断面

小説『オスカルな女たち』6

第2章 『 核 心 』・・・2


   《 子宮フェチ 》

「今日も泊まり?」
そう織瀬(おりせ)に問われ、いつもの癖でタクシーを止めようとしてはたと気づいた。
「あ…今日は操(みさお)先生がいるんだった」
操先生とは、真実(まこと)の実母の名だ。真実が家業を継ぐようになってからはお互い、職場の規律を正すため「真実先生」「操先生」と、お互いそう呼応することにしていた。
思い出して手を下ろすものの、いつもは容易に捕まらないはずのタクシーがスルリと目の前に現れてくれる。
「…送ってく」
その言葉に重なるようにして後部座席のドアが開いた。
ついでだし…と誰にともなく言い訳する真実を横目に、クスクスと笑みを浮かべる織瀬。
「だったらさ、このままうちに泊まらない? 今日、幸(ゆき)いないんだ」
意外な提案だった。
「でも…」
タクシーに乗り込みながら、気持ちが乗り切らない真実。
「ちょきを連れてねぇ、親戚の法事」
「なんでちょき?」
「その親戚の家がブリーダーなのよ。お見合いさせるとかって言ってた…」
「ちょきが見合い?」
「きっとそっちがメインだと思う。…こんな日はめったにないから、ね?」
確かに、織瀬がひとりになることは珍しい。
「いいじゃない。…兎追(とおい)町、4丁目ね」
「まあ、明日は早番だから、その方が都合いいけど…」
だが…。
〈子宮フェチ〉
言われた後で誘われたことに、妙な罪悪感を覚える。もちろん、それについて後ろめたさがあるわけではない。ただ少なからず心が騒ぐだけだ。

その日は、玲(あきら)の家からの帰りだった。ずっと先延ばしにされていた玲の出産祝いパーティー。とはいえ、4人で集まり雑談するだけだったが、なにかきっかけがあればそんな機会を設けるのが今一番の楽しみとも言える。

「…すごいね、この3段おむつケーキ。さすがおりちゃん、ウェディングケーキみたい」
ダイニングテーブルに乗せられた「おむつケーキ」を隅々まで覗き込んで感心するつかさ。ついと、日当たりのいい窓辺の前に置かれたベビーベッドの脇で、赤ん坊を抱いて体を揺らす織瀬に目を移す。
「そんなに難しくないよー。最近では動画とか出てるしね」
織瀬は胸に抱く赤ん坊に視線を落としたまま答える。腕を揺らす手は意外にも慣れたものだ。
「でもまず、やろうと思わないよね」
リビングのソファにどっかと座り込み、自分の皿にだけケーキをふたつ並べる真実。
「マコはね…」
ふふふ…といたずらに笑う玲はテーブルに砂糖とミルクをセッティングする。
「ねぇ、名前は?」
半年を過ぎ、しっかりと首の据わった赤ちゃんを胸に抱きながら羨ましげに問う織瀬。子どもの名前を訊くのは、一番わくわくする瞬間かもしれない。
「カイトよ。介添人の介に人って書いて『介人』…まぁ、人にはさまれるって意味だけど、うちももう5人目だから、いい緩衝材になってくれたらって意味でね…。もちろん、それだけじゃないけれど」
自慢のミルでコーヒーを挽きながら、玲は子どもの名前の意味について話す。
「へぇ…。学人(まなと)に育人(いくと)に介人くんか」
上の男の子の名前を順に唱えながら、腕の中の赤ちゃんに視線を戻す。
「か~いちゃん…」
「学んで、育んで、緩衝材? 5人目ともなると、安易だな」
幼なじみの真実は歯に衣着せない。
「まーた、マコちゃんはそんな言いかたして…それだけじゃないって言ってるじゃない」
「はいはい…」
綺麗に並べられたケーキから目を離さずにソファに背を預ける真実。
「…上のおねぇちゃんたちはなんて名だっけ?」
コーヒーをテーブルに運びながら、つかさが問う。
「上が羽子(わこ)で下は莉子(りこ)。一回りも違うのに女の子は喧嘩が絶えなくて」
困ったものだわ…と、思い出したのか「うんざり」と玲は眉根を寄せる。
「一回り? そんなに違うっけ…羽子はもう、いくつよ?」
「17よ」
手づかみでケーキにかぶりつかんとする真実に、制しながらスッとフォークを差し出す玲。
