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『「おりる」思想』と数字に苦しむ競争社会のVtuber

飯田朔著『「おりる」思想』では、
現代日本の「他人と競争して生き残る」という価値観に違和感を提起する。
特に、競争に負けた側……就活に失敗したり不登校になったり鬱になったり等等の側が、「競争に勝てなかったら」という論理を採用すると、
「勝てなかった自分が悪い」という自己責任論に簡単に転化してしまうのに、なぜその競争社会というルールを神格化するのか。

また、昭和時代の日本には、良い大学に入って、良い大企業に入って一生安泰というロールモデルがあり、そのロールモデルは現代では崩れ去ってロールモデルというものはなくなったと思われたが、
「スキルや資格を身につけ、能力をあげ、何者かになる」という新たなロールモデルが出現している。
例えば、Vtuberで言うと個人の弱小Vtuberが、大手企業Vtuberに噛み付いたりすると、その内容の吟味の前にまず炎上する。それはなぜか?
何者でもない弱小Vtuberが、何者かになった大手企業Vtuberに反抗するなど言語道断だからだ。

「競争社会で能力をあげ生き抜いて、やがて何者かになる……」

この考え方は本当に正しいのか??
この考え方で苦しんでいない人間は別に良いのだが、もし苦しい人がいるのなら、筆者はその競争から「おりる」ことを提案する。

ただ、「おりる」こと自体は簡単である。競争から逃げること。小学生でもわかる定義ではある。でも、僕たちは簡単に「おりる」ことができない。それは、そもそも資本主義の社会経済の中で生きているから、という以前に、「おりる」ことはある種、「夢」や「憧れ」、「何者かになる」ことを諦めなければならない。

筆者はそう簡単に「おりる」ことができない「おりられなさ」に着目して、『何者』、『桐島、部活やめるってよ』を執筆した朝井リョウの作品群を題材に分析をはじめる。

さて、「おりる」ことは難しい。著者はもし、競争社会から「おり」たいと思ったら、自分がどうやっても「おりることができない」ことを出発点にすると良いという結論に辿り着く。

例えば、僕は個人のVtuberであるが、競争に疲れたら……

・チャンネル登録者を気にする
ことから、おりることはできる。

・コメントがあるかどうか気にする
ことから、おりることはできる。

しかし、

・ゲーム配信をする
ことから、おりることは難しい。

より根源的に、

・ゲームを楽しむ
ことは人生そのもので、そこからおりたら僕の人生は僕の人生でなくなってしまう。

そうやって、どうしてもおりることができない、自分の本質を見つけると、不思議と、あ、数字から「おり」て、同接0人コメント0でおりてゲームしてても、別に良いなと不思議と思えてくる。

ぜひ、皆さんも自分がなにから「おりれない」か、探して見てほしい。


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