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私の戦争体験              実は、体験は無いのだけれど・・・

文字数:14367字

「Rodeo Drive & Melrose Ave. 周辺」は書き終えました。ところが、この記事の3と4を書いていると、長くなりそうで(もうなっているけど)続きを5にすることにしました。長くなってもどうしても書きたい内容なのです。2022.9.4

書くにあたって

 私は生まれたのは終戦一年前。つまり、戦争を知らない。戦争中の体験はあるのだけれど、なんせ乳飲み子。覚えてなどいない。私の一番小さいときの記憶と言えば、姉に近くの銭湯に連れて行ってもらった時のこと。
 当然女子風呂だ。
 生まれて初めて女子風呂に入った記憶かも知れない。
 しかし記憶しているのは、”そんなのかんけいねぇ”記憶だ。服を脱がされて着替えの場所から、姉に私がかかえられて湯船のある方に運ばれた記憶だ。そして事件は起こった。
 姉が見事に床に滑って転んだのだ。私は放り出されたのだが、記憶は薄い。床にたたきつけられた記憶はない。気が付いたら、姉が大慌てで大騒ぎだった。周りの人たちも寄ってきた。
 気が付いたら、私は姉に着替えさせられていた。
 更に気が付くと、私たち二人は家に着いていて、母が心配そうに私を覗き込んでいた。私は銭湯で大泣きしていたが、もう泣き止んでいた。あとの記憶は薄すぎる。
 この事件が具体的にいつ頃のことか不明だ。姉に抱きかかえられて浴槽に向かう姿がかすかな記憶にあることから、2歳にはなっていない気がする。また2歳年下の妹が一緒でなかったことから、まだ生まれていない可能性が考えられる。というわけで、1歳から2歳の間の事件だと思う。
 第2次世界大戦は間違いなく終わっている。終戦は父の実家がある東北地方に疎開していたその場所で過ごしたと、父から聞いたことがある。私の記憶には1. ああ許すまじ原爆を!

1.ああ許すまじ原爆を!

 小学校から高等学校に至るまで、毎月「映画教室」という行事があった。たくさんの映画から私は刺激を受けた。その中でもこのタイトルの題名の映画は、刺激が強すぎた。小学校の下学年生の時に見た映画だ。
 広島に落ちた原爆の話だ。記憶が正しければ、この映画は今にして思えばほぼドキュメンタリーと言える。原爆を落とされた直後の爆心地。川に水を求めて入り込み、そのままになってしまった子供や大人。皮膚がめくれてしまう病院での治療。医者も必死、看護師も必死、そして何よりも被害を受けた市民の負傷者は必死なんてものではない。
 私はその画面を見ながら、何がなんやら全く分からなかった。真実の話とは思えないほど激烈だった。記憶にとどめるには、年齢が低すぎた。
 寒い冬に被っていた頭巾は、私を温めてくれた。それが「防空頭巾」なるものだと気がついたのは、ずっと後にそれを被らなくなった時代に入った頃だった。
 今でも戦争の話が出るとーー今こそ戦争の話が世界に蔓延しているのだがーーこの映画での焼け野原になった広島の市街地の姿だ。
 実は今までこの映画の話を家族に話した記憶はない。兄弟も同じ映画教室で同じ映画を観たはずだが、どうだったのかも分からない。今更聞いてみる気にもなっていない。

2.映画教室第2弾


 これまた小学下学年の映画教室で観た映画の話だ。
 タイトルは「野ばら」。
 勿論全てを覚えているわけがない。
 覚えているのは、何故か、一人の帰還兵が木の上で歌った場面だ。そのタイトルが「野ばら」だ。それを見つめているのは、帰還兵を待ちわびていた両親だ。二人とも悲しみに打ちひしがれていた。戦争から無事帰ってきた息子。若い。私にでもそれ位は分かった。歌う「野ばら」が悲しい。

  「わらべはみたり 野なかのばら
     清らに咲ける その色でつ
    飽かずながむ くれないにおう
              野なかの薔薇」

 私はこの場面で涙を流した記憶がある。「野ばら」という歌を知っていた節がある。授業で習ったのかもしれない。悲しい響きに胸が詰まったのかもしれない。帰還兵の悲しいしぐさが、両親のやるせないしぐさが、私を映画に引き込んだのかもしれない。
 この帰還兵はどこで戦ってきたのだろうか。どんな危険な目に遭ってきたのだろうか。どんな戦いを相手に対して迫って生き延びたのだろうか。
 そんなことまで小学生の私が考えるわけがない。戦争ごっこはしても、戦争は経験がないのだ。
 
