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哲学者のアトリエがあるとすれば──『哲学するアトリエ』について

それはどんな空間だろうか。
そこにはいかなる役割があるだろうか。
哲学者のアトリエがあったら、一体そこにいる哲学者は何をしていて、どんな人が必要とするだろうか。

画家はアトリエで制作する。俳優には稽古場がある。いずれも、作品を仕上げるための空間であり、そこに至る前段階のプロセスを心置きなく解き放てる空間、といった印象がある。では哲学者のアトリエ、あるいは哲学における「アトリエ的なもの」があるとすれば、それは一体どのような姿をしているだろうか。
 2023年の3月、『哲学するアトリエ』という本を出版した。詳しい内容は実際に本を読んでいただくことにして、ここでは簡単な本の紹介と、出版から数ヶ月経った間に行った活動を踏まえて、現在考えているこの本の先の話について言葉にすることで広げてみたい。
 
『哲学するアトリエ』は2022年の1年間、画家、俳優、映像作家といった創作活動をする人たちと時間を過ごすなかで、言葉で残さなければ消えてしまうエピソードを書き残した文章を纏めた記録集のような本である。人に説明するとき、わたしはこんな風に伝えてきた。
しかしここ数ヶ月の間に、少しずつ人からコメントをもらうにつれて、これまで簡潔に説明してきた要素をもう分解して見ることで、この本の性格をもっと鮮明にできるのではないか、一度自分のなかで形が与えられていたこの本の輪郭を、もっと解きほぐすことができるのではないかと考えるようになった。


1.一度しか起こらなかったことについてのライティング──『哲学するアトリエ』における表象と描写

『哲学するアトリエ』でわたしが試みたかったことの一つには、論文でも批評でもない文体を作ることがある。通常、哲学の論文は扱う哲学者や概念についてのテクストを読み、焦点を定めてそこに向けて洗練させていく。批評は、扱う作品についてその記述と執筆者独自の切り口で言葉を充てることによって、作品に新しい見え方を提供する。
『哲学するアトリエ』では、そのどちらでもない──と少なくともわたしが考えている──ライティングの実践を試みた。予め断っておけば、この本1冊によって自分の目指している文体が確立されたと主張するつもりはない。
それでは『哲学するアトリエ』では何を素材として文章を書いているかと言えば、それはアトリエに来た観客との対話、展示制作、哲学対話、それらを行ったとき隙間に生じた無数のエピソードなどの、実際に起こった厚みを伴った体験である。
体験をベースにした文章の場合、実際の体験を可能な限り取りこぼさないような、レポートとでも呼びうるような客観的な記述、つまり実際に起こったことをできる限り再現することを目指すのが普通ではないだろうか。(ここでは、何も哲学的な文章に限定せず、ごく一般的なイベントなどの記録文章も想定している)。
もしも記録集が客観的な記述や出来事の再現と結びついているのであれば、『哲学するアトリエ』はそのような性質を持ってはいない。なぜなら、『哲学するアトリエ』に書かれている出来事は、著者であるわたしの目線で残しておいた方がいいと判断したエピソードを書いているからだ。つまりこの本には、他の人から見れば書かなくても文章として成立する余剰の出来事が散りばめられている。このことをもって、南島興(横浜美術館学芸員、「これぽーと」主宰)は著者としてのわたしについて「哲学的対話の単なる記録者ではなく、その固有性を再構成する、もっと積極的な存在」[1]であると指摘する。
あえて対比を構成してみよう。一般的な「記録」が実際に起こったことの反復や忠実な再現・表象を求めることに対して、『哲学するアトリエ』では一度しか起こらなかった、その時・その人・その関係性に固有のエピソードを、単純になぞるのとは別のしかたで描写することが意識されていたと言えるかもしれない。


[1] 南島興「私がメディアであるとしたら。」(『アートコレクターズ』2023年8月号、104頁)

 2. 哲学がつくる時間の流れ──消失と発酵

以上のような方法で書くことによって、わたしは現在当たり前とされているものとは異なる「時間の流れ」を作り出すことができないかと考えていた。
現在アートや研究において中心にある時間の流れのなかでは、特定の目的へ収斂していくことが要請される。助成金にささえられたアートプロジェクトにおいては、開始地点に立てた目標と照らしてどの程度外れずに活動できたかといったことが評価の項目にあると聞く。研究においてもなんらかの科研費に通過したかということが実績のひとつになる。自分の活動が充分な知名度を得ていない場合に対外的にアピールできる要素としては、受賞歴や有名な場所で発表した経験があるかどうかといった情報が挙げられている。[2]
こうした評価の軸が張り巡らされた制作環境において、これらの要素によって下される評価が持つ意味は大きいし、もちろん全面的に否定したいわけでもない。しかし人工的な目的にささえられた評価基準や活動があまりにも肥大化してしまうと、そこで取りこぼされる活動、あるいは取りこぼされていることにすら焦点が当たらない活動やエピソードがあることは間違いないだろう。
哲学の役割を改めて考えてみたときに、過剰に人工化された制作環境をもう一度解きほぐすことができる可能性がある。そのときに想定している哲学の役割とは何かと言えば、それは次のようなものになる。答えの出ない課題に対して、安易な答えを与えず答えがない状態に耐えながらも活動を進めること、すぐには解決することができなかったり、どこに責任を求めたらいいかわからないようなプロジェクト全体としての葛藤を、すぐには解決しようとせず、その未然の状態に晒され続けること。わからないこと、すぐには判断できないことに対してその場しのぎの答えを与えたり特定の誰かに帰責することによって先に進めようとする態度は、特定の個人に皺寄せが行ったり、集団全体にとって不可視の亀裂が生じることになる。哲学が本来持っていた役割を現代の文脈で想起してみれば、それは集団創作においてひとつの居場所を持つ。
哲学はプロジェクトにおいて異なる時間軸を作り出すことができる。それは、答えの出ない状態に耐えること、目的に収束していかない、未然の言葉の交換をプロジェクト全体として許容すること。そして、わたしはここにこそ哲学におけるアトリエ的なものがあると言いたい。アトリエ(や稽古場)は、かたちにならない遊戯が織り重ねられる場である。哲学者のアトリエがあるとすれば、人と人が関わるなかで生じるいつ役に立つかわからない、そもそも生かされる時が来るのかどうかもわからない経験や言葉の断片を引き受け、それらを発酵させることができる空間であると言える。
現在はさまざまなものやことが生み出されては消えていく、「消失する時間」の流れが主流にある。しかし、集団創作において哲学者の役割があるとすれば、それは、目的に急かされる制作環境において、浮遊するアイデアや言葉がそのまま集団のうちに滞留することを可能にする、消失する時間とは異なる「発酵する時間」の軸を作り出すことではないだろうか。そして、それこそが哲学にとってのアトリエである。