「青春真っ盛りっていうの? 来年受験だけど、なに考えてるんだか…」
言いながらテーブルを挟んで反対側のソファに腰掛ける。
「あぁ、いやな時期ね」
いやな時期…17歳と言えば世間一般には花も羨む女子高生だが、わが身に寄せて考えれば、そんなに羨める頃ではないことがすぐさま頭を過っていく。そんなことに思考をめぐらせながらつかさは、織瀬用の空のカップをテーブルに置いて玲と向かい合わせにソファに座った。
「で? その青春真っ盛りは別として、ボクちゃんたちは? 今日はどうしたのよ?」
仰け反り、ドアの奥の部屋を覗くような仕草をする。
「主人と出掛けたわ…。邪魔されたくなかったしね。こんなテーブル見たら大騒ぎよ」
言いながら玲は、ケーキやお菓子の乗ったテーブルに目を走らせる。
「確かにねぇ…」
まるで誰かに取られるんじゃないかというような仕草で、自分のケーキ皿を持ち上げる真実。
「その点、美古都(みこと)は大人よねえ」
言いながらL字の右手に座る玲が、残りのケーキ皿にフォークを添えていく。もちろんケーキは皆皿にひとつずつだ。
「マコちゃんちの娘?」
興味深くふたりの顔を交互に見遣るつかさ。
「うち? うちは来年中学だけど。最近生理が始まったもんだから、いっちょまえにイライラもんで…」
手を焼いてるよ…と、ひと口目のケーキを口に運ぶ。
「へぇ…もうそんな歳になるのね」
弟ばかりのつかさには、そういう苦労が解らない。
「羽子は遊び呆けてる。最近じゃ帰ってこない日もあるわ」
「やだ、お年頃…」
口に手を当て、肩をすくめるつかさ。
「気をつけなよ、もう子ども産める歳なんだから…」
産婦人科医ならではの見解か、言いながら真実のケーキの皿は、あっという間に他の皿と同じ景色になっていく。
「あ~出た、マコの子宮愛玩主義」
「はあ?」
「子宮愛玩~?」
織瀬が介人をベビーベッドに寝かせながら呼応する。
「へんな言い方すんな、玲。織瀬も、そんなところに反応しない!」
「だってそうじゃな~い。マコは男嫌いだから、子宮専門医になったんじゃない」
「男嫌いは余計だ」
なまじ的は外れていないだけに、生々しい表現。真実が一番嫌がる展開だ。
「産婦人科医だっちゅーの! それに、家業だし…!」 
そこは限りなく「仕方なく」と言いたいらしい。
「子宮専門医って、すごい。言いえて妙だわね」
「つかさ!」
「そうよ、妙よ~。マコは子宮フェチなの。看護師にまで色目使われて…」
「いい加減にしろ、あきら!」
真実のその声に織瀬が寝かしつけた介人が泣き出す。
「きゃー真実、なにやってんのよ」
慌てて抱きかかえる織瀬。
「…悪い。…玲が調子に乗るから」
めずらしく槍玉に挙げられた真実はしゅんとする。
「子宮フェチって、フェミニストってことでしょう…?」
そんなに目くじら立てなくても…と、微笑みながらフォローするつかさ。
「そうだね…専門医には変わりないもの、子宮フェチ…」
織瀬が介人のおしりをポンポンとあやしながら続ける、語尾が悪戯っぽく聞こえるのは気のせいではなさそうだ。
「でも、看護師に色目使われてるって…真実は相変わらず女子にもモテモテね~」
高校時代の真実はソフトボール部で活躍しており、当時から男勝りで髪もスポーツ刈り、まさに宝塚の男役さながらに後輩からのラブレターも数知れなかった。
「あの頃の真実、ホントかっこよかったもんね」
今ではすっかり女性らしく(?)天然パーマの髪をひとつにまとめている真実を、ニヤリと目を細めて見遣る織瀬。
「おーりーせ…。勘弁して。あの子は悪ふざけが過ぎるんだって」
「でも本気でマコのこと好きみたいよ~。この前の検診のときだって、いかにマコが『すばらしい女医か』って切々と語って聞かされたもの…。まるで私に警戒心抱いてるみたいにね。…なんていった? ああ…楓ちゃん」
玲はわざと含んだ言い方をする。
「あの子はね…。そう、楓ちゃん」
鳴り止まない声に観念した真実は、頭を抱えてため息をついた。