 私は子供の時、おもちゃのピストルを持っていた。今と違って火薬玉を破裂させて音を出すおもちゃだ。人を狙って撃つのだ。パンパンと乾いた音がした。
 このおもちゃのピストルは、我が家では御法度の品だった。家に持ち帰るなどできなかった。でもなけなしのお金で買ったのだ。だから、私は、私たち兄弟は自分たちのピストルを家の前の溝の中に隠した。遊ぶときに取り出していた。取り出すときに周囲に目をやり、ピストルが無事であることを確認するのだ。その作業をする際には、必ず心のどこかでうしろめたさを感じていた。母の顔を思い描くのだ。悪いことをしているという切なさを感じるのだ。
 ピストルの弾は駄菓子屋で買っていた。100連発の弾だ。私はピストルを撃ったりして遊ぶ場面は思い出せない。いつも溝から取り出す自分の姿だ。
 野ばらを歌った帰還兵は、何を思って歌っていたのだろうか。彼は戦線で究極の緊張生活を強いられていたのだ。それが元で精神をやられてしまったことは、小学生の私ですら気が付いていた。両親の傷心はそこにこそあったのだ。体は無事に帰還したのに、魂が死んでしまったのだ。そのことのために、彼は心が純粋に見えた。透き通った姿だ。周りの人たちが憐れんで自分に目をやっても、彼には何の影響ももたらさない。母親の悲しむ姿も彼には動揺すら感じることはない。
 それこそが彼を襲った戦争の被害者の姿なのだ。
 彼は相変わらず歌う。
  「わらべは見たり…野中のバラ」

3.大阪見物

 父はお金もないのに、私をあちこち連れて行ってくれた。一番記憶に残っているのは、東京だ。小学生の頃だ。何歳だったか思い出せない。
 1週間ほどの滞在先で一番の思い出は、朝起きたときに見た芝生(だったと思う)を地面から突き上げる力強い霜柱だ。太くて長くて驚いた。私の地元にも霜柱はあったが、指でちょっと触るだけで頽れてしまうほど脆弱だったからだ。東京の霜柱を踏みつけると、大きな音を立ててつぶれた。つぶれる感触が靴を通して足裏に伝わってきた。その感触は老人になった今でも足裏にうっすらと残っているのだ。
 東京での思い出はまだまだあるのだが、この記事では大阪の話だ。
 実をいうと、大阪での思い出は大人になってからのものが圧倒的だ。後に姉が住むようになったからだ。
 今回記事にするのは、大阪駅でのことだ。
 あさまだき3等車から降りた2人は、薄暗い駅構内を歩いていた。
 東京からの帰途だったのか、大阪が目的地だったのか覚えていないが、早朝に列車が到着したのだ。だからまだ駅構内を行き来する人はそれほど多くはない。今とは違うのだ。
 私は恐かった。恐ろしかった。緊張で全身が固くこわばっていた。それもそのはずだ。私の視界にはたくさんの人たちがたむろしていたのだ。行き来する人たちはみな急ぎ足だ。しかし彼らはじっと私たちを見ていた。
 父は背が高く私は油断すると取り残されそうな不安を感じていた。おのずと父の袖をつかむ。今でいうホームレスの人たちが物欲しそうに見つめる中を、父にしがみつくようにして歩いた。下から父の顔を見た。父は何事もないようにまっすぐ前を見て歩いている。
 実は自分の地元でも似たような人たちを毎日のように目にしていたのだ。子供の脚でも10分もかからずに鉄道のターミナル駅があった。今は駅前は広々としているが、当時は駅舎を出ると人でごった返していた。父が一人で上京するようなときには駅まで見送ることが習わしのようになっていた。私の目当ては、改札口に入る前に小遣いがもらえるというメリットがあったのだ。5円の時もあれは10円の時もあった。
 我が家では一年で決まった小遣いはお年玉だけだった。「年齢×10円」がもらえる金額だった。だから見送りのお小遣いがどんな「大金」だったか想像できるというものだ。
 行きは父がいるから心配ないが、帰りは一人だ。他の兄弟が一緒の時もあったが、そんな時には小遣いがない場合が多かった。裕福な家庭ではないからだ。
 この記事を「大阪見物」としたが、実は大阪は見物どころか駅構内の記憶しかない。あるとすれば、プラネタリウムだ。ただし、それが大阪なのか三宮方面なのか全く記憶にない。プラネタリウムを生まれて初めて体験して観劇した。だから強い記憶として残っているのだろう。
 地元のターミナル駅の話からプラネタリウムの話へとよたよた動き回ってきた。
 それというのも、地元の駅の話をどの程度書こうかととても迷っているうちに、小遣いの話などを挟み込んでしまったのである。
 私には書くに堪えない話だからだ。見るに堪えない話だからだ。駅周辺を歩くのには子供にはとてつもなく恐ろしい話だからだ。
 それは「ああ、許すまじ原爆を」のごく一部みたいなものだ。
 私の目に映る駅周辺の姿は、傷痍軍人の方々だ。久しぶりに使う言葉だ。何十年と胸の内に収めてきた言葉だ。戦争で体をやられた元軍人さんの姿だ。みんな若い。白装束に身を固めて、松葉杖を脇に挟んでハーモニカを吹く。立てない人は座ってアコーディオンを演奏するのだ。楽器ができない人は缶か何かを持って行き交う人々に頭を下げながら何かを言っているのだ。
 私がその人たちと戦争とを関連付けて意識するようになったのは、父に質問が原因だった。
 「あの人たちはどうして怪我したの?」
 もっといろいろ聞いた記憶はあるが、ここには書くことを憚られる。たとえ知らなかったこととは言え、憚られるのだ。聞いてはいけない質問ではなかったが、それでも憚られるのだ。
 「戦争に行って敵の銃弾を受けたりしてけがをしたんだよ」
 「だから、国のためにこんな目に遭った人たちなんだ。この人たちは悪くはないんだよ。気の毒な人たちなんだよ。自分のせいでこうなったわけではないからね」
 私はそれ以上この質問をニ度としなかった。
 その後、時と共に傷痍軍人さんたちは駅周辺から姿を消していった。私は子供心に、その人たちにもう一度会いたいと思っていた。しかし日本が敗戦から立ち直るにつけて、ニ度と見ることはなくなっていったのだ。
 
