「人を幸福にする集団のあり方」不登校の居場所の漠然とした構想

最近何か食べるとき、ずっと顎(正確には右耳の下、リンパの辺り)が痛むのだけれど、顎関節症かな。2週間ぐらい続いている。日頃の行いは悪い方ではないと思うので、自然と治ってくれないだろうか。


今月の12日に不登校新聞社主催の「不登校ラボ」という所のミーティングに、先週の19日と一昨日、不登校の自助会へと参加してきて、以前何処かで書いた不登校のコミュニティについての漠然とした構想が出てきたので、少しまとめてみる。

近代国家の魔法は、国民に選択肢を与えて、国民が自由意思で不幸を選ぶように仕向けるところに特徴があるのだが、仮にある人が、政府が与えた選択肢以外の可能性を選んでも、自由意思を認めている以上は、それが犯罪的でない限りは、政府としては文句を言えない。小さな対抗魔術集団は、政府が与えた以外の可能性を選ぶことによって成立する。アドラー心理学にかぎらず、さまざまの団体が、このようにして、反社会的ではないが非社会的な価値システムをもった小さなコミュニティを作る。こういうことができるのは、日本が近代国家だからだ。

https://adlerguild.sakura.ne.jp/diary/2014/09/30.html

「対抗魔術集団」というのは、恐らく野田先生が作り出した造語で「デカルトからベイトソンへ」辺りが出典だと思うが、文脈的には「社会模範(或いは道徳、或いは仮言命法)」への対抗集団と言う意味だと思う。「いい大学へ行って、いい所へ就職しなさい」だとか「お風呂には毎日入って着替えなさい」とか、まあこの例えはあからさま過ぎるが。因みに私は最長半年ぐらい入浴してなかったですね、多分。少なくとも3ヶ月は確実にしてなかった。

人を幸福にする集団は、原則としてまず非社会的である方がよい。社会の延長線上、常識という物語の上で不幸になっているのだから、コミュニティの中でも社会的なのでは意味がない。拝金主義で不幸になっているのに、現世利益だけを推奨する宗教に入っても幸福にはならないでしょう。教祖の懐だけが潤うコミュ―ンとかね。

不登校の自助会へと行くと、教師の悪口を言う人もいれば、主治医の精神科医の悪口をいう人もいれば、バイトをバックレたと言う人もいる。「人の悪口を言う」事や「バイトをバックレる」というのは「道徳(或いは社会模範)」的には咎められる行為であるのだが、ここでは人の悪口を言ったり、バイトをバックレた事を言うことが、その人とその周囲の人を幸福にしている。

世俗的な生き方は、不幸になる魔法が掛かっている。そこで、世俗的な生き方でない魔法を提供しなければならない場所が必要で、その代表的な例が宗教教団だ。

昭和54(1979)年に「イエスの方舟事件」という騒動が起こった。詳しくは各々で調べてほしいのだが、簡潔に説明すると、家族との折り合いが悪い人達が「イエスの方舟」という教団へ入っていって、その家族側が「子ども達がカルト宗教の教祖に騙されて誘拐された」などとマスコミ等に訴え、マスコミ側があることないこと騒ぎ立てたのだが、実際に警察が捜査してみると事件性はまったくなく、それどころかその子達にとっては、そこだけが居場所であるという事が分かっていったという話だ。

この事件について、野田先生がこういった感想を残していた。

「イエスの方舟事件」は、世の中がどんなに「幸福な対抗魔術集団」を憎んでいるかの、ひとつの証拠だ。イエスの方舟については、犯罪性も、みんなが期待した不道徳性も、ないということで、世間の関心は急速に冷めた。それは世間が彼らを許したという意味ではなくて、世間と違う生き方をして幸福であることは許せないので、忘れることにしたという意味だ。別に忘れてもらっていいので、その方が「イエスの方舟」の人たちも嬉しいだろう。対抗魔術集団は、世間に知れないでひっそりと生きていくのがいいのだ。だから、「アドラー心理学ブーム」にとまどっている。あまり目立つと困るんですよ。