[2] こうした制作環境そのものを問題視して、「プロジェクト」という概念のもとに整理した論考として以下のものがある。「「プロジェクト」の時代における学園空間とコレクティフ──「平砂アートムーヴメント」に寄せて」(『archive : HAM2022』、HAM2022事務局、2023年所収)

 
3.哲学の宛先

哲学者のアトリエ、哲学におけるアトリエ的なものとは、集団創作において未然の言葉やアイデアを意義のあるものとして保存することにある。ここで冒頭の問いに戻ろう。
 
哲学者のアトリエがあったら、一体そこにいる哲学者は何をしていて、どんな人が必要とするだろうか。
 
ここまでの記述によって、何をしているかということについては一定の見通しが得られた。どんな人が必要とするかについて考えてみれば、それは既存の価値体系や時間の流れとは異なる尺度で活動していきたい、さまざまなものが生み出されては忘却されていく、消失的な時間の流れにどこか息苦しさを感じていて、生きることの手触りを確かめながら生きていきたい人ということになるだろう。
しかしここにある大きな課題は、現代において多くの場合そもそもアトリエに哲学者がいないということ、また哲学におけるアトリエ的なものが哲学的な営みと見做されていないということにある。
現在哲学と呼ばれているもののほとんどは、大学で行われる哲学的なテクストの研究になっている。そこで必要とされるのは、高度に抽象化された文章、対象とする概念や哲学者を論じるための外国語の文献を踏まえた充分な精読や引用などである。もちろんテクストに軸足を置いてしか考えられないものごとはたくさんある。哲学の抽象度が可能にする思考や、大学で育まれる精読はそれ自体がひとつの技術でもあるほど、習得するためには高度な訓練を必要とするだろう。
しかしそこで言われている哲学には、一体どんな宛先があるのだろうか。そもそも宛先が想定されているのだろうか。よく、論文とは念頭に置かれている時間スケールが5年後、10年後、未来に同じテーマについて研究したい人のためのものであるとも聞く。そのことにも一理あるだろうし、実際そこで許されている時間スケールは、即効性が求められる現在ますます貴重なもののようにも見える。しかし同時に、それはリアルタイムで生じている課題や問いを無視していいということにはならない。業績の生産、科研費の取得、人脈の構築などが哲学研究を続けるための条件なのだとすれば、そこには結局のところ他の分野とも同じく、ひとつのルールしか作用していないことになる。そこでは理論的に基礎付けられていない、不定形で未然の言葉や思考がたゆたう余地は残されていない。
ところでわたしは、哲学とは何かといったことを考え始めるとその途端に生じる、大学と、その外部における実践としての哲学カフェや臨床哲学といった二分法自体が、そもそも好きではない。どちらか一方に立場を定めるのではなく、哲学者のテクストを研究するときのような緻密さで、世界を眺めてみることはできないものだろうか。
哲学に触れていなくとも、生活していくなかで〈わたし〉とは何か、人間とは何か、働くとはどういうことか、性とは何か、老いるとは何か、価値とは何か、などの疑問を抱く契機が散りばめられている現代の状況において、「哲学研究」だけではない「哲学的な生」に対して見通しを与えることは、現在要請されている哲学のテクネーではないのだろうか。
「哲学的な生」において生じることのほとんどには答えがない。どう向き合っていいのかということすら、わからないものが多い。こうした言葉が誇張的に聞こえないほど、世界のひずみは日々さまざまなメディアで反復されているように思う。
哲学のアトリエとは、生きるプロセスで生じる途方もない現実に直面するその度ごとに、そこに居合わせた人たちによって組み立てられては解体されるような、時代の灯によって照らし出されるゆらぎのある空間なのかもしれない。(文:長谷川祐輔)

この文章に関連する参考図書
長谷川祐輔『哲学するアトリエ』哲学のテーブル、2023年。
『アートコレクターズ』8月号、生活の友社、2023年。
『archive : HAM2022』HAM2022事務局、2023年。
鷲田清一『哲学の使い方』岩波新書、2014年。



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