「楓は…幼稚舎からずっとミッション系のお嬢様学校で、その上看護に進んだもんだから…。少々、そういうふうに見えがちなの! 逆に言えば、なるべくして婦人科の看護師になったって感じなんだけどさ」
「天職ってわけね」
「おかげで評判はいいんだけどね。ただ…」
思い出してため息をつく真実に、
「あっち系なんだ…」
「つ、か、さぁ!」
答える代わりにギロリと眼光鋭く制する。
「要はね、バッテリーなわけよね。ピッチャーとキャッチャーみたいな」
玲が援護射撃する。
「ああ。産婦人科ならではの夫婦ってわけね」
「つかさぁ…」
「ああ。ごめん、ごめん」
そんな3人のやり取りを見ながら笑いをこらえている織瀬。
「あたしたち、高校時代でもこうだったかな?」
もっと前から知り合っていたら…と、まったく接点のなかった高校時代を振り返る織瀬。ある一定の時期を過ぎると、年齢も世代も越えて共通の話ができるようになる…大人になるとは実に不思議なものだ。
「それはないわね」
いの一番に玲が答える。だがその点は間違いない、と誰もが納得するところではある。
「そりゃそうだろうよ」
玲は…と失笑する真実は、手元のコーヒーカップを水でも飲むかのように喉に流し込んでいく。
「女子高生は非情?」
いつもの玲の口癖をなぞるつかさ。
「そうそう。…そういや、あの取り巻き連中、今でも会ってんの?」
話題を変えようと必死の真実だが、4人が集まると結局最後は玲の取り巻きの話題に向いた。もともと接点があったわけでもない4人の話題はそれしかないとも言えるが、それだけ当時の玲は威光を放っていたということだろう。
「まさか。だって友達じゃないもの。…そういえば、同窓会でも見掛けないわねぇ…あのお嬢様方」
友達じゃない、という部分を強調し、言いながら耳の脇で髪をくるくると指先で巻く仕草をしてみせる。そうかと思うとすぐにため息をついて、
「でも…『巻き毛のオスカル』の明日香さん、今じゃすっかり聖(ひじり)お兄様の料亭で若女将気取ってるわ…」
言い捨てて立ち上がり、織瀬の方に向かいながら腕を差し出す。
「え? 西園寺さん? とうとう入り込んだの…っと、失礼」
慌てて肩をすくめる織瀬。そうっと、介人を玲に抱かせる。
「いいのよ。…どうりであの頃からうちに通い詰めていたわけよね、用もないのに。すっかり騙されたわ。ま、どうでもいいけれど」
言いながら「座って」と織瀬を促す。
そんな玲を誰も追及できないが、相変わらず実家とは疎遠になっているらしい。
「え? お義姉さまってこと?」
驚くつかさに、玲は黙ってまばたきだけでにっこりと答えた。
「ちゃんと用があったわけだ」
言いながら織瀬は真実を挟んで、つかさと反対側の位置に腰掛ける。
「…『快進(回診)のオスカル』さまは、大学病院で一緒だったわ…。あそこんち、でっかい病院じゃん? てっきりどこぞの病院の三男坊でも婿養子にとるのかと思ってたけど…選り好みしてるのかね」
真実がすばやく話題をすり替える。
「ああ…如月病院の。彼女、お母様を事故で亡くしてから変わったわね…人を当てに出来なくなったのね、きっと」
「そういうものなの…?」
やっぱり、と言いかけて口を閉ざすつかさは織瀬用にふせてあったコーヒーカップを持って立ち上がる。
「…背負ってるものが大きいと、失くした時のショックも大きいわ」
誰にともなく答える玲。
「そんなに暗くもなかったけど? 相変わらず男付き合い派手だったし」
言いながらふたつ目のケーキを口に放り込んでいく真実。
「男付き合いって言えば…。知ってた? 彼女がなんでマコの試合に足しげく通っていたのか…」
思い出したように、真実に向き直る玲。
「全~然っ。いたことも知らない」
当事者の真実はまったく興味を示さないが、つかさと織瀬には当時の人気ぶりに思うところがあるのか、顔を見合わせながらわずかに身を乗り出す。
「あの子、マコを目当てに通ってた他校の男子生徒に夢中だったのよぉ…なんて言ったかしらね…? 青い学ランの高校だったと思うわ…」
えー!
