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冬の姉くれしイエスのチョコレート

四つ違いの姉と私は、どちらも千代田区のキリスト教系の女子中学高校に通っていた。姉はカトリック、私はプロテスタントの学校である。
姉の通うカトリックの学校にはマリア様のステンドグラスがあり、生涯独身のシスターがいて、制服も可愛らしいセーラー服だった。
私の通っていた学校ではプロテスタントの理念によりあらゆる形式的なことは省かれ、よって校則もなく制服もなかった。私はオーバーオールに革靴にデイパックという、今考えると最高にダサいいでたちで埼玉の越谷から東京の四谷まで通っていた。素敵なシスターの代わりにホンダ先生という、どこからどうみても普通のおじさんの牧師の先生がいた。

姉の学校にはクリスマスバザーというのがあった。そこで売られるイエスキリストチョコ(と勝手に呼んでいた一枚板のチョコレート)は、かなり魅力的だったのを覚えている。最後の晩餐だとかそういう聖書の一場面が彫刻されているチョコレートで、そのへんに売っているのよりも分厚くて、本格的な味がした。

ふだんはそんなことはしない姉だったが、クリスマスだけは慈悲深く私の分もイエスキリストチョコを買ってきてくれた。私の学校ではクリスマスバザーのようなキラキラしたお楽しみは無かったのである。ただ、クリスマス礼拝のために毎年メサイアのハレルヤコーラスを練習させられたので、今でもメゾソプラノのパートをそらで歌える。数年前、隣村の神社で宮司をしているK君が東京藝大の声楽科卒で、市民にメサイヤを指導していると聞いた時、パートリーダー(があるのかどうか知らんが)に立候補しようかと思ったが、迎春準備のタスクが山積みになっていたので断念した。

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小さな頃のクリスマスツリーは、東芝かどこかの冷蔵庫を買った時におまけでついてきたもので、箱にTOSHIBAと書かれていたような気がする。おまけと言えどきちんとしたもので、高さは150センチくらいあった。色のついた電球の線をくるくると巻いて、木の枝にオーナメントをぶら下げる。
私は雪に見立てた白い脱脂綿をツリーのあちこちに載せる作業が好きだった。色電球のところに脱脂綿をくっつけると、白い脱脂綿が青やピンクに染まってチカチカと点滅する。それを眺めるのが好きだった。

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私は大阪の神社の家に嫁いだが、産んだ男女の双子は一歳七ヶ月からキリスト教系の保育園に通わせていたので、やはりクリスマス礼拝というのがあった。家に帰ってきた双子は、大阪弁イントネーションで「ベツレヘムのまちで、尊いお方が、おうまれになりました。そのお方のおなまえは、しゅイエス・キリストです」と揃って言うのだった。私は、病院のお医者さんや学校の先生だけでなく、牧師までもが大阪では大阪弁を喋るのだという、ごく当たり前の事実にそのとき気がついたのだった。

生まれてから喋り出すまでは、彼らの耳に入る言葉の九割は母親である私のものであったためか、生粋の関西人であることを忘れるほど関東弁で話していた双子だったが、保育園に通い出すと彼らはたちまち関西弁になった。当然、保育園で教わってくる聖書の言葉も関西弁。ベツレヘムも、ヨハネも、たこ焼きやお好み焼きと同じムードで語られる。

サンタさんにお供えしよ。と言い出したのは娘だった。息子よりも五分だけ早く生まれた娘は、その五分の間に世界のさまざまなことを知ったので、後から生まれてきた息子に色々と教えてやる。サンタさんはなあ、夜じゅう子供たちの家を回ってるからなあ、お腹がすくねん。だから、おにぎりをお供えしてあげとくねんで。息子がおにぎりの具を尋ねると、娘は「塩。」と即答した。そして私が塩むすびを二つ、サンタさん用にこしらえると、娘はそれをうやうやしく台にのせ、居間のドアの近くにお供えした。そして、当時飼っていた犬用の餌椀に、水をなみなみと入れ、「これはトナカイ用」と言って塩むすびの近くにお供えし、息子と一緒に柏手を打って、おじぎした。

それからクリスマスケーキを食べてお腹いっぱいのまま、三人で風呂に入った。父親は消防団の会合でいない。
風呂の湯舟に腰掛けている息子に、娘が桶で湯をかけてやりながら、「この店、いいやろ」と言う。
私は気になって「それどんな店?」と聞く。
すると娘は、「お背中流してあげたり、泡で洗ってあげたり、あと、あやとりのひもも、六時間貸してあげる店やねん、延長もできるしな」と言った。
当時、保育園であやとりを教わってきた娘は、伝統的な形の他に、次々と独創的な形を生み出していた。
あまりにカッコいい形を作った時、「それ、なんていう名前?」と聞くと、彼女は「ロクレツオールアンチ。」と、またしてもカッコいい名前を、思いつきで即答するのだった。

双子が小学校に上がるまで、我が家では誕生日やクリスマスに双子がアッパッパショー(娘が名付けた)という出し物をするのが慣わしになっていて、作、演出、主演は娘。調子乗りの息子はダンサーだった。床の間の横の空間が舞台袖になっており、そこから出てきてダンスしたり歌ったり小芝居をしたりというショーで、最後には娘が観客に退場ルートを案内してグッズ販売まで誘導するという流れ。関西スーパーの屋上や、近所のコマツ大阪工場で仮面ライダーショーを見たり、梅田の劇場にプリキュアのショーを見に行ったり、太秦映画村で戦隊モノのショーを見たりと、男女の双子ゆえに人の二倍はショーを見て来た彼らは、興行とは何たるかを理解しているようだった。私は大抵、観客の役だったが、クリスマスだけはなぜか演者に抜擢された。しかし、私と息子はダンスの振り付けをなかなか覚えなかったり、指示されていない動きをしたりして娘によく叱られた。

「あ! わかった!」
私がシャワーで髪をすすいでいるさまを、湯船からじっと見ていた娘が言った。
「お湯と一緒にママの耳から出て行ってしまうねんな、ママの記憶が。」
娘の目には、私の耳から湯が湧き出ているように見えたのだろう。
りんごが木から落ちるのを見てニュートンが重力を発見したように、娘は忘却のメカニズムを悟った。

風呂から出て、息子は絶対にサンタを見届けると張り切っていたが、誰よりも早く寝た。娘は寝る前にお供えの最終確認をして、これでトナカイをおびきよせるなどと言い、しばらく翌日のアッパッパショーのダンスも最終確認しながらサンタを待っていたが、さすがにつかれたのか、電池が切れたように眠ってしまった。私は深夜にぬいぐるみの入った大きな袋と、仮面ライダーベルトの入った大きい袋を彼らの枕元に置き、お供えされた塩むすびを食べ、トナカイ用の水は6割ほど減らして就寝。

朝、わざと彼らより遅く起きる。すると先に起きた息子が、「サンタさん食べてる!」と大きな声で言う。そして娘も、お供えの塩むすびがなくなっているのを見て、「食べはった!」と報告に来た。私は「へえへえへえ。来たんだねえ。食べたんだねえ」と答える。それから彼らはプレゼントを開封してひとしきり楽しむ。そして終わることのないアッパッパショーが始まるのだった。

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当時、いろんな店で買い物したときにもらった袋物を押し込んである箱を、娘は「かばんセンター」と呼んでいた。後日、かばんセンターの在庫チェックをしていた娘は、クリスマスプレゼントの大きなぬいぐるみが入っていた大きな袋を手にとって、「これは、世界を終わらすときに家を入れる用」と言った。


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