 地元の駅周辺にまつわる別の話がある。それも戦争に関わる話だ。アメリカと日本の深いかかわりのある話だ。それはこの記事の別の話題として独立して書こうと思っている。


4.一人の日系人との出会い

 父が地元の駅周辺に行くのにはわけがあった。
 私は時々父について行った。
 父は知人を訪ねていたのだ。立ち話だ。仕事の邪魔をしないように短時間の訪問だ。知人はターミナル駅周辺で雑誌の露天商をしていた。どんな本を売っていたのかうすうす分かっていたが、その話題を家でしたことはない。
 やがて私たちは隣の駅の近くに引っ越した。私は”もう中学生”になりかけていた。
 ある日、父に連れられて出かけた。引っ越した先の近くにあった市営住宅の一軒を訪ねたのだ。市営住宅は狭かった。表札には「HM」と日本語の名前が書かれていた。
 駅での立ち話の帰りに父が私に話してくれたことがある。HMさんはアメリカから帰ってきたのだ、というのだった。戦争が始まる前にロサンジェルスに移民として出て行ったのだ。戦争が終わってから、日本に戻ってきたのだった。国籍はアメリカに残しているという。どう見ても日本人だ。勿論当たり前のことだ。国籍はアメリカでも日本で生まれ育ったのだ。

 そして第二次世界大戦がはじまった。

 HMさんの家族を襲った悲劇は、日本による真珠湾攻撃に始まったと言っても過言ではない。日本人は、国籍はアメリカでも敵国民ということになってしまったのだ。アメリカにいる日系人が何をしでかすか分かったものではないという騒ぎになったのだ。
 ここで既に公開した「New York 見聞記 3-2 Ellis Island (移民博物館)」から記事を抜粋してみることにする。但し、改行や文言などはこの記事に合わせて一部書き直している。

強制収容施設

 ここからはいよいよ日本人の移民者に焦点を当てる。

「Japs Keep Moving:This is A White Man's Neighborhood」
日本人はじっととどまるな。ここは白人居住区なんだぞ
つまり、出ていけ という意味だ

「JAPS」とはJapaneseの意味だ。しかし、その中身は日本人への蔑視が込められている。「隣は白人居住地域だ」これが当時の日本人への気持ちの全てだ。太平洋岸の日本人は後の写真で見るような砂漠に建てられた収容所に集められた。
 父の知人も収容されたのだ。LAからアリゾナの砂漠への移動。命令から2,3日しか猶予が与えられなかったのだ。彼らのせいではない。戦争のなせる業なのだ。汗水流して苦労して手にした財産は隣近所に安くたたき売られた。