そんな話とは思いもよらなかった真実は、自分に集中するつかさと織瀬の視線を浴びて大げさに肩をすぼめる。
「青い学ランて…隣駅の男子校ね!」
つかさが織瀬のコーヒーを手にソファに戻る。
「…う、そだぁ」
「ホントよぉ…。あの頃、試合のたびにカレーもって来る子いたじゃない」
「カレー?」
コーヒーを受け取る織瀬と、つかさの言葉が重なる。
「あの当時から、マコはカレーが好きでね。甲斐甲斐しく有名レストランのカレーを差し入れてくれてた男の子がいたのよ~」
「あいつは玲の取り巻きだろ…」
どうやら思い当たる節があるようだ。
「だって私、カレー好きじゃないもの」
「確かに真実、バイキングのたびにカレーせっせと食べてるね」
コーヒーを口に運びながら、納得するように織瀬が言う。
「カレーは一番手っ取り早く腹が膨れるの。だからって…」
「私の取り巻きだったとしても、あれは明らかにマコ狙いだったのよ! マコがその様子じゃ、なにも言えなかったのねぇ彼…」
当時を思い出すようにして身体を揺する玲。腕の中の介人は、すっかり夢の中のようだ。
「あら、かわいい話…。その明らかにマコちゃん狙いの彼を、如月さんは狙ってたのね」
「三角関係だね…」
いいながらケーキ皿を持ち上げる織瀬。
「三角関係って言うより、それは一方通行だよね。彼はマコちゃん目当てで、その彼を如月さんが…って、永遠に交わることのない」
「やだ、悲しいリレーみたい。永遠にバトンが渡らないのね」
介人をベビーベッドにそっと寝かせながら、その寝顔に語りかける。
「玲! つかさも。…いい加減にしなよ、あんたたち」
最後のケーキを食べきり、フォークを皿に放る真実。「やってられない」とばかりに腕を組んでソファに重く背を預ける。
「ごめん、ごめん」
「当事者のマコが知らないって一番ウケるわ。でも、少なからずその、…インターン時代? 敵視してたと思うわよ、マコのこと」
「あ~、き~、ら、…もう、どうでもいいよ」
ソファに戻る玲を睨みつける。
どうにも今日は真実に分が悪く会話が流れていくようだ。
そんなやり取りに、ふふふ…と笑い、
「あの女優の彼女も、よく試合に行ってたね」
と、織瀬が続けた。
「女優? ああ…弥生すみれだっけ? 『観劇のオスカル』、の…花村さん」
ケーキをすくおうとしたつかさのフォークが空を切る。
「最近じゃ、もっぱら犯人役だな…個性派女優っての?」
「あの頃からしたたかだったわ彼女…マスコミがいるところには必ずいたものよ。ま…それくらいじゃないと女優もやっていけないってことなのかしら」
ケーキ皿を持ち上げる玲は、「まだあるわよ、ケーキ」と真実に目配せする。
「織瀬も、よく知ってるじゃない? もしかしてマコの追っかけしてた?」
意味ありげに織瀬に目配せし、言いながらケーキの入った箱を引き寄せチラリ…と流れるように真実に眼を移す玲。それを受け真実は「ちっ」と顔をしかめ制するも、しっかりとケーキを箱から掬い上げて自分の皿に盛る。
「友達がね…真実の熱烈なファンだったの、コーラス部の子。第1音楽室からよく見えるじゃない?…真実のいたグラウンドがさ」
ね、と織瀬は真実にあいづちを求め、思い出したように玲に目を移す。
「あ。第1音楽室といえば、さ。こないだ木崎さんも来てたね。『旋律のオスカル』、ずっとピアノ弾いてた。誰とも話さずにただひたすら…。相変わらずだったねぇ彼女も」
「彼女は招待だからよ。ちょうどツアーで日本に戻っていたから、客寄せのために呼ばれたようなものね。最近同窓会に来る人も少ないから…」
