ハイボール

小説『オスカルな女たち』5

第 2 章 『 核 心 』・・・1


   《 伏 線 》

「…もしもし?」
『…おりせ、さん? オレのこと、わかります?』
「え…っ…?」
それは自惚れではない…とは言い切れない。だが明らかに、ただの偶然のものではないことも感じていた。それは時にこちらが戸惑うほどの熱を帯びた眼差しであることに、織瀬(おりせ)は気づいていたのだ。
(来てしまった…)
この日織瀬はひとり、先日つかさたちと飲みに来ていたバー『kyss(シュス)』の入り口に立っていた。
電話の相手はバーテンダーの〈真田章悟〉だった。どうして自分の電話番号を知っていたのか聞きそびれたまま、誘われるままにやってきたのだ。
(ひとりで来るのは初めて、よね…)
誘われるいわれもなかったが、断る理由もまた見つからない。
(ここまで来たんだもんね…)
意を決し中に入ると、さすがに平日木曜日のバーはひと気が少なかった。
「こん、ばんは…」
軽くあいさつをして、とりあえずはカウンターに向かう。少し迷ったが、誘いを受けておいてテーブル席に座るのもどうかと思われたし、織瀬を見つけるなり真田は、目の前の席に座るよう視線で促していた。
「…なに?」
席についてセミロングの髪をかきあげる織瀬をじっと見つめる視線が気になる。
「いえ…。今日はおろしてるんですね、髪」
「あぁ…今日は内勤だったから…」
内勤とは、いわゆるデスクワークを指した。ブライダルコンシェルジュをしている織瀬は、主に接客が多く、お客様の前では清潔感をアピールすることから常にまとめ髪でいることを強いられていた。
思わぬ指摘にドキリとして、かきあげたままの手で髪をぎゅっと握った。確かに、ここを訪れる織瀬はいつも、仕事上がりでまとめ髪だったかもしれない。
(そんなところまで見てるんだ…)
そうバーテンダーの仕事に感心しながら「そんなことより…」と呼ばれた理由を問いただそうと口を開いた。
「え、っと今日は…」
そんな織瀬の言葉をさえぎり、オリジナルのカクテルを差し出しながら真田は口を開いた。
「なな、うら、織瀬、さん」
「はい?」
「…知ってました? オレたちって結構前からの知り合いですよ」
思わず顔を見上げる。
(…七浦?って)
そうして流れるように、織瀬の前に古びた名刺が差し出された。
「これ、あたしの…?」
なんで?…と、目で訴える。
「はい」
「…どうして?」
あなたが持ってるの?…言いかけて彼のひげのない顔を想像した。
「あ…え…?」
見覚えがあるような気がしてくる。
「やっと気づいてくれました? オレ、昼間はケータリングの仕事してるんです」
「そう、なんだ…」
言われてすぐに思考を巡らせる。契約しているケータリング会社は数社あるがそれほど多いわけでもない。和食、洋食、中華とそれぞれ…つまり、織瀬の仕事場に出入りしているいずれかのケータリング会社に勤務している、と言いたいらしい。
(なんで気づかなかったんだろう…)
服装だって、白いコック服か黒いバーテンダー姿かの違いでそう変わらないはずなのに。
(照明のせい?…)
そういう問題ではなさそうだ。
「ショックだなぁ…絶対どこかで気づいてくれてると思ってたのに」
マジックの種明かしでもするかのように、いたずらに笑みを浮かべる真田。
「ごめん、なさい…」
(…でも)
ケータリングの会社だったとして、よくも今までなにも言わずにやり過ごしたものだと、突っ込みを入れたくなる織瀬。そして、なぜ今になって…?
「ま、その程度しか印象がないってことか」
「や…そういうことじゃなくっ…て」
仕事柄、人の顔を覚えるのは得意なはずだった。
(ある意味、あたしのほうがショックだわ…。何度か使ってるはずなのに、覚えてないなんて…)
職務怠慢…ってこと?
