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虚構と奇蹟:黒沢清「旅のおわり 世界のはじまり」

(カバー画像:映画.com)

週末を目前にストレスから胃腸を壊してしまい(超つらかった)家で大人しくすることしかできなかったので、amazon primeで「旅のおわり 世界のはじまり」(2019年公開,監督:黒沢清)を観た。劇場公開時以来、二年ぶり二度目の鑑賞。

この映画のハイライトは、やはり物語の中盤に訪れる劇場のシーンであることを再確認した。このシーンは、黒沢清の数ある映画作品の中でも白眉だと思う。

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主人公の葉子(前田敦子)は歌手としてステージに立ちたい夢を持っているが、現在は売れないタレントとして燻っており、テレビ番組(おそらく「世界不思議発見」的な)のレポーターとして、4人の撮影スタッフとともにウズベキスタンでロケを行っている。
葉子は、撮影中こそタレントとしての役割に殉じているが、ひとたび撮影が終われば愛想も笑顔も見せることはなく、仲間の撮影スタッフからの食事の誘いは断り、手助けを申し出る現地の人々の親切心も拒絶する。

ー自分はここにいるべき人間ではない、ステージに立ち、歌っていたはずなのに

男性の撮影スタッフたちは自分たちがやっていることを仕事と割り切り役割に徹する事で精神の平穏を保ち自分の心を守っているのに対し、葉子は仕事を仕事と割り切ることもできず役割に徹しきれない。前半のおよそ一時間ほどは、剥き出しの心のまま異国の地に立ち、半ば自暴自棄に傷つく葉子の痛々しい様子が描かれる。

様子が一変するのが、物語のちょうど折り返しに描かれる、劇場での歌唱のシーン。
撮影の合間にフラフラと街をうろつく葉子は、ある場所で足を止める。どこからか女性の歌声が聞こえて来る。歌声に導かれ、半ば夢遊病のように建物に迷い込むとその奥にはコンサートホールがあった。この建物は「ナヴォイ劇場」という、日本と由縁浅からぬ劇場だった。
ホールには、ステージ上に歌唱の練習(っぽいこと)をしている女性がたった一人、客席は無人。葉子が座席につくと歌声は止み、一瞬だけ劇場が暗転する。(黒沢清の描く暗転はいつでも、不可逆的に「何かが起こってしまう」兆しだ)
暗転から覚め、席を立ち上がり歩を進める葉子。灯り始めた照明は葉子を導くように行く先を照らす。行く先は、葉子が「立っていたはず」のステージだ。
先ほどの女性はおらず、ステージには葉子とオーケストラ、客席は観客たちで埋められている。葉子はオーケストラの演奏とともに「愛の讃歌」を歌い上げる。
ステージの上で歌いながら同時に、葉子は客席からステージで歌う葉子を見ている。そう、これは葉子がみた〈まぼろし〉である。
やがてやってきた警備員がその〈まぼろし〉を打ち払い、追い払われた葉子は次の撮影の予定が待つ〈日常〉に戻ってゆく。

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単に映像に映っているものを視覚的に追うだけならば、このシーンは、歌手になりたい女性が異国の劇場で幻覚を見た。ただそれだけである。解釈の余地のない極めて直接的な表現だ。(「直接的」であるというのもなんとも黒沢清的ではないか)
それは、単に〈虚構〉を視覚的・直接的に表現しただけの、ナンセンスな演出なのだろうか?

もちろん、そうではない。

映画の中で葉子は、思うままにならない〈現実〉に埋没することを拒絶し、「ここではないどこか」を渇望する。その渇望は〈虚構〉を呼び寄せ、葉子はほんのいっときだけだとしても、夢みたステージに立った。
このシーンの後、葉子は初めてスタッフたちに自分の本音、つまり、自分以外の誰とでも交換可能な仕事ではなく、自分にしか表現出来ない歌でステージに立ちたい、という想いを打ち明ける。その小さいがしかし重大な告白は、葉子自身の運命を大きく変えていく。
この出来事はあくまで〈虚構〉だが、しかし物語のなかでは、登場人物に救いをもたらす奇蹟となる。

他方、演出という面からみれば、これは映画という〈虚構〉の内部に生み出された〈虚構〉でもある。
暗転とともに突如として〈現実〉から引き剥がされ、ステージに現れたオーケストラとともに、これまた突如現れた観客に向けて歌い、そして同時に〈現実〉の客席から歌う〈虚構〉の自分を眺め、そしてやはり突如として〈現実〉に帰る。
モンタージュ理論を引きあいに出すまでもなく、様々な映像をつなぎ合わせて描く切れ目のない〈現実〉と〈虚構〉の渾然一体は、映画という媒体が生み出す奇蹟だ。

物語の中の〈虚構〉は登場人物に奇蹟を起こし、映画という〈虚構の中の〈虚構〉〉は映像の奇蹟としてあらわれる。
二つの〈虚構〉が重なったとき、そこには時間と空間の裂け目が生まれた。その裂け目からは外部、つまり〈世界〉からの風が、我々に向かって吹きつけているではないか。我々観客は〈世界〉から吹き付ける風を感じることで、〈世界〉は葉子にだけではなく我々にも開かれていることを実感する。
この風は、〈虚構〉である映画を通して〈現実〉にいる我々に〈世界〉が訪れるという、もう一つの奇蹟であり、この映画を観たときに我々に与えられる感動の源泉である。

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