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プロジェクトの哲学──第1回「叩き台」

1年ほど前から、「プロジェクト」という言葉の使われ方に関心を持っている。これまでアートプロジェクト、共同制作、対話型イベントの企画などの形式を通して、「哲学の実践」の姿としてどのようなかたちが可能か考えてきた。そんな、哲学プラクティスの結び目にあるキーワードとして、「プロジェクト」があった。もちろん、哲学であれそれ以外の分野であれ、実践は固有な文脈や場所と紐づいていることが多いため、一概には言えない。キーワードとして発見した「プロジェクト」は、わたしの現在地としてそこに落ち着いているというだけである。

プロジェクトとは、仕事をする上で、複数のメンバーで作業を分担して行い、タスクをこなしていくことだと言える。
「プロジェクト」という言葉は、あらゆる分野で行われる共同作業に対して使われているように思うが、どちらかというと事務的なニュアンスが強い。
哲学者のボリス・グロイスは『アート・パワー』という著作の中で、プロジェクトが芸術制作における自律した形式にまで発展することになると指摘している。

プロジェクトに関連する仕事量は時とともに増えつづけている。さまざまな委員や委員会、関連組織に提出されるプロジェクトの資料は、潜在的な評価者に印象づけるために、ますます効果的にデザインされるようになり、より詳細な記述で表されるようになっている。結果として、プロジェクトを立てることが一つの自律的な芸術形式にまで発展することになるだろう。しかしながら、そのような芸術形式が私たちの社会にとって重要であるということは、いまだ適切に理解されていないのである。実現されるかどうかにかかわらず、プロジェクトはどれも、未来に関する独自の理想像を描いている。〔…〕しかし、プロジェクトの計画を私たちの文明社会が絶えず作りつづけても、その多くはふいになるか、あるいは却下されたのち捨て去られることがよくあるのだ。プロジェクトを立てるという芸術形式が軽率に取り扱われるのは、実に残念なことである。なぜなら、そのように扱うことで多くの場合、計画のなかに込められた未来への希望と理想を分析し理解することが妨げられてしまうからである。それに、これらの計画は、私たちの社会について何よりも多くのことを語ってくれる。(1)

プロジェクトを立てること自体がひとつの芸術形式になるというグロイスの予測は、現代でもほとんど実現していると言える。それは、助成金の獲得のための書類作成から、芸術祭やワークショップ、トークイベントなどが乱立している状況からもうかがえる。
哲学のテーブルでも、これまでアートプロジェクトや共同制作に関わってきたり、対話型イベントやトークイベントなども行っている。
プロジェクト形式の芸術制作では、一体何が作品なのかよくわからないことが多い。触知可能なプロダクトがある場合もあれば、集まることや対話などの行為そのものが作品とされることもある。
考えてみれば、プロジェクトは不思議な活動の形式ではないだろうか。一人ではこなせない作業を分担して、複数の人間で取り組むという意味では、人間の活動を拡張するスタイルでもあるということで、肯定的な活動スタイルと言える。しかし、たとえばメンバーが比較的自主的に行うアートプロジェクトや自主制作の映画などとは異なり、学校教育や企業でのプロジェクトは、見ず知らずの他者と共同作業を強いられることもある。この場合、望まない共同としてのプロジェクトは否定的なニュアンスを帯びる。
わたしが「プロジェクト」という言葉に関心を抱いたのは、以上のような人工的な制作環境に囲まれて忙しく動き回り、結局のところ一体何がそこで生み出されているのか、立ち止まって考えてみたくなったからだ。
「プロジェクト」についての概念的な研究が豊富にあるわけではないため、ここでの記述の多くは実際に関わった実践に由来する感触のもとに書き進めていく。
これから数回かけて、プロジェクトにおいてよく耳にするいくつかの作業/概念を取り上げ、この謎めいた人間の活動形式について一定の見通しを与えることを試みたい。第一回は「叩き台」について考えてみる。