困惑する織瀬に、真田は小さく微笑んだ。
「そんなに気にしないでください。オレもよっぽどじゃない限り現場には出ませんし、直接話をすることはそうありませんでしたから…」
「…でも、よく、判りましたね」
なんと言って返したものかとためらう織瀬に「すぐ判りましたよ」と返す真田の態度は、気のせいかいつもよりとても親しげに感じられた。
「…そう、なんだ。…え、っと…」
それで電話を?…聞き及んでいると、入り口ドアの開く音がする。
「きた」
真田は、軽く手を上げて合図する。
「え?」
「今日は友人を紹介しようと思って…」
言われて入り口方向に視線を移すと、男女の若いカップルが会釈をしながら入ってくるのが目に入った。ふたりは織瀬の前にくると「こんばんは」とあいさつをして隣に並んで座った。
「こんばんは…」
なにがなにやら…戸惑う織瀬に、真田が口を開いた。
「今度結婚するオレの後輩です。織瀬さんの話をしたら、話を聞きたいって言うもんで来てもらいました」
「あぁ…」
織瀬はやっと合点が入ったようだ。
(…そうよね。…やだ、ひとりで変に勘ぐって。それに彼は…)
取り成して自分を制し、織瀬は改めて隣にあいさつをした。
「そうなんですね…それは、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
後輩と呼ばれたその彼は、笑うと目がなくなってしまうとても優しそうな雰囲気の人物だった。
「すみません、わざわざご足労願って…。いきなり会社の方に伺っても会えるとは限らないし、こちらとしても勝手が解らなかったものですから…」
チラリと真田に目を移し、
「甘えさせてもらいました」
と、再度お辞儀を返してきた。
「全然構いませんよ。うち、社名だけだと解りにくいんです。えっと…」
バッグを探り名刺を取り出す。
「…こんなところでなんですが、『guest garden(ゲストガーデン)』の樋渡織瀬と申します」
言いながら隣の彼に両手で差し出す。
「こんなところって…ひどいなぁ」
苦笑いで後から来たふたりにソフトドリンクを差し出す真田。
「だって…」
(なんて言えばいいのよ…調子狂うなあ)
「ひわたり…さん」
「あ、七浦は旧姓なんです」
チラリと、未だテーブルに置かれたままの古い名刺を一瞥する。
「そうなんですね。沖と申します、こちらは田所亜美さん」
そう言って隣の物静かな女性を紹介する。
「よろしくお願いします」
奥の彼女に微笑みを返す織瀬。
「いいな、オレも新しい名刺もらえます?」
言いながら真田は、表面が毛羽立つくたびれた名刺を拾い上げる。
「必要ある? あ、結婚の予定でもあるとか?」
(あ…)
言ってしまって、まずいと視線を泳がす。
「いえ、予定はないですよ。でも、オレのはもう古いし」
意外に食い下がる。
(確かに昔の名刺だけど…)
名刺を渡すほど彼とやり取りした記憶がない。そもそもケータリングは担当外で、名刺もいつ渡したのかすら覚えていないのだ。それより、
「ここで営業しちゃっていいのかしら? それとも、日を改めて…?」
真田と沖の顔を交互に見遣る。
「はい、とりあえずお会いしたかったんです」
沖は、にこやかに応じた。
結婚式の話をするには、確かに落ち着かない場所だ。
「オレ、彼女に会うの初めてなんで…ふたりで出てきてもらったんですよ」
カウンターの向こうで手早くグラスを磨きながら、彼女のほうににっこりと笑顔を送る。
「そうなんだ…」
(ふーん…)
どことなく違和感を覚えながらも、特に思い当たらない織瀬は、とりあえず上客が舞い込んできたのだと思い直す。
「日程とかは、決めてらっしゃるんですか?」
「いえ、まだなにも。ただ…予算が少ないので、時期的なものも相談出来たら…と。そちらは、少人数でも充分な披露宴をやっていただけると、先輩から」
チラリと真田に目を配る。当の真田は、後輩の彼女に愛想笑いをしている最中だ。
(女の人相手に、そんな顔もできるんだ…)
「なるほど。…そうですね、今は以前ほど季節を意識することもなくなりましたが…年内を希望であれば、ちょっと忙しいですが8月か、9月あたりでしょうか…」
「えぇ、本当に内輪だけなので、大丈夫だと思います」
「解りました。わたしは水曜が固定の休みになっているので、その日以外でしたらいつでも会社の方にいます。社の者に声をかけてもらえれば、すぐに伺いますので」
説明するにも、手元に資料はない。
(言ってくれたら、パンフレットくらい持ってこれたのに…)
「解りました。では、改めて会社の方に伺わせていただきますので、よろしくお願い致します」
「こちらこそ、ありがとうございます。ご希望に添えるよう精一杯努力させていただきます…!」
そんなやり取りの後、若いカップルは真田と少ない会話を交わし丁寧に頭を下げて帰って行った。
(一番、いい時なんだろうな…)
立ち上がり、しっかりとお辞儀をして見送る織瀬は、ドアが閉まった後もしばらく席に着かずに考えていた。
「さすがですね…仕事モード」
心なしか、真田の口元がニヤついているように見える。
「やだ…からかわないで。プライベートであまりみられたくない姿だわ」
急に照れくささが沸いてくる。
髪をかきあげ、悟られないよう顔を作って椅子に腰掛けた。
「そうですか?…そういえば、あまりそういう顔見せませんね、お友達の前で」
「え…?」
「…いつもなにもできなさそうに笑ってる」
いたずらっぽく上目遣いで織瀬を見る。
「な…っ…?」
(やだ、そんなの…)
織瀬は顔色を曇らすが、すぐに思い直して切り返す。
「バカみたい?」
特に取り繕う必要もないだろう。だが、誤魔化すように笑顔を浮かべ、思うように笑えない自分に苛立つ。
(もう。なんで…)
「いえ、プライベートですし。ただ…なんで、できるのにできない振りしてるのかなって、いつも思って見てました。いじられキャラって言えばそれまでですけど、なんか織瀬さんは自分からそうしているように見えたから…」
(やだ…)
いつも思って…? 見てました…? ですって?