 知人は戦後日本に帰国した。私の家族が何度か訪ねたことがある。当時としてもひどく狭いところだった。優しい家族だった。今でも忘れることのない家族だ。

アメリカの謝罪

 私が留学していた1982年、丁度その頃アメリカではこの日本人移民を
収容したことが問題となっていた。私はそのことをチラとしか知らなかった。
 米国が国として謝罪し賠償金を支払ったらしい。実はこのことは当時ある教科を習っていた大学教授が私に謝ったことから知ったのである。
 おばあちゃん教授だったがこの家族の話をしたら、日本に帰ったらごめんなさいって言われたと伝えてと話してくれた。その家族は既にアメリカに戻って、夫婦とも亡くなっていたのだ。その方の長女は(多分)その頃はサンフランシスコにいたと思う。その後、彼女は日本に戻ったとの話を聞いたことがある。

 もう少し写真をここに見ていただこう。収容所での生活を少しでも垣間見るのは戦争の影の部分を確認する作業となるからだ。

 警戒も厳しかったようだ

 収容施設内で(当然のことだが)騒動が起こったことも展示されている。
その騒動鎮圧のために軍が投入されたという記事がある。下記の写真がそれである。

「Japs Riot: Army Moves In」
日本人が暴動:群が鎮圧

 第2次世界大戦に駆り出された日系人もいた。自分から出願した日系人もいた。ハワイ出身のある部隊は敵方から恐れられる凄まじい活躍をしたとの話だ。日本との直接対峙を避けるためヨーロッパ戦線に送り出されたらしい。
 私はあえて調べているわけではない。写真を提示するために聞きかじったことを書いてみただけである。

Ellis Island

 一度は行ってみる価値がある。最後にこの記事の締めとしてもう一枚の写真で終えよう。上記の写真もこのEllis Islandの博物館に展示されたものだ。 
 当時の移民局だ。今では移民の歴史を語る博物館だ。実物と映像のオンパレードだ。アメリカ政府の展示物だ。