近代国家でだけ対抗魔術集団は生き残れるかというと、そうでもない。昨日、鎌倉時代の遁世の話をした。鎌倉時代と室町時代は「隙間」がたくさんある社会だった。たとえば貴族の荘園だとか寺院や神社の領地だとかは、治外法権的だった。対抗魔術集団はそういうところに潜り込んで存在できた。江戸時代以後は、そういう「隙間」がなくなってしまって、国家権力の目と手が隅々まで届くようになった。そういう「逃げ場のない社会」では、個人が国や世間の提示する選択肢のどれでもないものを選ぶ自由を認めてもらわないと、中国のように、誰一人として幸福になれない社会ができてしまう。

いくつもの「イエスの方舟」がひっそりと暮らしていけるような、そういう社会が望ましいと、私は思っている。アドラー心理学コミュニティはそのうちのひとつだというのが、私の位置づけだ。「イエスの方舟」程度にはアヤしいかもしれないよ。

https://adlerguild.sakura.ne.jp/diary/2014/09/30.html

野田先生の言っていることが正しいかどうかは置いておくとして、「世間一般と違う生き方をして幸福でいると、世間一般で不幸な思いをしている人々から糾弾される」という言明は、肌感覚として、そうだと感じる人も多いと思う。生活保護関連のYahooニュースのコメント欄でも見てごらん。彼らは人間が幸福でいるのには、何らかの「義務」が必要だと考えているようですよ。

第一原則として、兎にも角にも「他人を裁かない」ことだ。そのことさえ学べば、人間は幸福に生きることができる。簡単なことなのだが、みんなやりたがらない。相手を裁いているかぎり、自分の人生の責任を自分でとらなくて済むからね。でも、自分の人生の責任を自分でとらなければ、その結果として、自分にとっても相手にとっても不幸な毎日がやってくる。

自分の人生の責任を自分でとれば、要は「いかなる悪もおこなわず、もっぱら善を完成し」て暮らせば、その結果として、自分にとっても相手にとっても幸福な毎日がやってくる。簡単なことだ。でもそれが「行うは難し」だという事は、皆様もご存知の通り。

対抗魔術集団は、イエスの方舟も、不登校の自助会も(ついでにアドラー心理学も)「一般社会は間違っていて自分たちは正しい」と考えているわけだが、「一般社会を自分たちが考える方向に矯正しよう」と考える《伝道的》なものと、「一般社会と距離をとってひっそりと自分たちの理想に生きよう」と考える《隠遁的》なものとに二分していいと思う。

伝道的な集団は、しばしば一般社会と摩擦を起こす。「一般社会は間違っていて自分たちは正しい」と外に向かって言うのだから、それは当たり前だ。一般社会側は怒るだろう。それでも、一般社会で不幸な人たちが集まってくるから、信者の数は増える。新規に加入した人たちは、一般社会にいたときよりは幸福になれる。しかし、ある程度以上スケールが大きくなると、幹部たちはいい暮らしをするかもしれないが、末端信者はただ奉仕させられるだけで、あまりメリットがなくなる。つまり、一般社会にいるのと同じ構造ができる。なんだか一部のLGBTの団体を思い起こすな。

どうしてこうなるのかだけれど、伝道的な集団は構えが競合的だからだ。スケールが小さい内は、その競合性は集団の外側にだけ向いていて、集団内部では協力的でおれるが、スケールが大きくなると集団内部でも競合的になる。だから、しばしば内紛や分裂を起こすし、階級分化ができて梯子を駆け上ったエリートと、取り残されたマス(大衆)とに分裂する。そうなると、マスにとっては、その集団にいる価値があまりなくなる。

魅力がなくなるとマスは離れていくものだが、もし教義に「罰」が含まれていると、マスは逃げ出すことができなくなる。たとえば、日蓮宗の系統の教団の多くが「仏罰」ということを言う。『法華経』に「法華経を誹謗するものは地獄に堕ちる」と書いてあるからなのだが、指導者が信者に向かって、「教団を抜けると、法華経を誹謗したことになるから、地獄に堕ちるぞ」と脅すと、信者は恐れて、メリットがなくても教団に留まらざるを得ないことになる。これと同じ構造がオウム真理教にもあったようだ。

