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「くたばれ讀賣」が変わりゆく現在の野球のあり方へのアンチテーゼだったとしたら

近年、阪神タイガースファンによる突撃4発の「くたばれ○○そーれいけいけ!」や、ヤクルト神宮の東京音頭、巨人ファン以外のセ・リーグファンによる商魂込めてなど、「くたばれ讀賣」がスタンドで響く。球団から控えるように注意喚起が促されているが、コールは未だに続いているという状況で止む気配はないという問題がある。
そこで、このコールを下品な一部の輩による物として片づけず、考えてみる(まあ暇つぶしなので気楽に)。


「くたばれ讀賣」は変わりゆく現在の野球のあり方へのアンチテーゼなのではないか。

こいつは、何を言っているのだろうかと思われるかもしれない。先に断っておくが、私は野球観戦におけるこのコールを肯定する気は決してない。ましてや、叫ぶ彼らを擁護や称揚するつもりなんて更々ない。

当然、下品な応援でほめられたものではないのは間違いないとは思うが、『「くたばれ讀賣」は変わりゆく現在の日本野球のあり方へのアンチテーゼなのではないか。』という可笑しな仮説を立てて展開していく。

そもそも、この仮説は別に正しくもない出鱈目であろう。その出鱈目に真面目にもっともらしい肉付けをしていく暇つぶしくらいに捉えていただきたい。

かみ砕いていく

まずは仮説をかみ砕く。なんでも、日本の野球はアメリカの真似である。
例を挙げていくと、申告敬遠であったり、リクエストであったり、あとは試合の時間を短縮しようとしたりする流れである。

つまり、その日本の野球の姿勢に対して、いささかよく思わないファンの叫びが、くたばれコールなのではないかということである。

申告敬遠、リクエスト制度、試合時間時短

この流れによって、失われたものがある。

敬遠の4球を投じる間のネクストバッターズサークルでの闘志あふれる素振り、亦はそのさなか敬遠球を打とうとする曲者。

審判の判定に納得がいかずヘルメットを投げつける選手、猛烈な抗議をする監督。
かなわず退場することも。その後の起用に頭を抱える首脳陣。

例えば思い出すと、きりがない。阪神の試合に限っても、ブラゼルの退場で投手の西村選手がライトレフトの守備についた事、もっと遡ると対中日で岡田監督が選手全員ベンチに引き上げた試合、その他色々
(ちなみに当時は突撃4発にのせてくたばれ讀賣と合唱はされていなかった 以下ポスト参照)


血の気を感じる場面が減っている。

かつてはよく見た乱闘もほとんどなくなった。


くたばれコールは

フィールドで見れることが少なくなっていく血の気に対して代わりにファンがそれ以上の血の気で補おうとした叫び声、或いは、時間短縮に勤しむ忙しなく変わりゆく野球に対して懐疑的姿勢からの叫び声であるのかもしれない。





知らんけど笑

終わりに

何度も言うが、この仮説を立て書き進めたのは暇つぶし以外の何物でもない。

現在の野球のあり方へのアンチテーゼ。その様なことを考えずに、ただ大声を出したくて「くたばれ」と叫んでる人が大半だろう。然し違うかもしれない。その為、注意喚起が意味を成してないのかもしれない。そのようなところから、下品という一言で片づけずに考える事をしてみた訳である。だいぶ無理があったかもしれない。

勿論、考えを肉付けしていく中で記載した血の気という表現は、今の選手たちを批判する意図や、今の野球を批判する意図もない。選手たちはいつも闘志を燃やして戦っているのは間違いない(乱闘なんてなくても、審判に詰め寄らなくてもプレーから伝わる)。
亦、リクエストによって選手の記録が守られるのは良いことだと思う。
あくまでも出鱈目な仮説に整合性を持たせるための無理やりの頑張りである。

端から肯定するつもりはないといったが、「くたばれ讀賣」はスポーツマンシップを尊重する立場から見ると、不適切な表現であると言える。野球に限らずスポーツは、選手やファンが助け合い、競技を通じて良い刺激を与えることが求められるべきである。そして多様性や相互理解に重きを置く現代社会においては、一つのチームに固執した姿勢で過剰な敵対心を掻き立てることは避け、クリーンな観戦が求められる。そのような今日には、「くたばれ讀賣」は相応しくないといえる応援であろう。

とはいえ、あまりにも聞き心地の悪い応援はよくないが、クリーンな観戦にも線引きが不可欠だ。「○○倒せ!」や「あと1人」コールや「お前」という歌詞(いつかの中日)などまで過度に規制するようになり始めると話は別かもしれない。

線引きは人それぞれ変わってくるが(くたばれ位はいいじゃないかと思うけど商魂込めては聞き苦しいよなとか、いやいやくたばれどころか○○倒せ!とかも聞き苦しいよとか、人それぞれ)節度が大事なことには変わりはない。

またルール改正も、いい面悪い面を兼ね備えている。然しピッチクロックや牽制球に関しての新ルールも導入されるならば、それは如何なものかとは思う。
要は過度になるのは良くない。

何事も、節度であり、過度になるのは好ましくないとは私は思う。
 


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