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アニポケ(2023)1、2話を語る※無料


オリエンテーション

 サトシを主人公とするアニメ「ポケットモンスター」が幕を閉じ、新たに、リコという主人公を迎えた、新編アニポケの1話と2話を観たので、簡単にレビューしたいと思います。

 なお極力、ネタバレは控えていますが、むしろ、皆様が観終えた後の、副読本的なモノとしてもお読みいただければなと思っています。
 なので、各小題をゼミと銘打ったのです。
 この記事は無料で全編お読みいただけます(有料記事のお試し版)。
 
 おそらく、新編アニポケを観ている方は、そう多くないでしょうから、「そう言えばそういうのが始まるというニュースは見聞きしたな」という事が少なくないと思われます。
 加えて、今年の夏は劇場版アニメも無かったわけですから、依然として、よく知らない、別の作品と感じ、アニポケは文字通り完結した、とお考えかもしれません。
 そのため、本作がどういった感じで進みつつあるのか、冒頭回で解説してみたいと思います。

ゼミⅠ:キャラクター性

 「サトシ版」は、ポケモンマスターになりたいという夢が背骨となって、各地方・タウンへと旅を出る、というゲームが持っているRPG性を前提としています。
 そのため、主人公であるサトシのキャラクターは当初より確立されており、それよりもむしろ、ゲームでは体感できない、ポケモンの生物としての多様さを描いていました。
 
 例えば、ニャースのように、人の言葉を話すという特徴だけでなく、各ポケモンにも、様々な生い立ちがあり、鳴き声から、サトシや視聴者はポケモンの感情を読みとる幅があったのです。

 また、私たちは既に、たった数回しか見たことが無かったとしても、サトシという少年像を、昭和的な、キャラ(属性)的な文脈で、容易に察知できるからこそ、ポケモン自体の方へと鑑賞の目が移行していくのです。

 しかし、今回の主人公・リコは、彼女自身でさえも、己の感情などを上手くつかみ取れず、他者やポケモンとの距離を測りかねています。

 そのため、学園生活という、サトシが歩まなかったコースではありますが、それ故に、確固とした目的のある旅ではなく、どういった旅(進路)へ進むかを考える、前段階としての世代に位置づけられているのです。

 その意味で、視聴者はサトシや相棒ポケモンたちを応援する、という見方よりも、リコが対人関係で悩んでいる様に共感しながら、ストーリーを追う、という昨今のアニメ形式になっているわけです。
 アニポケとして観るよりも、一般的な(子ども向け)アニメとして観る方が案外、すんなりと把握できるでしょう。

ゼミⅡ:ストーリー性

 これらの事を踏まえた上で、より本作を理解するための補助線を引きましょう。それは、アニポケではなく、プリキュアに近い、という視点です。

 これは単に、女性主人公であるから、ではありません。
 お話の筋が、ポケモンというより、プリキュアみたいだ、という意味です。

 例えば本作は、サトシ版冒頭回とは異なり、ポケモンとの出会いだけでなく、「おばあちゃんから貰った(謎の)ペンダント」がキーアイテムとなっています。
 2話段階ではそれがいかなる物なのか、判明していませんが、ペンダントがきっかけで、平穏な学園生活ではなく、悪の組織のようなモノとの戦いへと発展するのです。

 すなわち、ポケモンはここでは、プリキュアにおけるマスコットであり、一回目でも述べたように、重要なのは、主人公の心の機微や成長・決断の在り方で、それを半強制的に促すきっかけとして働いているのが、ペンダントというプリキュアにおける「変身アイテム」なのです。

 ですから、リコはアニメ的な文脈で「無個性」で、キャラ(属性)ではなく、キャラクター(性格)としての今後が筋として重要なのです。
 ですから、視聴者(子ども)は俯瞰的に見るのではなく、感情移入することが求められ、ナレーションも無くなっているのです。

ゼミⅢ:アニポケはどう変容したか

 今回の原案もそうですが、ポケモンの原作者的立ち位置に「田尻智」氏がいる事はご存知の事と思います。
 田尻さんの伝記として、『小学館版学習まんがスペシャル ポケモンをつくった男 田尻 智』があります。

 本書で語られるように、「ポケットモンスター」は、田尻さんの虫取りの経験や思い出がベースのひとつであるようです。
 街の産業化によって、虫取りも容易でなくなりつつある時代にあって、彼は「ポケットモンスター」というゲームで、それを子どもたちに体験させることに成功し、今や世界中でポケモンは知られているのです。

 アニメ主人公のサトシも、やはり田尻智からきていると考えられるわけですが、サトシ版が完結したことで、アニポケからも「虫取り」という意味合いが消失した、と考えられるのではないでしょうか。

 それはリコが旅をせず、出身と異なる地方での学園生活によって、何かを見出そうとするように、あるいは、面談を介して、学園から主人公たち子どもに適切と思われるパートナーポケモンを配られる、というシステムからも、感じられます。
 
 サトシのピカチュウが、かつてはサトシや周囲の人々に懐くことなく、厄介な存在としてオーキド博士にも認識されていながらも、ピカチュウを選んだサトシと異なり、適切と判断されリコに与えられたパートナーポケモンが、なぜかあまり懐いていないように感じ、関係性で葛藤する、というのも、やはり似て非なるものでしょう。
 