これが旧移民局の博物館です。
2002年にはLiberty Island(自由の女神の島)からEllis Island行きに乗りました。


 やはりこの記事は長くなってしまった。もしかしたら次の記事がその話を引き継ぐことになりそうな気配だ。

5.HMさんとの出会い その2

 私の両親は、このHMさんご一家に声をかけてもらって渡米している。1960年代だ。アメリカに再度渡ったHMさんご一家は、庭師(’ガーディナー)として働いてついに成功をしていた。1か月余りにわたる間、私の両親はこの家族の世話になっている。当時は私の姉・次兄・妹の3人が留学していたので、私の両親にとって家族の再会の場ともなったのである。
 1970年には両親は勿論、姉妹は既に帰国していた。次兄だけがまだアメリカで生活をしていた。その時に私が留学したことは、noteの記事のいろんな場所で書いてきた。
 その時に次兄はLAにいた。次兄は実はそこでキリスト教の教会の牧師をしていた。信者は主に日系二世だ。特に義姉がハワイ出身ということもあったのか、ハワイ出身の人がいたことを覚えている。その人たちが住んでいるシェアハウスのようなアパートを訪ねたことがあった。いろんなゲームをして遊んだ。楽しい遊びの時間だったが、何をしたかは覚えていない。一つだけは強烈に記憶に焼き付いている。
 それは生まれて初めてした「ジェスチャーゲーム」だ。自分がジェスチャーをする番が来た。ドキドキした。ワクワクはしなかった。お題は、私が全く知らない内容だったのである。今ならだれでもできるようなものなのだが、当時のわたしにはさっぱり分からなかった。当時誰もが知っている映画のタイトルだ。しかも世界的に躍り出た映画だ。何しろ私は大学を出たての頃、当時有名なビートルズを知らなかった人物だ。日本に来たというのに全く知らなかったのだ。
 ところでそのお題は小さな紙切れに書かれていた。「007」。私の頭の中は真っ白だ。パニックだ。指で〇を作って、それを二回して、指を7回数えるようにするしぐさは全く成功しなかった。顔が引きつった。次兄以外の人は私の知らない人ばかりだ。さんざんやった挙句に敵方が早めの時間停止をしてくれた。
 紙切れを見た全ての人が「な~んだ」というのだ。今思えば当然の反応だ。
 次兄にはLA滞在中いろいろな場所を案内してもらった。「La Brea Museum」、「Huntington Library」、「Beverly Hills」、「Forest Lawn」、「San Diego Zoo」などだ。San Diegoでは日系人のお宅を訪ねた。玄関の戸を開けると、いきなりリビングだったのには驚いた。リビングはとても広かった。帰りには当時アメリカ最大と言われた海軍基地にも寄ってくれた。それを見て日本が勝つわけがない、と思ったほどだ。他にも案内してくれたが、書きおうせない。
 しかし、それらの中でも私の心を揺さぶった訪問地はLAのダウンタウンにあった。案内してくれたどの場所も揺さぶられたのだが、心の底が地震のように揺さぶられたのだ。
 彼は牧師の地位を利用して出入りを許されていたのだ。一般人は多分簡単には入れない場所だ。私は兄に何度も大丈夫かと問うたほどだ。
 行った先は陸軍病院だ。丁度ベトナム戦争の最中さなか、現地の戦いで負傷した兵士たちが入院しているのだ。兄はギター片手に裏口から入る。勿論チェックする場所がある。受付の人とは顔なじみになっていた。私のことも許可を取ってくれた。アメリカでは牧師というのは絶大な信用があるのだ。
 兄は勝手知ったる病院内を迷うことなくある部屋に入っていく。
 「ハ~イ」
 するとあちこちから「ハロー」と返事が返って来る。
 10人くらいがいただろうか。
 そこは私には恐ろしい光景の部屋だった。
 内臓に太い針金が貫通していてどう見ても動くのが大変そうな負傷兵。貼り付けになっているのかと見紛みまがう青年兵。両足を固定されている負傷兵。私はこの3名しか直に見る勇気がなかった。しかし彼らは明るかった。
 兄がギターを弾き始める。歌う歌は黒人霊歌だ。若い人たちが教会で歌う歌だ。アメージンググレイスだ。病室に歌声が響く。素直に歌う彼らは、兄の慰問を喜んで歓迎しているのだ、ということが伝わってきた。
 負傷したことで、命の危険が溢れた戦場という日常から解放された時間なのかもしれない。そこにいる人たちの顔は、私が事前に想像していた以上に穏やかだったことが印象に残っている。そしてその身に負った傷は想像を絶するものだった。
 兄の元を離れて、空路サンフランシスコに向かった。無事に出会えるだろうかと不安が一杯だ。子供の時以来の再会だからだ。昔のことなので、前もって手紙のやり取りで空港で出会うことになっていた。心配は命中した。飛行機を降りてバッゲージクレイムを出た。迎えてくれるはずのHMさんの娘(と言っても、私よりも12才上の姉と同じだ)が見当たらない。年数がたっていたから、お互いが認識できないだけかも・・・と思いながら出迎えの人たちの顔を見渡した。日本人同士だから見分けがつきそうなのに見当たらないのだ。30分以上探し回った。と言っても目で追うだけだ。出口の近くを動き回るだけだ。そして私は決心した。
 出迎える人でごった返していた場所が人気が無くなってきたのだ。仕方なくとぼとぼと歩いた。まっすぐな長い通路を歩いた。自分の目の中に彼女が入って来ることを願いながら・・・。ゆっくりとゆっくりと歩いた。普段は私は高速で歩く。しかしそんなことをすれば出会えなかった時が怖すぎるのだ。
 長い通路の先は直角に曲がって道が続いていた。その先の様子など知る由もない。ため息をつきながら、思いスーツケースを引きずりながら歩いた。と、その時だ。一人の女性がこちらに向かって駆け足だ。こちらに向かってくる人などいない。当然私の目に留まった。そしてお互いがお互いを認めた。
 「ごめんなさい、ごめんなさい。車が止められなくて手間取ってしまって・・・」
 あの市営住宅の狭い部屋に住んでいた人とは思えない姿だった。赤貧の生活にもかかわらず明るく平和に満ちた生活をしていた家族の姿を思い出した。
 戦中戦後の苦しい生活は既に終わっていた。
 私は彼女が生活している働き場のアパートに荷物を下ろした。無料で借りてくれたのだ。それからの1週間は、彼女の案内のままにサンフランシスコを歩きまわった。
 初めてのスモーギャスボード(食い放題のレストラン)。初めてのサンフランシスコの浜辺。初めての日系人の集まり(父も来た場所だ)。そこでのディナーはびっくりだ。大きな、とてつもなく大きな更に山盛りのチキンだ。母が是非連れて行ってもらいなさい、と言ったミケランジェロの「最後の晩餐」だけを主題にした蠟人形館。Golden Gate Bridgeを見下ろせる場所。
 私の戦争場、ミシガン大学へのフライトまでいつも付き添ってくれたのだった。
 その留学という戦場での話は、「留学ってきつい、楽しい その1とその2」をお読みください。
 彼女は空港でお別れするときに、お土産を下さった。
 それは私にとって、生まれて初めての香水だった。ミシガン大学では、その香水を毎日体につけて満足していた。ある日私の部屋に隣の日本人がやってきた。机の前にある棚に飾ってあったその香水を見つけて驚いていた。
 「おい、この香水どこで手に入れた?」
 「知人で姉の友人にもらったんだけどね」
 「シャネルの5番じゃないか」
 私は香水にそんな名前がついていたなんて知らなかったのだ。言われて確認すると確かにそうであった。
 「これは女性用の香水だぜ」
 知人は私の妻への土産のつもりでくれたのだった。帰国後、少し中身が減った「シャネルの5番」を土産として手渡した。
 彼女とはその後、たった一度だけ日本でお会いする機会があった。