思わぬ攻撃に動揺を隠せない。
「そんなふうに見えてた…?」
(気をつけてたつもりなのに…)
意識してそうしているつもりはない。仕事柄なのか、それとももともとの性格からなのか、だがそれを指摘されるほどわざとらしい態度をとっていたのだろうかと思うと急に恥ずかしくなる。
「そんなことないですよ」
無言でこちらに視線を落とす真田に、うまく笑えずに頬杖をつく。
「仕事とプライベートは、別でしょ」
言いながらも、急に居心地が悪くなる。
「確かに…」
「それより、返しちゃっていいの? わざわざ呼んだんでしょ?」
「ふたりは、忙しいみたいで…」
含みのある言い方をする真田は、空になった織瀬のカクテルグラスを手前に引いた。
それを見届けるように、
「…あたしも、帰るわね。とりあえず、用は済んだわけだし。…おいくらかしら」
立ち上がり、レジの方へと足を向ける。
「まだいいじゃないですか…客もいないし」
「そういうわけには行かないわ。今日は遅くなれないの」
そんな予定もなかったが、とにかくこの場を退散したい。
「今日はオレのおごりで…」
「あら、そんなのだめよ」
クルリと向き直る。
「いえ。今日は最初からそのつもりでしたので…」
そう言って真田は、右手をかざして「結構です」と制する。
「そう…?」
妙な気分だった。
「それじゃあ…わざわざありがとう。お客さんまで紹介してもらっちゃって…」
「そんなのはいいですけど。織瀬さん…大丈夫ですか? 気分悪くしたなら謝ります」
出口まで見送りに来た真田は、バツが悪そうに織瀬と目線を合わせる。カウンターの中にいるときは気づかなかったが、小柄な織瀬には見上げるほど背が高い。
「なんで? そんなことないよ。ただちょっと…びっくりしただけ」
そう、いきなりの電話に…それと、あまり聞きなれない「織瀬さん」という呼び声の響きが、妙に気まずくてくすぐったい。
「織瀬さん」
「はい…?」
「髪、おろしてた方がいいですよ」
言われた反応で髪をつかむ。なぜだか、余裕な笑顔を浮かべる真田に急に男臭さを感じた。
「なに、いきなり」
はじめて彼の顔を見たような、そんな気恥ずかしい気持ちが湧いてくる。
(なんなのよ、もう…謝ったり、からかったり。ホント調子狂うなぁ)
「また連絡します」
そんな織瀬に、続けて意外な言葉を投げる真田立ち止まって振り返る。
「そんなことしなくても、多分くると思うよ?」
つかさたちと…、ここは4人のお気に入りの店だから。
「わざわざそんなことしなくても…」
織瀬は、また電話がかかってくるのかと牽制する。
「いや、そうじゃなくて…」
口元に手を当て苦笑する。
(え? なに? あたしおかしなこと言った?)
「あ、さっきの彼らのこと?…報告したほうがいいの?」
一瞬虚を突かれたような顔をした後、真田はクスリと小さく笑った。
「いえ…。お待ちしてます」
「え? うん」
いまいち噛み合っていないやり取りだったが、織瀬にはそれを気にする余裕がなかった。それどころじゃないほど無防備に、気持ちを乱されていたからだ。
「それじゃ、ごちそうさま」
とりあえず愛想笑いをしてきびすを返す。今まで、ドアの外で見送られたことなんてないのに…と、そんなことを思いながら真田の視線を背に感じながら、振り返らずにタクシー乗り場へと向かった。
(次は絶対、ひとりでこない…!)
