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心不全緩和ケアについて感じる危機感

心不全の緩和ケアは今はバブル的な盛り上がりを見せている。心不全関連の学会に行けば必ず緩和ケアのセッションがあるし、その会場は超満員になる。それだけ関心が高く喜ばしいことなのだが、同時に危機感も感じている。

緩和ケアには「やってあげた感」がある。その感じ方は人それぞれなので、自己満足で終わることだってある。「私は緩和ケアをやっています」とは言ったもの勝ちだ。緩和ケアの定義はもうすぐ変更されると言われているが、2002年のWHOが定めた定義によれば、QOLを改善するアプローチ、である。医療者の満足度のためだけに存在しているわけではない。

心不全の緩和医療に関連するシンポジウムや講演のときに感じるのが、最も意欲関心があるのは看護師であるこということだ。距離的にも時間的にも患者の苦しさともっとも向き合うからだろうか。「患者のために何とかしてあげたい」と感じる医療従事者ほどバーンアウトしやすい。そういった意味で、医療従事者のための緩和ケアも必要であることは補足しておく。

日本の心不全診療に緩和ケアは存在しなかった。というのも、治療を突き詰めることが症状緩和につながるため、治療を差し控える=症状の悪化・死への接近であるからだ。その公式は今でも変わらない。ただ、今の緩和ケアは症状をとることだけではない。

医学は進歩している。TAVIやMitraclipといった高性能・低侵襲手術が発展し、100歳でも心臓手術を受けることができるようになった。VADと呼ばれる補助人工心臓はほぼ自分の心臓が動いていなくても日常生活を可能にした。ただ、医学的適応があれば手術を受けるべきなのだろうか?100歳でも?認知症があっても?

「手術を受けるかどうか」の決定は家族の意向と医学適応が重要視される傾向にある。ただそれだけでは十分ではない。本来、自分の受ける医療は本人の価値観、人生観をもとに決定されるべきだからだ。

緩和ケアの要素は大きく分けて3つだ。症状緩和・コミュニケーション・社会資源の調整である。ここでいう意思決定支援はコミュニケーションにあたる。緩和ケア専門家は意思決定支援のプロである。これができない人間は緩和ケアの専門家を名乗ってはいけない。モルヒネなどの呼吸困難のケアをすることももちろん大事だが、学会や講演会では症状緩和にフォーカスされすぎているのではないか。

「心不全の緩和ケア」は言ったもの勝ちになっている。繰り返すが、心不全の緩和ケアについて関心が高まったことは大変喜ばしいことだ。我々次世代の医療者を担う者たちに課せられた役割は、このバブルを崩壊させず議論し、学術的に昇華させ、医療システムに組み込むことだと感じている。

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