「ああ。あのピアニスト? 万年2位のコンクールの常連。ホントなら玲があそこに座ってたかもしれないのに」
英才教育の賜物か、真実の言うように玲のピアノの実力はそれなりのものだったらしい。
「いやよ。ピアノなんて退屈。やりたい人がやればいいわ」
そういって玲は冷めたコーヒーを飲み干し、新しいコーヒーを淹れるために立ち上がる。
「前から言ってるね、それ」
つかさがそんな玲を目で追う。
「やりたくてもやれない人もいるっつーの、ピアニストだよ? 腐っても」
「腐りたくないわね」
玲自身「譲った」とまでは言わないが、『旋律のオスカル』と呼ばれていた同級生の〈木崎まのあ〉は、玲が辞退したコンクールで留学の切符を手にし、ピアニストにまでのし上がったのだ。
「婚期逃したみたいだし…?」
しかし、当時の婚約者と噂されていた音大の講師とはうまく行かなかったようだ。
「そうか。まだひとりなんだ。…なにが幸せかわからないわね」
チラリと、ベビーベッドの方に目を流すつかさ。
「あら、幸せかどうかは別よ」
言いながらソファに戻る玲に、少なからず衝撃を受ける3人。
しあわせじゃないの?
その言葉に即座に反応した織瀬とつかさの言葉がかぶり、
「こんなマンションに住んでても?」
と、初めて訪問したつかさを驚かせた。
「あら、しあわせよ、それなりに…。そんなに驚くこと? 人の幸せなんて、他人から見て判断するものじゃないでしょう? それぞれ感じ方だって違うだろうし、他人から見て幸せそうだったとしても、それが本人にとっての幸せかどうかなんて本人にしかわからないわ」
新しいコーヒーをテーブルに置き、3人を見遣る玲。
「そりゃそうだ。なにが幸せかなんて、わざわざ言うことでもないしな」
言いながらコーヒーのおかわり、とカップを差し出す真実。それを受け取って玲は再び立ち上がり、
「事実、私から見れば…マコも織瀬もつかさも、自分より幸せそうに見えるわよ。誰でもそういうものじゃないの? 隣の他人が羨ましい。ないものねだりなのよ」
ダイニングテーブルでミルを挽く。
「ないものねだり…か」
一瞬、沈黙が流れた。確かに、玲の言葉には一理ある。だが、それぞれに思うところあっての沈黙。
「でも、赤ちゃんができるくらいだから、旦那様には愛されてるのよね…」
ケーキを口に運びながら、ポツリと織瀬が呟き、
「そうよね…」
と、コーヒーを飲み干すつかさが続いた。それはふたり、何気なく発した言葉ではあったが、なんとなく連携しているようにも聞こえた。
「あら、なぁに?」
それを受け玲は、つかさのカップを受け取りながら大きな瞳をさらに見開いて答えた。
「あなたたちのしあわせの定義は夜の営みなの?」
そう、言われた途端にハッとする。
「そう、言うわけじゃ、ないけど…」
と、つかさが口ごもり、
「でも、なければ子どもは出来ないじゃない…?」
と、遠慮がちだがストレートに答える織瀬。
織瀬にとっては、その行為よりも「子ども」を欲するがゆえの言葉だったが、玲にはそうとは伝わらなかったようだ。
「うちの主人、まもなく50よ? そんなにあるわけないじゃない。月に2、3度あるかないか…え? 子どもができないのは、作らないわけ…じゃ、あ、…なかった…?」
コーヒーメーカーをセットし「どうなってるの?」…と、ソファのふたりの顔を見据える玲。
「作らないわけじゃ、ない、みたい、ね…」