6.戦争からは程遠いけれど

引揚者住宅

 最近は大雨による洪水災害をよく目にし耳にする。毎年のように被害の話題が絶えない。
 私が小学生の時、大雨の被害が甚大だった。
 日曜日の朝のことだ。
 「一番いい服を着ておきなさいよ」
 母が私に言った言葉が耳に残っている。私は丁度発熱で寝ていたのだ。それなのにそういう風に言われて変な気がした。
 私の家族は私が小学生になる直前に台風で住んでいた家が崖崩れのため傾いた。半分宙づり状態だ。二部屋のうち、片方の部屋の土台が流されたのだ。それである人の助けで市の引揚者住宅の1部屋を借りることが出来たのだ。住宅と言っても、元は大きな宿屋か料亭だったところだ。私の家族は、そのうちの2階にあった大広間(宴会場)を3つに仕切った一部屋を借りることが出来たのだ。その部屋は丁度舞台となる場所が含まれていた。隣との境は当時馬糞紙と言われた厚紙が壁となって仕切られていた。
 宴会場だった場所は廊下があって、そこからは下の道路がはっきりと見下ろすことが出来た。兄弟の隣近所の人たちもその廊下に集まって下を見ていた。病気とは言え、服を着替えて私のその中に紛れ込んだ。大人をかき分けて下を見た。

水 害(昭和27年)

 ものすごい勢いで水が流れていた。その通りは今でもそうだが、山から下る道路なので流れは川下りだった。いろいろな物が流されていた。机やドアなどはまだいい方だ。屋根ごと流れて来たり、小屋が流れてくるといった塩梅だった。気が流れ、砕けた家の一部が流れ、家財道具が流れ下ってきた。信じられないスピードで流れてくるのだ。私な発熱のことなどすっかり忘れてしまっていた。興奮していたのだ。
 引揚者住宅は通りから階段で上に上がる。上がりきった上には庭があった。右手に百日紅の花が赤く咲いていた。私はこの百日紅の木肌が気に入って、後に引っ越した後にもずっとこの木が脳裏に刻まれている。現在住んでいる家の庭にも同じような百日紅が植わっていて同じ色の花を咲かせている。
 百日紅の下の道路は大河となってしまっていた。父の知人の看護婦さんの家がその道路の上流にあった。父はたまたま来ていたその人を帰すわけにはいかないので、我が家に泊めた。次の日に二人で家まで行ってきたそうだ。そして彼女の家が完全に洪水に流されて跡形もない状態を目撃したのだ。
 私は数日後、校区外のS小学校に行った。(引揚者住宅に引っ越す前に住んでいたすぐ近くにS小学校はあった。その縁で引っ越し後その学校に通うことが許されていたのだ。)山裾に建っていた私が通う学校は、まさに被害のど真ん中だった。一旦は無事逃げてきたのに、先祖のなんたらを取りに戻ったために洪水に飲み込まれたおばあちゃんの話を耳にした。話してくれたのは、友達の母親だ。私も知っているおばあちゃんだった。友達の家族は、学校の講堂に避難していた。私はその家族の一員のようにして友達と一緒にゴザに座った。
 その地区だけで187人が亡くなったそうだ。(この数を私が覚えているわけがない。ネットで検索てみたのだ)
 その後は引揚者住宅の裏にある別のN小学校の校庭で遊んだ。雨が降ると長靴を履いてその校庭で兄たちと遊んだ。「洪水遊び」だ。雨でかさが増した場所に川を作って、手作りの堤防が決壊する様子を実況中継するのだ。水害のときのラジオの中継を真似たものだ。その運動場の真中にどでかい岩が山から落ちてきたままになっていた。

