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「哲学はテーブルをつくる」── 一般社団法人哲学のテーブル お披露目会

2023年3月26日、公開イベント「哲学はテーブルをつくる」が開催された。このイベントは、一般社団法人哲学のテーブルの創業を大々的に伝える初めての機会という位置付けで行われ、テーブルを作るワークショップ、理事2人によるトーク、参加者とのディスカッション、懇親会という3つのパートで構成されている。このレポートでは、理事2人のトークと会場とのディスカッションにおける核心的な部分について振り返りたい。

1.  哲学とテーブルについて──長谷川祐輔

はじめにわたし(長谷川)からのプレゼンでは、哲学とテーブルの関係について話した。「哲学」と「テーブル」について語った歴史上の哲学者としてハンナ・アーレントがいる。『人間の条件』における有名なテーブルの比喩を引用しておこう。

この世界でともに生きることは、ちょうどテーブルがそのまわりに座を占める人々の間にあるように、事物の世界が彼らの間にあることを意味している。人々の間に介在するあらゆるものと同様に、世界は人々を結びつけると同時に隔てているのである。(アレント『人間の条件』牧野訳、2023年、85頁)

ここで専門的な解釈や文脈は一旦傍におく。重要なのは、テーブルを人々が囲むという具体的な経験と、人間は結び付けられると同時に隔てられている、という抽象的な思考が重ねられていることだ。
人は自分の意志と関係なく、親しさと距離の尺度をそれぞれ調整しながら生きている。というよりも、そのようにしか生きられない。深いところで親しくなったと思った相手と実はそこまで親しくもなく、そこまで親しさを感じていなかった相手と実は深いところで繋がっていたと感じることは度々起こり得る。他者との関係の網の目の中に生きるとは、結局のところこのような絶えざる距離の調整のなかで生きることを意味している。
これは抽象的な話でもあると同時に、テーブルのメタファーはこのことを具体的に象徴している。人と食事に行くとき、パーティーでテーブルを囲むとき、そこにはテーブル(と食事)がある。人は通常、相手と話したいとき一方向的に話すことはできない。(あるいはできたとしても、そのように話しかける人間は次第に話しを聞いてもらえなくなっていく。)
話したいから食事に誘ってテーブルを囲む。そのときテーブルは、空腹を満たすためだけのものではなく、話しを聞いてもらう、さらには距離感の調整という根源的な営みをささえるために機能している。
団体の名前である「哲学のテーブル」は、さまざまな既存のジャンルからこぼれ落ちる活動をする人が座っては離れていくことで段階的に作られていく、ひとつの星座のようなものとして考えている。

哲学のテーブルのロゴ

2.  考えつづけることの居場所──阿部七海

阿部は「考えつづけることの居場所」と題して、主にこれまで関心を寄せてきた「公共(性)」やプロジェクトを企画・運営していくことそのものについてプレゼンをした。タイトルにある「考えつづけることの居場所」とは、プロジェクトを運営していくことに内包される逆説を表現している。たとえば、プロジェクトという形式は、以下の流れによってささえられる。

(1)テーマを決める
(2)企画書をつくる(スケジュール、予算、関係者)
(3)関わって欲しい人に話をしにいく
(4)関係者と相談する、調整する
(5)準備する
(6)開催する
(7)振り返る

