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結婚

最寄駅の京阪電車「渡辺橋」のふたつも手前の「なにわ橋」で降りてしまったことに気づいたのは外に出てからだった。このあたりは川べりが広々としてヨーロッパの雰囲気(歩いている人は関西弁)。明治、大正、昭和の雰囲気が漂う古いビルが建ち並び、落ち着いて心地よい場所である。

「みなも〜!」
入試が終わって発表まで中一日ある15歳の娘が、淀川の水面の美しさに感激してスマホを取り出す。淀川の水がきれいなわけではない。その水面に反射する春の光が、この世のものとは思えぬ美を発散していた。

「ふた駅ぐらいだから歩こっか」
「まっすぐ川沿い歩けばいいみたいだし」

川の水面がきらきらしている。
中之島公会堂、旧日本銀行。レトロで可愛い建物が、水のきらきらと対照的に、土っぽくあたたかい質感を漂わせている。

さいわい、二人ともスニーカーを履いてきた。朝、私がショートブーツを履こうとしたら、「今日は美術館の中を歩き回るでしょ、しかも物販も混んでるよ、モネだから」と娘が言ったので、ベージュのニューバランスにしてきた。

娘もベージュのニューバランスだがちょっと色が濃い。両方玄関に出ている時は、「色がうすい方が自分の」でわかるが、どちらかだけ出ていると、自分のかどうか全くわからない。自分の見えている色が人の見ている色と同じかどうかも、永遠にわからない。けど、濃い、うすいは相対的なものだから、わかる。私は色について考えをめぐらす。

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「モネ 連作の風景」は、モネの作品が70点も見られる展覧会。去年の春に上野の国立西洋美術館でブルゴーニュくくりの展覧会があった時、その中に数点あったモネの作品に圧倒されて、以来我々は「モネ、モネ」と言い続けてきた。それまでは全部一緒だった印象派が「これ、モネだね」とわかるようになった。入試終わったらモネ行きたい。と娘が言ったので、中之島美術館にさっそくやってきた。

さすがに70点も見たらお腹いっぱいなるんじゃないかな。もしかしたら嫌いになっちゃうかも。とチラっとでも思った自分が浅はかだった。ほとんど同じ構図の風景画が何枚もあるのに(だから連作だ)、全部違って全部イイ。色あいで、かなり攻めているものもあるが、なぜか可愛い。

水面、木漏れ日、風、光。絵の具で点々を置いているだけなのに、手前の木々の葉っぱ(個体)と、それを透かして見える向こうの川の水面(液体)と、空と雲(気体)が、ちゃんと個体と液体と気体の質感で目に入ってくるのがなぞすぎて、気持ち良すぎて、絵に近寄ったり遠ざかったりしてしまう。どうしてピンクがかった白の絵の具で、透明な光に見えるのか!

「こういう質感のものは、こういう光の反射の仕方をするよね」っていうのを、めっちゃ観察して、それを絵の具でやった場合、何色をどれだけ盛りってさせるか、その点のまわりに、何色の点を配置させるかで、その質感がでるとか、もう、AIでも処理できない膨大で微妙な情報を、感覚で処理している時点で天才だけど、それを手で描くことによって、めっちゃ可愛い仕上がりになっている。

絶妙すぎる。心も体も健康で、集中力と瞬発力と持久力が全部ないと成し得ないことである。モネの私生活については全く知らないし、知ろうとも思わない。それくらい、作品が純粋な光を放っている。なんのメッセージもないし、郷愁もない。田舎っていいよね、という感慨もない。そこにある光のすばらしさのみ。

「制作過程が全く分からないね、どこから描き始めたかとか、輪郭線描いたのかとか、まったくなぞだね。一瞬で絵の具を撒き散らして描いたみたい」
と、娘が言う。

「あと、病んでないね。モネは。めっちゃいい人だよ。可愛いんだね、根本的に。絵、描くのが大好きなんだね」

にしても、ただの積みわらが、こんなに可愛く見えるのは、どういう理屈なんだろう。言葉では到底説明ができない。ていうか、もう説明いらんな。

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70点も集中して見たら、自分の目が「モネの目」になってしまった。

美術館の外に出た途端、春の光の粒つぶが、目に飛び込んできて、私に求愛する。私はそれを受け入れて、世界と結婚する。パンパーカパーンと祝福のファンファーレが鳴って、ハイになる。空と地面の境目が、水面が、ゆらゆらとした光のダンスをして、私も一緒に踊らせてしまう。

「あーやばい。もうあの葉っぱやばい。水面がやばい。景色が神。」

大阪の、淀川の橋の上で娘が感嘆する。
でも娘はスマホを取り出さない。

彼女もモネの目を獲得して世界と結婚したのだ。




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