自衛隊出動

 裏のN小学校の校庭に現れたのは、自衛隊の人たちだった。私たちは毎日のように自衛隊の人たちの活躍を目の前に見て気持ちが高ぶっていた。
 復旧作業のために自衛隊員は昼間は出かけていた。留守の隊員は時々遊んでくれたりした。
 私たち子供にとって魅力的だったものは、大きなドラム缶に入った梅干しだ。ぎっしりと入っていた。たまに隊員に頼むと一粒食べさせてくれたりした。しょっぱかった。嬉しかった。楽しかった。
 実は父の知人が我が家にもドラム缶を送ってくれていた。ドラム缶一杯のバターにチーズ。ドラム缶一杯の衣類。ドラム缶一杯の菓子類。衣類などは複数のドラム缶にぎっしりとは行っていた。
 父の知人というのは、アメリカ在住の日本人だ。知人が通う教会で大水害で困っている日本人がいるから、と声をかけてくれたのだと記憶している。私は本のこどもだったから記憶違いかもしれない。
 それらの慰問品はいろいろな避難所に届けられたはずだ。車のない時代にどのようにして運ばれたのかまでは知らない。きっと人海戦術だ。父のことだから、車を持った知人がいても不思議はないほどに子供の私には感じられていた。当時勤めていた会社の人が助けてくれたのかもしれない。

 どれくらいの期間自衛隊は裏の小学校に駐屯していたのか覚えていない。いつものように自分の小学校から帰宅すると、自衛隊の話が出た。それでいつものように裏の小学校のドラム缶の置いてある場所に行ってみた。歩いて5分もかからない。行ってみると、そこには大人中心に長蛇の列ができていた。間にちょこちょこ見た顔の自分と同じ子供が並んでいた。手に手に洗面器や鍋を持っていた。私は急いで家に走った。2階の我が家に帰ると、母に「鍋、なべ・・・」息せき切って叫んだ。
 母から手渡された鍋を持って裏の学校に戻った。
 心配で心配でならなかった。
 後で考えると心配するほどではなかった。ドラム缶は3つもあったからだ。順番が来ると手に持った器に梅干をこれでもかとかき込んだ。順番は思っていた以上に早く来た。
 鍋一杯に詰め込んだ梅干を持って、意気揚々と家に帰った。母が大笑いした。貧しい家の中が豊かになった気がした。兄たちが学校から帰宅すると目を丸くして驚いていた。私は誇らしかった。
 次の日も学校から帰宅して、すぐに裏の学校に駆けつけた。もう大人たちはいなかった。いるのはいつも遊ぶ仲間たちだ。自衛隊員がいなくて寂しかった。
 誰から始めたのか覚えていない。そこの方にまだ残っていた梅干を手にした。そしてだれかれ関係なく投げつけ始めた。雪合戦ではない。梅干し合戦なのだ。ぎゃぁぎゃぁ言いながら投げつけて遊んだ。たらふく遊んだ。みんなのシャツが赤く血に染まった。いわゆる戦争ごっこが始まったのだ。手も足も顔もシャツも半ズボンも・・・真っ赤に血に染まった。そう思うだけで興奮した。今考えると、戦争が終わってまだ7年しか経っていなかったのだ。
 

