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十三夜岸辺のビルの青き窓 

埼玉に住んでいた小学一年生の頃、元荒川の河川敷で野犬の群れに囲まれた。1970年代後半の埼玉では、まだ野犬が普通に徘徊していたのである。よその小学校の児童は野犬に齧られて耳が皮一枚でぶら下がっていた、という話も伝わってきていたし、体育館に集められて狂犬病がいかに恐ろしいかというフィルムも見せられた。

それなりに用心していたつもりなのに、なぜ一人で野犬に囲まれる事態に陥ったのかというと、当時の元荒川にはいろんなものが流れていたからである。

幼稚園の頃から「ラ・セーヌの星」の少女剣士シモーヌや、「ベルサイユのばら」のオスカルに自分を重ねていた私は、剣を腰に差し白い馬にまたがっているつもりで、まりちゃん自転車(当時流行っていた天地真理という歌手のキャラクター自転車)にまたがり、埼玉の原っぱや土手を一人で駆け抜けていた。そんなある日、元荒川の上流から鶏が流れてくるのを見た。

かなり立派な雄の鶏だ。
私はしばらく土手を走りながら流れる鶏を追いかけた。
元荒川の流れは急だ。
馬に「もっと速く走れ」と声をかけて、実際にはまりちゃん自転車のペダルをぐんぐん漕ぐ。
やがて鶏が、葦のような植物の群生しているところに引っかかった。
私は馬を置いて、土手を下りる。
剣のつもりの長い棒を手に、葦っぽい草にひっかかっている鶏の近くに寄っていく。
鶏はすでに生きてはいなかったが、意外ときれいで、ものすごく大きく、肉付きも良い。
当時まだ知らなかったもので例えると、伊藤若冲が描く鶏のように立派だった。持って帰ろうと思った。

剣のつもりの長い棒に、その辺に落ちている棒を巾着袋の紐で繋ぎ、長くする。それを、葦に引っかかっている鶏まで伸ばして、鶏を河岸まで引き寄せる作戦である。

元荒川の流れは速い。
慎重にせねばならない。
引き寄せようとするが、鶏は水上でくるっと裏返ったりして、なかなかむずかしい。

怖がりの私は、土手のきわよりだいぶ手前から、継いだ長い棒を駆使する。棒は長くなればなるほど自分のコントロールが効きにくくなる。

芸術家の篠田桃紅さんは、墨の作品を書くのにとんでもなく長い筆を使っておられたが、それは筆をあえて自分の制御下に置かないためであったという。7歳の私は、知らず知らずのうちに桃紅さんと同じ手法で得体のしれない獲物を取ろうとしていた。

川に突如として流れてきた若冲風の鶏。それを取ろうとする埼玉の7歳。頭の中はフランス革命真っ最中。継ぎ足した長い棒の制御不能な動きが鶏を引き寄せたり引き離したりしている。元荒川の河川敷の一角で、こんな戦いが行われていることは神様しか知らない。

ふと気がつくと野犬の群れが私を囲んでいた。

5〜6匹はいたのではないだろうか。クマのようなボサボサの毛をした犬たちが、私をとり囲んで唸っている。

まずい。まずいことになった。
どうやって切り抜けるか。
浅はかな小1の頭で考える。
けど何も浮かばない。
もう終わりなのかもしれない。
耳を齧られちゃうのかも。
耳取れちゃったら、ママごめんね。
狂犬病になったらごめんね。
このまま棒を振り回してみようか。
もしかしたら棒のひっぱりっこで遊んでくれるかも。
いや、余計噛まれるか。

気の遠くなるような時間が流れた。
実際には1分くらいだったのかもしれない。
私は、「もう終わりだ」と思い、「わん、わん」とリアルに吠えながら、土手の上に停めてあるまりちゃん自転車の方に一目散に走った。なぜ吠えながら走ったのかは覚えていないが、剣士は、剣を捨て、走って逃げた。
走っているつもりだが足がなかなか前に進まない。
やけに地面がふわふわしている。
つまづいてころんだ。
絶体絶命!