通常アートプロジェクトには、プロジェクトを通して考えたいテーマがある。阿部がこれまで取り組んできたテーマは「公共(性)」についてだった。公共性について、普段意識してみることがどれぐらいあるだろうか。公共とは大きく言えば、複数の人たちが平等なしかたで利用可能だったり参加できるものや空間のことを指す言葉である。しかしそこには、守らなければならない規則、自分が参加する以前から構築されていた制度などがある。自分が参加する以前から積み上げられてきた規則や制度によって、人々にそこで許されている行為は規定される、とも言うことができる。
プロジェクト全体のテーマとして「公共」を掲げ、実践することによってテーマの輪郭を鮮明にしていくことには、「考えること」と「実践すること」の往復が不可避的に発生する。考えることと実践することの往復は、どちらかひとつが欠けても空虚になる。しかしいざ人間が複数集まって何かを行えば、そこにはあらかじめ予測できなかったさまざまな出来事が生じる。プロジェクトを実施することには、わざわざ強調するまでもなく偶然性が織り込まれているものなのであり、計画と偶然性を絶えず調整していくことでしか維持されない。
プロジェクトを実施するなかで現実の具体的な出来事に対処する時間が長くなれば、思考すること自体がすり減っていく。逆に考え続けてばかりいては、目の前の現実は何も変わらない。
人、もの、場所との絶えざる関わりを強いられる実践や日常のなかでひとつのことについて継続して考えていくことは、現代においていとも簡単に失われてしまう。「考えつづけることの居場所」を維持していくことは、は、所与のものとして与えられているのではなく、自覚的に作ろうとしなければ簡単に失われてしまうものであると言えるだろう。


ワークショップ「テーブルをつくる」の様子。レストラン、ファストフード店、政治家の対談に使われるテーブル、会議室などさまざまな場面のテーブルの長さを想定しながら、距離を体感するためのワークショップ。
テーブルには、人と人の会話を保留する役割がある。

 3.  質疑応答──今あるルールのかたちを確かめる

後半は、理事の2人による振り返りから始めつつ、来場者とのディスカッションの時間となった。会場には多岐にわたる分野──哲学者、学者、俳優、画家、デザイナー、自営業、編集者、会社員など──で活動している来場者が集まり、前半のトークの内容から派生して多くの対話が生まれた。必ずしもすべてのコメントが繋がってくるわけではないが、少しでも臨場感を伝えるために象徴的だったコメント、質問を再構成して列挙したい。

Q. 哲学という看板(哲学者)
自分は哲学対話や子どものための哲学(P4C)を研究している。そこで、哲学対話を社会人や子どもたちと行っているうちに、自分たちでやりたい人が現れる。そこで「哲学」という言葉を使わなくていいかという意見が出てくる。そういうとき、「哲学」という看板を掲げることについて考えることがある。
大学で教えている立場として、アカデミックな方向に向かいたい人向けに、「哲学」という灯火があるよと言えるために看板を下ろさないではいたい。哲学という看板を掲げることについてどう思うか?
→大学で研究職に就く以外に、どうやったら実感を伴って「哲学」という看板を掲げられるか、試作的に考え続けていたら今のかたちになった。哲学を生業とする方法として、博士号の取得からその先のポストの獲得という以外のルートがあるということを信じたい。(長谷川)

Q. 組織を大きくしていきたいという思いはあるか?(俳優)
→人と人が関わるときの濃度にはいろいろな種類がある。たとえば撮影や展示は関わり方として濃いし、ひとつの撮影・展示をこなした後には密な時間を過ごした感覚を覚える。しかし人を繋ぐものがこれだけでは、会える回数は限られてくる。そこで、たとえばカフェ営業や本を販売することで、大きな創作活動とプライベートの中間を作っていけたらと考えている。関係性を結べる手段を複数化することは重要な気がしている。初めから集団自体を大きくしようとしても、いい結果は生まれないと思う。関係性が短いスパンで濃くなる活動と、コーヒーを飲みに来たり本を買いに来たり、身軽にできる活動を両方繰り返すことで出来上がってくるものがある。その結果、大きさはわからないけどここにしかない固有な空間ができていけばいいなと思っている。(長谷川)

Q.アナキズムについてどう思うか?(学者)
外部から既存のルールを破壊するのではなく、あくまで日常のなかに身を置いて、約束事からちょっと外れてみることで「ルールのかたちを確かめていく」タイプが現代のアナキズム。
そこでは、少しルールからはみ出していくうちに、決められていると思っていた約束事に対する見方を更新できていくことはある。たとえば制服を着てみるけど、第一ボタンを外してみる、など。そのようにして、身に纏わりついているよくわからない「服」(約束事)を確認していく作業が大事になりそう。