それに、もしその教団自体の世間体が悪い状況なら、教団から出ること自体が罰のような状態にもなり得る。少なくとも、その集団に所属している間は幸福であることができる訳だ。フェミニスト連合会だろうが、LGBT連合会だろうが、無職連合会だろうが、○○の被害者の会だろうが、なんだろうがね(他意はないからね、ごめんね)。

ときどき、こういう種類の集団が社会全体を乗っ取ることがある。たとえばローマ時代のキリスト教がそうだったし、ソ連時代の共産党もそうだった。どちらも激しく布教伝道的で、非信者を口でも武器でも攻撃し、内部では激しい権力闘争があり、しかも一般信者を想像上の罰(たとえば堕地獄)あるいは現実的な罰(たとえば火あぶり)でもって脅した。

ソ連をブレジネフとコスイギンとボドゴルヌイが「トロイカ体制」で支配していた時代のジョークがある。コスイギンがブレジネフに「国民が自由に海外に渡航できるようにしませんか?」と提案したところ、ブレジネフは「そんなことをしたら、国内にいるのはわれわれ3人だけになってしまう」と言った。コスイギンは、「1人はあなただとわかりますが、残りの2人は誰ですか?」と尋ねた。つまり、一般国民にとってはソ連国民であることになんのメリットもなくなっていたわけだ。いやですねえ、こんな社会は。因みに詳しそうに書いているが、野田先生が書いていた事を写しただけなので全然詳しくない。

何が言いたいかというと、コミュニティというのは原則として、

  1. 競合的でない方がよい。つまり「伝道的」ではなくて「隠遁的」なあり方で、長くひっそりと続いていった方がよい。ついでに有名になりすぎない方がよい。

  2. 非社会である方がよい。「非」というのが重要で、「反」であると、社会との折り合いが悪くなる。構えが競合的だからだ。何が非で、何が反かの区別は、まあ外側へ向かって「強く」主張するか、内側だけでとどめておくかの違いかな。要は「隠遁的」な集団ね。だから例えば、内側でPTAの悪口をいうのは大歓迎。むしろそういう事を安心して言えるような集団でなければ、存在する意味がなくなる。

  3. 少数である方がよい。結局のところ、ある程度の規模以上になると、そこでも不幸になってしまう人間が必ず出てくる。鎌倉時代に「遁世」というのがあって、出家した人が、さらに遁世するというのだ。社会で幸福になれないので教団に入ったはいいが、教団でも幸福になれないので、そこからさらに逃げだして、ギリギリ端っこの方に居場所を定めて生きていたらしい。法然上人も、親鸞聖人も、道元禅師も、遁世僧だったらしいですよ。

と、いう感じだ。まあこんな大それたことをするつもりはないのだが、あくまで一つの前提としてね。


で、ここからが具体的な問題なのだが、どういう場所がいいかな、と考えていた時に、パッと浮かんできたのは、カフェだった。

私の通わせていただいている自助会は、ひとつは行政、もうひとつは個人が行っていて、個人のほうで行っている方の本業は、パン屋さんだ。しかもしっかりとした(例えばファミレスのような)所ではなくて、ご自身が住まわれている家の一部を改装して、一日3時間ほど営業しているこじんまりしたパン屋さんだ。そして不登校の自助会も、そのパン屋さんの(つまりご実家の)二階で行われている。

一昨日にそのパン屋さんの自助会へと足を運んだ時、中学2年の子が一人来ていた。話し合いには参加せず、ひとり奥の方で本を読んでいるのだが、偶にチラチラとこちらを見てくる。SSWさんから話を聞くと、小学校2年生の頃から不登校だったらしい。私とその子も含めて、不登校当事者は全部で5人来ていたが、不登校歴が一番長いのはその子だった。ああいう場所は理想だなと思う。

名越先生がある時、こんな事を話していた「ある一人の引きこもりの子が居て、教師が家庭訪問へ来る事になった。その子は二階の部屋から、下で自分の親と教師が何を話しているのか気にしている。さて、この子の心は外側へ向かって開いているか、閉じているか」