(1)「叩き台」という隠喩

はじめに、「叩き台」という言葉について整理してみよう。
プロジェクトを進める、あるいは立ち上げる段階において必要なセクションがいくつかある。ジャンルやプロジェクトの規模感にもよるが、大まかに言えば全体の方向性、コンセプト、イベントや作品の内容、広報に必要な文章、スケジュールの設定など。
それぞれの段階で、いきなり完成形を導き出すことは難しく、まず初めに誰かが叩き台を作る。叩き台の語源を調べて見ると、鍛冶場で金属を焼く時に使う台のことを指すらしい。金属を叩いて焼くため、その金属を置く台のことを叩き台と呼ぶらしい。つまり叩き台とは隠喩である。隠喩の中でも、何かと置き換えられているわけではない隠喩である。同じ種類の隠喩としては、たとえば「椅子の足」がある。椅子の足は、足ではないが一体何を「足」と言い換えているのかと問われれば定かではない(たとえば車にはタイヤ、カメラには三脚という言葉がそれぞれ存在するが、椅子や机には無い)。プロジェクトにおける叩き台も、実際に何かの台ではない。アイデアを叩く=磨くための台という一つの隠喩でありながらも、一体何の置き換えなのかがわからない。叩き台とはそんな根源的な隠喩の一種でもあると言えるだろう。
敷衍してみると、プロジェクトにおける叩き台は、担当の人がそれを作成した後で、プロジェクトのメンバーからそれぞれ意見をもらい、最終形に仕上げていくものである。
叩き台を作った後は、必要な人に確認を取ってみんなで話し合ったり他の人が修正を加えたりして纏め上げていく。そして、そのうちなんとなく「これでいいかな」という境地が訪れる。
叩き台とは事務的なニュアンスが強い言葉だが、もう少し美的な言葉で言い換えれば「プロトタイプ」と言えるだろうか。

(2)「叩き台゠プロトタイプ」の身分

プロトタイプとは、ゲームやソフトウェアの開発モデルの試作品を指す言葉として使われる。より開いた言葉としては、「原型」、そこからさまざまなパターンが生まれていくきっかけとなる原初的な形のことである。哲学者のエリー・デューリングは論考「プロトタイプ──芸術作品の新たな身分」の中で、プロジェクト型の芸術が流行している環境において、作品やプロジェクトの他に「プロトタイプ」を一つの単位として提案している。この論考においてデューリングは、プロトタイプをさまざまな言葉で定義している。デューリングによればプロトタイプとは「オブジェとプロジェクトの間にまたがる形態、オブジェの論理とプロジェクトの論理を組み合わせる形態」であり、「実験的だが理念的なオブジェ」である。それは、完成して純粋に鑑賞されるだけのオブジェではなく、何らかの「経験というテストを受ける運命にあるオブジェ」(2)である。
プロトタイプとは、純粋なオブジェでもなく、プロジェクトという共同作業に還元されるものでもない。それは、オブジェ/プロジェクト、実験/理念のあわいを名指すための、新たな美的な身分なのである。
デューリングによれば、プロトタイプは「経験というテスト」を受ける運命にある。どういうことだろうか。少し具体的に考えてみよう。
たとえば一つのテーマに基づいて企画書を作ったら、実際に制作/行為を行ってみることになる。一回の制作/行為を完遂したら、得られた経験について反省しつつ、次にできること、やるべきことを考える。プロトタイプは、テストを繰り返すことを可能にするものであり、個人であれチームであれ、実行する主体が目指すところへ向かうための推進力になる。それは、実験のプロセスにおいて何らかのオブジェとして形を与えられることもあれば、理念として集団を支えているだけの時もある。プロトタイプとは、理論と実践という異なる次元にあるものを同時に体現するための手がかりとなる身分であると言えるだろう。
ここまでの記述を踏まえて、ふたたびプロトタイプを「叩き台」へと差し戻してみる。プロジェクトにおける原初のアイデアは、叩かれ続けることによって形を獲得していく金属のように、さまざまな実験のフローを通過することによって磨かれていく。磨かれていく中ではさまざまなイベントや作品、新たな人と人、人と場所の関係性が産み落とされるかもしれない。その生産プロセスにおいて、そもそも誰が叩き台を作ったのか、誰の意見がどのように反映されているかといったことは特定不可能になっていく。すなわち、叩き台/プロトタイプは、実験のプロセスを経る中で原初の姿ではなくなっていくことになる。それらは絶えずさまざまなテストに晒されることによって磨かれ、過去の痕跡を保持したまま未来のテストへと向かうことになるのである。

さて、集団での活動を行っていけば、さまざまなイベント、作品などが産み落とされると書いた。そこでは、度々外へ向けた周知の活動が必要になることがあり、そこでは言葉だけではなくビジュアルと合わせて対外的な宣伝行為を行っていく。そのビジュアルは簡単に作成されたものもあれば、デザイナーが時間をかけて制作したものもある。しかしそのビジュアルは、多くの場合イベントなどの開始前に役割が限定されているように思える。次回の記事では、丹精込めて作られたとしても世に晒される時間はそこまで長くないという不可思議なプロダクト「フライヤー」について考察していく。(文:長谷川祐輔)

(1)ボリス・グロイス「多重的な作者」『アート・パワー』所収、石田圭子他訳、現代企画室、2017年、162頁。
(2) エリー・デューリング「プロトタイプ──芸術作品の新たな身分(1)」武田宙也訳『現代思想』(2015年、1月号)所収、青土社、2015年、182-3頁。

この記事の内容と関連するイベントを行います。読んでいただき、ご関心を持っていただけたらぜひご参加くださると嬉しいです。
10月28日トークイベント:「実践することの輪郭を確かめる──哲学プラクティスとアートプロジェクト」





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