・ここ(経堂アトリエ)には映画の撮影で初めて来た。今日は俳優としてここに来たわけではない。普段俳優をやっていると、俳優同士の話しと、それ以外の人(親や友達)と話す農密度全く違う。演技のことは俳優をやっている人にしかわからないと思っている節があった。「自分の思ってることを親しい人以外に話せる機会」というのはあんまりないと思う。撮影と撮影のあいだの期間何も交流がないというのは寂しいし、その間の期間にも関係が持てるのは大事だなと思う。(俳優)

・長く考えられる場所を維持するには、理念がしっかりしていることが必要。長く続けることだけが目的となってしまったり、理念が薄いと結果として長続きしない。(阿部)

・「テーブルが哲学をつくる」ということなのかなと考えた。哲学は大学の制度のなかでは明確な輪郭を持っているけど、その外に出てしまうと、何を哲学と呼ぶのか決まっていない。そんな無法地帯のなかでひとまずテーブルをキーワードとして、そこから哲学を作ろうとしてるのかなとトークを聞いていて思った。テーブルを囲みながら、ある人から見たら哲学だったものが、他の人から見たら劇かもしれないし、抽象絵画かもしれない。テーブルを囲むことで生まれてきているのは哲学だけじゃないかもしれない。また、本質を考えていくと「テーブル」よりも「座を組む」ことが実は大事なんじゃないかと思った。2人がやりたいことは、とりあえず「哲学」と「テーブル」から始めてみたけど、将来的にはどちらも無くなって、「活性化している場」だけがある未来なのかもしれない。(学者)

・哲学は、対話に必要な距離を作る。たとえば今日みたいに、全く知らない人がたくさん集まった場であんまり深い話しは普通しない。それを可能にするのが哲学だと思う。(学者)

・新しい哲学をつくろうとしていたり、公共を上書きしようとしてるわけでもない、既存の「約束事」や「公共」に対する2人の距離感が面白い。「カウンターかどうかもわからないアウトサイダー」という言葉が浮かんだ。(デザイナー)
→自分がどう思おうと、「公共」というものに自分も含まれている。今ある「公共」というものと、自分のあいだにある状況が気になる。完全にはみ出してしまったらその摩擦は失われる。自分の感覚としては摩擦を味わっていたい。摩擦の原因を探りたい。(阿部)

・新しいルールを設定したり、世界を作っていくという大きな話しよりは、これまで生きてきたなかで生じた「違和感」を確認していきたい。(長谷川)

他にも、ここに書ききれないさまざまな言葉が交わされた。コメントを列挙してみただけでも、内容が多岐に渡っていることが伺えるのではないかと思う。
現代では何かを始めれば、すぐに知名度やスケールや持続性の話題になる。しかし実感としてあるのは、すぐに拡大するものはすぐに収束するのではないかということ。人間の行為に時間をかけること自体が贅沢になりつつある社会のなかで、不確かな輪郭を不確かなまま維持していきながら、振り返ったときには確かに手触りのあるテーブルを作っていけるよう活動していきたいと考える時間となった。(文:長谷川祐輔)

イベントに関連する参考文献
・ハンナ・アレント『人間の条件』牧野雅彦訳、講談社、2023年
・ジャン゠フランソワ・リオタール『漂流の思想』今村仁司訳、国文社、1987年
・星野太「救済について」『文學界』2020年10月号
・ジャン・ウリ『コレクティフ』多賀茂訳、月曜社、2017年
・ミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク』山田登世子訳、ちくま学芸文庫、2021年
・松村圭一郎『くらしのアナキズム』ミシマ社、2021年
・ジェームズ・スコット『実践 日々のアナキズム──世界に抗う土着の秩序の作り方』清水展訳、2017年

哲学のテーブル:instagramアカウント



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