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「分断を乗り越えるためのイスラム入門」を読んでみた

知り合いにトルコ人がいます。ガチなイスラムではない、いわゆる世俗的なタイプの人なのですが、たまに感じる違和感から、ちょっとどうなの…的な事から、こんな解釈の違いってある???的な事までいろいろとあり、下手したらもろとも被害被るかも的な出来事まで勃発したり、色々とナゾなので、とりあえずこの本を読んでみました。

イスラム教には9世紀くらいにできた「シャリーア」という法があって、してはいけないこと、して良いこと等がいちいち定められていることを初めて知りました。そのシャリーアも派閥によって解釈が違ったり、従うのも従わないのもある程度個人の自由だったりと、共通認識はあるけど解釈によってはどうにでもできる、比較的自由なもののようです。(そのため、解釈をこじらせると原理主義的なテロリストにもなりえますし、現代にそぐわないかたちで解釈した法を基準に国を運営し、国民から反発を招いてる国もあります)

生まれた時からイスラム法をベースに人間形成がされているとしたら、生きていく上での物事の判断基準が、イスラムの観点によって刷り込まれている、ということになるのでしょうか。日本人に置き換えると、仏教をベースにした道徳観念が基準になっているイメージです。

一つ気になるのは、どの程度法を守るかは個人の裁量に任されていて、守れなくても見捨てられることはなく、回避法や逃げ道もある程度用意されているということ。

そのこと自体は何も悪くないしそれでこそ宗教だと思いますが、それが生き方の判断基準になってくると、社会生活や人間関係に影響が出そうな気がします。パッと思いつくのは、考える力がつかなそう、視野がせまくなりそう、うまくいかないことは自分以外の責任にしそう……などといったところでしょうか。プラス面では、細かいことで悩む必要がなく、楽天的でいつも幸福度が高くいられそう、メンタルが強くなれそう……とか。

トルコ人の彼はアメリカに住んでいたこともあり、基本的には西欧的な考えをしています。理解力もあり、正論を述べたりします。しかし、やることの精度が低かったり全くやれていなかったり、時には正反対の行動をしたり、文句ばかり言ったり、独りよがりに突き進んだり…という、こちらにとっては割とイミフな状況もしばしば。もちろんそれは「トルコ人だから」とか「イスラムだから」という事ではないと思いますが、彼に度々感じる「都合のよさ」や「自己中感」(自分の都合の良いように物事を解釈すること)はイスラムの性質のひとつなのかな、と、思ったりもします。

そして、ある程度の自己中を自己中と思わず、当たり前に許しあうのがイスラムの寛容さでありやさしさなのかな、とも思いました。

最近は彼と顔を合わせる機会も滅多にないので、身近なところでの分断を乗り越えなければならない局面はあまり訪れませんが、やはり、分断を乗り越えるためには「イスラムでない人」が、イスラムのことをもっと「知る」ことが必要そうです。

noteでよく拝見している、ウイグルの方と共同生活をされた経験もつ人類学者の方の記事が大変興味深いです。トルコ人と接したりイスラムの本を読んだりして、やっと「そういう感じね…」と分かってきた気がしていたところにその方の体験談を読むと「あぁ、この場面でそういうことになるのか……」と、レベルもレイヤーも段違いのエピソードに愕然としました。想像を超えてきます。

当たり前の話ではありますが、イスラム圏の人たちを「イスラム」でひとくくりにするのはかなり語弊があるし無理がありそうです。おおよそ共通する絶対的な認識以外は、それぞれが自分基準の「イスラム教」を持っているように思いました。

近年ダイバーシティとか多様性を大切にとか、その類のフレーズをよく耳にしますが、実際はなかなかハードル高いよな…と常々思っています。そして、「違い」を知れば知るほどますますそう思います。でも、知らないと分断は広がるばかり。まずは「知る」ことが大切ですね。

この内藤正典先生の著書は、入門と言ってるだけにかなりわかりやすく、イスラムのことを何もしらない私にも理解しやすかったので、とっかかりとしてはかなりおすすめです。

<おまけ>
シャリア・ブルの「シャリア」って、やっぱりイスラム法の「シャリーア」からとってるんですかね。




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