7.小学校の裏山とカレー

 私が通った小学校が、何故校区外の学校なのか。それというのも、そもそも私の家族は台風で借家を出なくてはならないほどの打撃を受けたのだが、そこがその小学校のすぐ下に位置していた。兄たちはその学校の生徒だったのだ。引っ越してすぐに私が入学するときに、どのような話し合いになったのかは知る由もないが、兄弟が通っているからという理由で、その校区外のS小学校に入学が許可されたのだ。
 5年生の3月に隣町に引っ越すまでの期間、毎日が楽しくてたまらなかった。2年生か3年生ともなると、各学年二クラスしかないこの小さな小学校では、学年全体で遊ぶのが普通になっていた。
 学校のすぐ裏が山になっていて、竹藪がうっそうとした竹林だった。学校の休み時間は狭い運動場でクラス全体が遊び回っていた。ところが放課後になると、学年の男子全員が裏山の竹林で「陣取り合戦」をするのが習わしとなった。
 クラスは2つしかないので、各クラスが同じ陣地を守るのだ。攻めたり攻められたり、放課後のこの時間は深い印象を焼き付けてくれた。いわゆる戦争ごっこなのだ。
 竹を組み合わせて陣地を堅固なものにするのだ。その中に数人が人を守り、外回りにも数人、残った仲間が敵陣を攻め立てるのだ。斥候(スパイ)が出されたり、斥候を捕まえて自分たちの陣地に引きづり込んだり・・・何が起こるか分からないのだ。
 あまりにのめり込みすぎて、次の日の掃除の時間にまで敵を捕虜にするのだ。時には女子が数人陣地付近を守ったりすることもあった。
 夢中になりすぎて、帰るのが遅くなったりして親たちに心配をさせることも多々あったはずだ。
 私なんかは校区外ということもあって、帰る途中からは一人旅となる。とぼとぼ帰るのだが、足取りはそれほど重いわけではない。遊びすぎて疲れているだけだ。
 帰りの途中までは友達と一緒だ。途中で別れるのが惜しくなるわけだ。そこで私は彼の家までついて行く。玄関先でお別れだ。その玄関先というのは、今でいうならマンションだ。勿論当時そんな言葉は日本にはなかったと思う。だからそこはアパートだ。その地区で最初に建てられたアパートだったかもしれない。今なら狭いアパートなのに、私にはうらやましい住みかに映った。
 その日は運よく玄関先で彼の母親が姿を現した。若いお母さんだ。生き生きして見えた。どぎまぎして挨拶をした。そして帰ろうとした。
 「丁度夕食の時間だから、食べて行かない?」
 恐ろしいほどの誘惑だ。我が家は兄弟6人だ。食事は戦争そのものだった。安心できる食事は自分の誕生日の日だけだ。その日には優先権が与えられていたからだ。と言っても、兄弟と違うのは、自分にだけゆで卵が一つ更に乗せられているだけなのだ。
 兄弟たちの羨望の眼がゆで卵に注がれる。食事の最後まで食べないでおくのだ。みんなが食事を終えると、ゆっくりと殻をむく。殻に白身でもくっつこうものなら必死だ。殻ごと食らいつきそうな勢いだ。

 「カレーだけど、嫌い?」
 黙って首を振る。そして気が付くと部屋の一つに案内される。テーブルの前の席に座る。しばらく待つと、友達の母親がいそいそとカレーの皿を私の前に運んでくる。カレーなどという名前ももしかしたら初めて聞いたかもしれない。初めての香り。スプーンで食べるなど考えても見たことがない。
 一生懸命皿の上を平らげた。
 終わりかと思えば、何とデザートだ。
 リンゴだったのか梨だったのか覚えていない。そのどちらかだ。
 我が家ではデザートなどでない。デザートという言葉も(我が家では)ない時代だ。
 デザートを一口食べていると、玄関にお客さんだ。
 友達の母親が出る。玄関からの声が聞こえる。聞いた覚えのある声だった。
 母親が部屋に入ってきた。
 「おとうさんが迎えに来てるよ」
 折角のデザートの時間が壊れて行った。
 私はしおれる気持ちが全身に感じられた。
 放課後の掃除の時間の戦争。その後の裏山の竹林での戦争ごっこ。そして最後に待っていた至福の時。その最後の最後に思いもよらない悲劇の到来。
 おばさんにお礼を言ってーーそれも父に促されて言ったお礼の言葉だ。すごすごと父と並んで帰る道。父は特に何も言わない。家が近くなると一言私に言った。
 「楽しかったか?」
 「うん」
 また無言だ。怖い父が言葉を失ったような時間が・・・怖かった。
 家に帰りつくと、母や兄弟たちが静かなお出迎えだ。
 2,3日してから、父が話してくれた。
 電話のない時代、どんなにしてあの家を探し当てたのかを話してくれたのだ。台風の時に住んでいた借家の家主さんの子供が同じクラスの友達だったのだ。仲も良かった。そこでその家に行く。誰と帰ったかを聞いたのだ。それでも分からなかったみたいだ。分かったとしても家も知らないはずだ。
 父はその友達が知っている限りの家を聞いて、一軒一軒訪ね歩いたとのことだった。そしてついにたどり着いたのだ。
 失われた子供を探す親の気持ちは、親になってから経験するのだ。だが、私の経験はもっと深刻だったから、記事には載せられない。妻以外には話したことがないからだ。
 戦争ではそれどころではない。国の事情で子供を失うのだ。文句を言えない時代だ。75年経った今でもその気持ちが揺さぶられているのだ。親は子供に、子供は親に再会もできずに、どこでどうなったかもわからないままになってしまった方々がいることは紛れもない事実なのだ。
  
 

また続きを書きたくなったら、別項目で書くかもしれない。
 しかし・・・

2022.9.12




 


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