その場の苦い空気を飲み込み、コーヒーの落ちる音だけが響いた。
「まるで戸棚の骸骨だな…地雷踏んじゃったよ」
ははは…と、バツイチの真実は「自分は関係ない」とばかりに笑い飛ばす。
「やだ…どうなってるの?」
話を噛み砕けない玲は、カップにコーヒーを注ぎながら織瀬とつかさの回答を待つ。
「ま、いろいろあるわな…コーヒーまだ?」
言いながら真実の皿から3つ目のケーキが消費されていく。
「てっきり、円満なんだと思ってた、わ…」
「円満よ、うちは。あ…」
うちは…と言ってしまって後悔する織瀬。だが、
「…ただ、夜がないだけ。だから子どもも望んでも出来ない、んじゃない…」
と、静かに続けた。
言ってみたところで、言い訳をしている様で気がそがれる織瀬。だが、そうか、「作らない」と思われていたのか…と、他人の見解なんてそういうものなのかと落胆する。事情を知らなければそういうことなのだ。
「夜がないって…織瀬、まったくないわけじゃないでしょ?」
「ないわよ…」
開き直って答える。
「…セックスレス、ってわけ?」
「…そうね、そういうことになる、わね」
言ってしまって大きく息を吐く。
言ってしまうと言葉的には大したことじゃないように聞こえるが、知らされた側にしてみれば簡単に流せる話題ではなかった。
「いつから?」
コーヒーを淹れて戻る玲。
「ん。…最初からよ、結婚生活が始まってから…。よくよく考えるとね、付き合ってたころの方が、まだ…」
諦めて口を開くも、言いながら声が小さくなっていく。いくら親しいとはいえ、プライベートな、ましてや夫婦生活の話などこんなところで話題に上るとは思ってもみないことだった。
「え、まったく?」
玲は、そこまで聞いても信じがたい様子だった。
「なんなの、それ。うちがおかしいの? いいえ、今いくつよ。うちの主人で言うと…10年前くらい? 3日と空かなかったわよ、こっちがうんざりするほど」
え? え?…と、未だ合点のいかない玲だったが、
「…まぁいいわ。…つかさは?」
と、それまで話題にならなかった織瀬とつかさのプライベートが明るみに出た途端、玲の目は輝き、矢継ぎ早にまくし立てた。
「離婚協議中…」
膝の上で頬杖をつきながら勢いで答えるつかさ。
初めて聞かされる玲と真実は、その言葉に大きく目を見開いた。
「そうなの? マコ、あなた知ってた?」
「いや。織瀬のとこはなんとなく。だけど、つかさのとこは初耳」
「うちはもう、こうして4人で会うようになった頃には別居が始まってた、と思う」
「それって、最初の同窓会の時? もう10年近くになるじゃない」
初めて再会した100周年記念の同窓会を差して答える玲。
「そう…だね」
一瞬考える仕草をし、意外にもあっさりと答えるつかさだったが、淹れたてのコーヒーカップを取り落としそうになるあたり、やはり心中穏やかではないらしい。
「…へぇ…そう。わからないものね、ひとの人生なんて…」
「変な話になっちゃったね。話題を変えよう…」
この日はそんな話で締めくくられたのだった・・・・。

「…どこで寝るの? それとも徹夜?」
エレベーターを降り部屋に向かう途中、織瀬の背中に話しかける真実。まるで初めて「恋人の家にお邪魔する」時のような、妙なそわそわ感が胃のあたりをくすぐる。
(ここが織瀬とユキくんの…)
何度となく一緒にタクシーで帰ってはいたものの、意外にもこれが真実の初めての訪問だった。
「あたしの寝室」
「やだよ、そんな夫婦の寝室に寝るなんて」