私は、開いていると思う。似たような事は何度も経験してきたが、根底には「助かりたい」という心の動きがあって、出会う人間全員に「この人はどうか信頼できる人であってくれ」という無意識的な祈りが込められている。観察は、それを見極める第一の行動だと思う。あの中学2年生の子もきっとそうなんじゃないかなと妄想している。


東京に「隣町珈琲」という喫茶店があるのだが、そこはレンタルスペースと称して店を貸し出していて、養老孟司先生や内田樹先生が講演に来たり、落語家が来たり浪曲師が来たり、或いはバンドがライブをやったり、アーティストが個展や展示会を開いたりと、多種多様な事がその場所で起こっている。

こういう場所が、不登校の子ども達の憩いの場になれたらどんなにいいだろうかと夢想してしまった。普段は閉店した後の夜、或いは、保護者の方々が行きやすいよう土日にでも自助会を行う。パンケーキとカフェラテか何かを用意して。黙って聞いているだけでもいいし、二階かどこかの人目に付かないところで本を読んだりスマホを弄ったりしていてもいい。下で会話している声が聞こえてくるから、もし気になったら誰がどういう人なのか安心して「観察」ができるはずだ。

自助会に慣れてきた子は平日開店している時にもやってきて、お客さんのような知らない人に慣れたり、ライブや講演に来たいという子には、特別価格か無償で案内する。なんなら憧れの人が居るようなら、その人を呼べないか模索してみる。個人で経営しているから、食い扶持が無いようなら、いくらでも食事を提供する事ができる。経営が軌道に乗っていれば、いくらか金銭面での補助もできるはずだ。バイトとして雇うこともできる。コミュニティの維持が基本だから、野田先生みたいに、講演やら執筆やら相談業務やらと、掛け持ちで忙しくなりそうですね。でも「カウンセリング」という枠組みでやらずに済むから、ぐっと自由に動けるようになる。いや~、いいな。

それと映画の上映会のような事も行いたい。子ども達からのリクエストも受け付けて、みんなで揃ってそれを見る。「同じ場所で体験を共有する」という事が物凄く大事なんだ。掲示板か何かを作って、そこに一言コメントでもいいので感想を書いてもらう。もちろん書かなくてもいい。野田先生が「他人の耳を借りる」という事を言っていたが、面白そうな感想を書いた子や、自分と同じような感想を書いていると感じた子は、そこから関係性が深まる事があるかもしれない。

様々な人と出会う事で子ども達に新たな目標や夢が見つかるかもしれないし、何より講演で呼ぶ人や、ライブで来る人のお陰で、社会的な部分との繋がりを保ったままでいられる。これが重要なんだ。その子が苦しんでいる既存の枠組みを壊した後、新たな枠組みがその子の中で育まれる可能性がある。ペルソナ5のように、たまり場として使ってくれてもいいしね。


経営者の孫だからか、億越えの借金を抱えて香港まで麻雀をしに行くような人の息子だからなのか、借金を抱えることにそこまで抵抗がない。元より生まれた時からそういう生活だったし、何よりこの世で稼いだものは、この世に居る間に使ってしまった方がいいと思う。いつ死ぬのかも分からないのだしね。問題はそんなにお金を貸してくれるほどの社会的な信用がないところなのだが。

親のケアと子どものケア、親同士の繋がりと子ども同士の繋がり、子ども達と社会との繋がり、そのちょうどいいバランスを、この方法なら取れるような気がする。人付き合いが難しい人も働けるような、最初の成功体験となるような、心に悩みを抱えている人も、そうでない人も集まれるような、そんなカフェ。

「夢はカウンセラー」と書いているが、あれは職業の話であって、私の理想の生き方は観念的に言うと、坂口恭平さんと、成田悠輔くんと、野田俊作先生と、名越康文先生を、足して2で割ったような人間だったりする。絶対伝わらないだろうが。

なんだか少しワクワクしている。この夢想を現実の物にしたいという気持ちが湧いてきた。現実的かどうかは置いておいて、悪くない構想なんじゃないかな。