だが、野犬たちは追いかけて来なかった。
彼らは、私ではなく鶏に興味があったらしい。
まだ河岸のあたりで、すでに生きてはいない鶏に対して威嚇の姿勢。
しっぽはお尻の下に畳まれている。
離れて見れば、その姿はちょっと可愛くもある。
私はほっとした。ほっとしすぎて、手をつかないと土手を上がれないほど体が重くなった。いつもなら助走をつけて一気に駆け上がることができるのに。

文字通り這う這うの体(ほうほうのてい)で土手を上がり、待っていたまりちゃん自転車にまたがって、やっと自分を取り戻した。自転車を漕いで家に帰り、母にこの話をしたが、「一人だった」とは言えず、友達と一緒だったことにした。母はそれは怖かったねと言って、「桃子はインドで生まれたときに狂犬病の注射をしているから、もしも噛まれたとしても狂犬病にはならないから大丈夫だよ」と、慰めてくれた。私は小学校でBCG注射も免除されたが、それは生まれた時にインドでたいがいの予防接種を済ませていたからなのだった。

***

大人になり、移り住んだ大阪の町には天の川があった。
空の天の川ではなく実際の一級河川だ(正式な表記は天野川)。

みごもって何度めかの健診の朝、右足だけが凍ったように冷たくて嫌な予感がした。前回の健診までは超音波でチカチカして見えた赤ちゃんの心臓が、チカチカしていなかった。お腹の中で死んじゃってるから、明日取り出してあげなくちゃいけないと産院の先生が言うのを、ああやっぱりな、そうだと思った、やっぱりな。と何回も自分の中で繰り返しながら聞いた。

全身麻酔は初めてだった。先生が「一緒に数えて。イーチ、ニーイ、サーン」と言い出したので、本当に数を数えるんだなあ、50ぐらいまで数えるのかなあと思っていたが、7で落ちてしまった。
1秒後、真っ暗な宇宙に自分が浮かんでいた。
20個くらいの手のひらが現れて、私をふわっと胴上げする。
次の瞬間、手術室ではなく別の部屋で起きた。
もう夕方になっていた。

看護師さんに今後の説明を聞いて産院を出たが、気づいたら天の川の土手を歩いていた。川面が夕陽でオレンジっぽくなっている。と思ったけど全体的に視界がオレンジ。頭が痺れていてあまりものが考えられない。川が光ってあったかそうに見える。川ってこんなに穏やかなものだったかな。元荒川とは違うんだな。と思ったら、急に涙がボロボロ出てきた。ウォーキング中の知らないおっちゃんが、大丈夫か。お腹おっきいみたいやけど、大丈夫か。と言ってくれた。処置が済んでも、すぐにお腹は引っ込まないんだなと思った。

家に帰って一晩ぐっすり寝た。一晩寝たら、たいがい復活する私は、今回も復活したが、空の右端に、穴があいていることに気づいた。人間的な感情は、その穴から宇宙へとビュウビュウ流れ出て行ってしまう。地球の大気が東京ドームのようにドーム状になっていて、一箇所に穴があいている感じだった。毎日元気に機嫌よく仕事をして、それには一点の嘘もなかったが、ただ空の穴だけがビュウビュウいっていた。

***

川は一定方向に流れていて、止まらない。
川は「見える時間」だ。
私は毎日川ぞいを歩いた。
相変わらず空には穴が空いていて右足は冷たかったが、悲しかった瞬間からは着実に遠くなっていった。川が流れて時が進み、右足はもとの温かさを取り戻した。お腹ももとに戻った。私は着実に強くなった。空の穴はあいたままだったが、少しずつ少しずつ小さくなっていった。

後から聞いて、母も私と同じ経験をしていたことを知った。そのことがなければ私に弟がいたかもしれなかった、ということも初めて知った。まわりにいる女の人たちも、わざわざ話さないけれど流産経験者は多いのだろうと思った。みんなボロボロ泣いて、一晩寝たら、翌日から立ち直って仕事や家事をしているのだろう。

辛いことがあった時や、モヤモヤした時は、夜中に自転車で淀川の堤防を京都の嵐山まで走った。途中、街灯がなく本当に真っ暗で、私のビアンキは真っ暗な宙を浮いているように感じられた(私の愛車はまりちゃん自転車からイタリアのロードバイクに昇格していた)。全身麻酔で落ちた時のような浮遊感。川は真っ暗で見えなかったが、渡月橋まで伴走してくれた。

さまざまなことは、川の流れと共に、少しずつ着実に、時が解決していった。


***

息子が学校外の野球チームに入団したいと言い出した時、家業のため土日の遠征試合にほとんど帯同できない私は正直困った。道具も多く時間も長くチーム人数も多い野球というスポーツは、試合会場まで車で道具や選手たちを運んだり、救護役をしたり、監督やコーチのお弁当を用意したりスコアをつけたりアナウンスをしたりと、保護者のサポートは欠かせない。それらを他の保護者の方々にお任せするのが申し訳ない気がして息子の入団を躊躇していた。

