故郷だ。

恋は永遠に上下が返らない砂時計のようだ。

そう嘆いた私は、遠距離恋愛を選んだ。
でも、返らなくても上から注ぎ足す事はできるかもしれない。
そんな恋が、あるのかもしれない。

会うまでに1か月と3時間。
その膨大な時間が、再び誰かと歩むには、傷ついて臆病になった私には必要だった。

そんな遠距離恋愛は、その後3年も続いて終わりを迎えた。
ペンギン好きで変わった慰めをする彼と、結婚することで。

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