 すなわち新編アニポケでは、環境を主人公が選ぶ(虫取り型)のではなく、進路先にあるモノや出会うものによって自分が少しずつ影響を受ける、選択型、もしくは周囲依存型として、物語の大半の要素が、受動的に始まっているのです。

ゼミⅣ:ゲーム感覚をアニメへ輸入

 サトシ版では、パートナーポケモンは、ヒトカゲ、ゼニガメ、フシギダネという、「御三家」とファン・ゲームプレイヤーから今日呼ばれるポケモンではなく、当初からピカチュウでした。

 新編アニポケでも、実はピカチュウは登場します。声優さんも一緒。ですが当然ながら「サトシのピカチュウ」ではありません。

 そこで、興味深いセリフがあります。ネタバレを避けるため、正確には引用しませんが、とあるトレーナーがバトルの際にピカチュウを選ぶと、「舐められたものだ」と相手トレーナーが言ったのです。

 これはサトシ版には無い考え方です。
 つまり、ポケモンバトルにおいて、既にその世界には定番となる「強い」ポケモンが確立されており、ピカチュウは初心者トレーナーがバトルにつかったり、あるいは生活をともにするポケモンであって、バトルで用いるトレーナーは勉強不足なのでしょう。
 あるいは、なぜあえて、ライチュウへと進化させていないのか、などといった問いもあるのでしょう。

 これは、ゲームでのインターネット対戦において、定番ポケモンが存在している、現代の私たちのポケモンとの接し方の一つに近いです。
 試みに、YouTubeでインターネット対戦の様子を様々な配信者から見てみると、その対戦相手を含めて、似通った「パーティ」(手持ち)となっていると推測されます。
 それに外れる場合は、動画における「ネタ」「見どころ」であったり、やはり自身の好きなポケモンである以外の理由は無いのではないでしょうか。

 以上のように、新編アニポケは、サトシ版以上に、視聴者を意識したものとなっており、ビルディングスロマン装置として選ばれた、あるいはサトシ版との差異のために活用されている構図が、プリキュアなどの女児変身ものなのです。
 サトシ版との類似は、ゲームと違って、ボールの種類が圧倒的に、通常のモンスターボールだけである点かもしれません。
 ゲームでは、ハイパーボールやクイックボールなど、様々な種類がありますが、アニメでは基本的にはモンスターボールだけで構成されている点は継承されていると言えます。

ゼミⅤ:「カントー地方に行けば」

 最後に、少し視点を変えて、もう一度本作を見直してみましょう。
 主人公はもと、パルデア地方出身です。彼女は先述のように人間関係に悩みながら、進路先として、カントー地方の学校を選んだのです。
 その理由は、両親がカントー地方にかつて居たことがあるから。

 さて、私は何も深読みと称して、彼女の親はサトシだ、などと言うつもりはありません。なるほど、リコの付けている髪留めは、サトシの帽子のマークと同じではありますが、それはサトシのオリジナルデザインではなく、ポケモンの世界における定番のマークであります。

 むしろもっと漠然と、「カントー地方に行けば私も何か変わるかも」という視聴者をも含めた意識というものを拾ってみましょう。

 カントー地方と言えば、その名が示すように日本の関東に似た場所だと考えられます。一方でパルデア地方のモデルは一般にスペインと考えられており、必ずしも現代の世界地図と一致するとは言えませんが、遠方からリコはカントー地方へ来たと思って差し支えないでしょう。

 そしてこの事は、スペインから日本へ来た、という意味ではなく、現実の私たち視聴者が、ポケモンのいる「カントー地方」へ行く、という理念に近いと思っても、構わないと思われます。
 なぜなら、リコはパルデア地方では、ポケモンをゲットしていないからです。カントー地方に来たことで、彼女はパートナーポケモンや同室の子のポケモンなどと触れ合えるようになったという事です。

 先に示したように、本作は子ども向けらしく、感情移入型アニメですから、視聴者もまた人間関係に悩むことはあるでしょうが、もし、カントー地方に行けば、「(サトシのように)仲間や友情、冒険を体験できるはず」という想いを、リコは引っ越しによって、味わうに至るのです。

 ですので、作中には「物語のヒロイン」みたいだとリコ自身が感じる瞬間もあります。

 私たちは既に、多くのポケモンの特徴を知っています。
 伝説のポケモンもあたかも古代ギリシア・ローマ神話のように、個性的で、必ずしも清らかで善そのもののような存在ではない事も、映画やサトシ、ゲームでの物語を通して知っています。

 一方で、ゲームでは、主人公の個性がすっぽり抜けています。それはRPGとして、いかなる国のいかなる年代の人々にも受け入れられ、そして自分だけの旅を体験できるための仕組みなのです。
 しかし、サトシが引退した以上、唯一、視聴者もそのセカイをも無知な対象は、主人公そのものに対してなのです。
 だからこそ、感情移入させる幅を容易し、旅によって成長するかのような奥行きを感じさせようとしているのです。

 したがって、いずれアニポケを幼少期にせよ、観ていたことを振り返る際に、「サトシと共に過ごした」かのような思い出を抱くか、リコという主人公に仮託して、自分自身がゲームと同じように消費し、影響を受けたという「<ポケモン>と共に過ごした」という【大きな物語】としての“ポケモン”を追想するかの違いがある事と思う。

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