「だって、夫婦じゃないも~ん」
そう不服そうに答える織瀬に、先ほどの玲のマンションでの話を思い返して顔を曇らせる。
「…まぁ、そうなんだろうけど」
追及すべきか迷う真実に、意外にも答えは早く見つかった。
「…あたし、寝室って言ったじゃん」
シャワーを済ませ、案内され扉を開けた真実はその光景に思わず息を飲んだ。
「織瀬…なんでこんなに枕…クッション、があるの?」
おそらく数年前までは夫婦共にしていたであろうキングサイズのベッドには、枕やクッションが見事に四角に『コ』を描いていた。
「ひとりで寝るには、広いから…?」
「確かに…!」
はは…とおどけて見せるがその瞬間「やばい」と感じた。どれほどの間こんな風に枕で囲って、ひとりの隙間を埋め合わせていたのか。
「…おり、せ」
そんな神妙な声の真実の顔を覗き込み、
「枕投げする?」
と、織瀬はベッドの上に乗った枕のひとつを掴んで笑顔を作って見せた。
「高校生じゃあるまいし…。ぶっ」
不意に枕が飛んでくる。
きゃはははは…と子どものように笑いながらベッドに倒れこむ織瀬。
「どの枕がいい? 結構お高い枕なのよ、それ。どうよ、このクッション…」
ポンポンと、その弾力を叩いて示して見せる織瀬は、さみしさを必死で隠そうとする子どものようだった。
「そういう問題じゃないだろうが…高校でもしなかったよ、こんなのっ」
手前の枕を掴み、反撃にかかる真実。
「高校時代は出来なかったよ~奇跡のオスカル。遠い存在だったもんね」
くるりと身体を半分起こし、逃れようとする。
「この!…おてんばオスカルが!」
「あ~それは言わないで…ははは」
次々とベッドを囲う枕を掴んで反撃する。…が、そんなにいつまでも投げられるほどの数でもない。すぐにふたりもつれ、倒れこんだまま動けなくなる。
「真実…」
「なんなの、これ…」
「いいよ」
「え?」
(え?)
驚いて起き上がるが、まるで押し倒した後のようなその体勢に気まずさが漂う。だが、すぐさま離れようとする真実を、織瀬の言葉が引き止めた。
「いいよ」
織瀬は静かに目を開き、優しい眼差しで真実を見上げていた。
「あたし、真実ならいいよ」
(やっぱり! 気づかれてた…)
「おり…瀬…? なにを」
「あたし、」
言葉を続けようとする織瀬を制し、無理矢理身体を起こす真実。
「寝る前から寝ぼけてんの?」
ヤメテ…
うろたえている。
明らかに真実はうろたえていた。当然織瀬にも伝わっているはず…心臓が鳴り止まない。だからと言って、
(出て行けない…!)
「もう寝るよ!」
勢いよくベッドを離れ、パチリと入口の電気を消した。
静かにベッドに戻ると、微動だにしない織瀬を背中に「おやすみ」と、その言葉がやけに強がっているように裏返った。
「真っ暗だと、寝れないんじゃなかった?」
織瀬の顔がこちらに向く気配を感じる。
「平気」
(涙出そう…)
それは、決して暗闇ゆえのことではない。むしろこの暗闇に消え入りたいと思う真実だった。
そうして、しばらく沈黙が続いたのち、
「ごめんね、真実…」
なにに対する謝罪なのか、言いながら織瀬は真実の背に手のひらを当てる。
「織瀬!」
起き上がり、織瀬を見下ろす。ぽたり…と真実の本音が織瀬の頬に流れ落ちた。
「まこ…」
真実は静かに織瀬の肩に額を寄せ、小さく「ありがとう」と呟き…さらに小さく「壊せないよ…」と言って泣いた。

男嫌いには、それなりの理由があったのだ・・・・。

まだまだ未熟者ですが、夢に向かって邁進します