が、訪れてみたチームの練習場は、淀川の河川敷にあった。
川ぞいは、ちょっとした森になっていて、外野の選手は、森とその奥の川を背に、川風に吹かれながら守っている。川に向かって放たれる白球。土手をランニングする選手たち。ああ、三年間この大きな川のほとりの自然に囲まれて、ほとんど毎日、日が暮れるまで練習するんだなあ! と思ったら、もう入団を決めていた。

***

大好きな京阪電車に乗って天満橋で降りると、改札を出て1分も歩かないうちに大川の桟橋に出られる。大阪市街を流れる運河を行き交ういくつかのクルーズ船や屋形船がこの桟橋から発着する。中でも「御舟かもめ」は小さくて可愛らしい舟だ。天草で真珠の養殖作業に使われていた小舟をコンバージョンしたというこの舟に乗り込んで、手を伸ばせば水面をさわれるところにふかふかの座布団を置いて座る。半分寝転んで、自転車よりやや速いぐらいのスピードで川を走る舟の上でのんびりすると、たちまち川時間が流れ出す。船長さんが舟の操縦をしながら川から見える景色や建物の説明をしてくれる。それが全くマニュアルっぽくなく、友達の話を聞いているように心地良い。聞いてても聞いてなくてもいいよ、ぐらいの音量がありがたい。もちろんダサいBGMもないから、小さな舟が水を切る音や、橋の上を通る自転車がチリンと鳴らす音などが耳に飛び込んできて楽しい。


御舟かもめはいくつもの橋をくぐる。スーツを着て自転車に乗っているビジネスマン。幼児をバギーに乗せ、エコバッグをいくつもバギーにぶら下げて歩く若いお母さん。川ぞいをランニングする人。都市に暮らす人がいつもの暮らしを営んでいるその真ん中を、川が流れている。そこに舟を浮かべて乗っていると、人々の暮らしをよし、よしと見ている天上人の気持ちになってくる。沿岸の人々がみな私を祝福しているように感じる。

河岸に、二人組が等間隔に5組くらい並んでいる。こちらに向かって何かしゃべっている。
何? 何?
と思って耳をそばててみたら、漫才の練習をしている人たちだった。
ああ、大阪だなあ。ほんとに川に向かって漫才の練習してるんだ。

ごちゃごちゃとしたイメージの大阪も、川から見ると古くて味わいのあるビルが結構残っている。それらが最新鋭のビルたちと混ざり合う。こうしてみる大阪は、東京よりも趣があり、文化の香りが高いのだ。東京は、ざんねんながら大阪に比べて古いビルが少ない。新しいビルの中ですべてが合理的に進む東京に対して、大阪はやはりまだまだ建物も人も古いもんと新しいもんがあんじょうしている。そのせいでいろんなことが進まないという面も確かにあるが、川から大阪の町を眺めていると、むしろそっちの方が豊かな気がしてくる。

水門を開けてもらっている間、停泊。
水門が開く!

贅沢とは、四季を五感で感じられることだと私は思っているが、川に小舟を浮かべてそこに身を置くと、自然や四季だけでなく、人々の営みまでもが五感で感じられる。まるで岸辺の動物たちの生態を観察するように、人間の生活というものを興味深く、尊敬を持って観察することができる。だから、舟遊びはこの世でいちばんの贅沢だと思う。昔の貴族が、川に小舟を浮かべ、そこで歌を詠んだり楽を奏でたりして舟遊びをさかんに楽しんだのも、わかる気がする。

* * *


父の仕事の都合でインドで生まれた私は、物心がついた時には埼玉にいたのでガンジス川を知らない。

知っているのは鶏が流れてきた元荒川。
見知らぬおっちゃんが心配してくれた天の川。
白球を飲み込む草いきれを超えたところにある淀川。
春になるとめっちゃ早起きして桜を見にゆく木津川と桂川がぶつかる堤防。
京都で美味しいものを食べたあとに、お腹いっぱいでもう食べられないよーと言いながらのんびり歩く高瀬川。
御舟かもめに浮かんで大阪がますます好きになった大川。

沐浴をし洗濯もし死体も流すというガンジス川には、まだ行ったことがない。だから死ぬまでに一度は行ってみたい。




<大人の読み聞かせのためのブックガイド>
「たのしい川べ」ケネス・グレーアム著
イギリスの田舎、人里離れた川べで暮らす、ひきがえるとアナグマとモグラのちょっとした冒険と事件。石井桃子さんの訳が最高です。


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