そう心に誓って。

そんなことがあって数日後、織瀬は会社帰りにつかさのトリマーサロンを訪れ、そのいきなりの出来事について意見を求めていた。
「…それって。わざわざ電話してまで呼ぶこと?」
終業間際の店内はすっかりとブラインドが下ろされ、レジ上の灯りが点いているだけで薄暗かった。
「確かに、織瀬だけに用があったんだろうけど…。べつに聞かれて困る話でもないよねぇ?」
そう言ってつかさは、織瀬の顔と自分の手元を交互に見、それだけ?…と、疑わしい目線と含んだ物言い。
「だよねぇ…」
レジカウンター前の椅子に腰かけ頬杖を突く織瀬は、そんなつかさの思惑には介さず、他人事のように静かに返す。
「しかもなんで携帯番号知ってるの?」
レジの集計の手を休めることなく順を追って問うつかさは、コインを数えながら丁寧に金庫に納めていく。
「それがさぁ、うちの会社で使ってるケータリング会社の社員らしいの。あたしの名刺持ってた。しかも昔の、七浦の…」
わけわかんない…と、不貞腐れたように答える織瀬は本音では違うことを問いたい様子だった。
「へぇ…」
(でもあの名刺…個人の携帯番号なんて載ってないはずなんだよねえ)
よくよく確認してみれば、同窓会の日の深夜の電話も彼の携帯番号だったことが解った。あの日、あの時間に電話を受けていたら、彼はどんな話をしたのだろう。あの日忘れ物をした覚えもないし、後輩の話をするつもりだったのだろうか。それとも別な話があったのか、織瀬はなんとなくつかさに言いそびれていた。
「まぁ、おかげさまで…。いいお客さん紹介してもらったわけなんだけどさ。…いきなり電話かかってくるもんだから、びっくりしたよ。あたしったら、変に勘ぐっちゃって、バカみたいだし」
そう言って膨れて見せる織瀬。いきなりの異性からの電話に、女として多少のうぬぼれは否めない、そんな自分を恥じているのだ。久しく、夫や会社の人間以外の異性から電話など受けたことがない。
「案外そうなんじゃないのぉ? 最近、彼の織瀬を見る目はどことなく違う気がしてたんだよねぇ…」
いつか違和感を覚えた真田の視線を思い返すつかさ。あの時の「あれ」がそうだったのかもしれない、と。
「だってつかさ。彼、ゲイだって言ってなかった?」
「やだ、ゲイはあのバーのオーナーよ。彼がそうだとは言ってない。…その、可能性は疑わしいって、言っただけ」
悪びれないつかさの言葉に、
「え~? それって彼をゲイだって言ってない?」
(変な態度とっちゃったじゃない…。恥ずかしい…)
「だってあの容姿だし。真田くん、特に女クドいてるとこ見たことなかったから…。でもこれで証明されたじゃない、彼はゲイじゃない。そして織瀬はロックオンされた、ターゲットってことよ!」
片手でピストルの形を作り、織瀬を打ち抜く真似をしてみせる。
「いやいやいや…」
頬杖を外し、顔の前で大きく手を振って見せる。
「悪い気はしないでしょ」
「そりゃ…」
「ね?」
その微笑が返って空々しいつかさ。
「やめてよ…」
彼がゲイじゃないのなら…案外うぬぼれも気のせいではないのかもしれない。しかし、
「…それにしたって、あたしが既婚者だって知らないわけじゃないでしょうよ」
「知らないのかも? あ、でも苗字が違うことは知ってるか」
つかさはひとり納得し、
「だけどさ、それだけ気になってるってことなんじゃないのぉ? 名刺まで後生大事に持ってたわけだし…? 織瀬、やるじゃん」
「だから、その笑顔はなによ?」
「祝福? 応援? 興味!」
「それが本音でしょ」
「まぁ…。でも織瀬が気にしてるほど、自分に魅力がないわけじゃなかったってことじゃないの?」
織瀬は「自分に魅力がない」のだと常々つかさに言っていた。それは結婚以来夫に夜の生活を求められないことが一番の要因ではあったが、それ以前にいろいろとコンプレックスを抱えているようだった。
「それとこれとは…、」
「そ、れ?…と、これ?」
いたずらに首をかしげ、オウム返しで応えるつかさは、
「困る? やっぱり。でも顔が困ってない」
ふふふ…とからかうように笑う。そんなつかさに、もう…と、唇を尖らせる織瀬。
「…つかさぁ。そりゃぁ、悪い気はしないけど。だって…。それは困るでしょうよ…」
改めて真田の顔を思い浮かべてみる。確かに「嫌いじゃない顔」…ではある。が、自分で納得しそうになるのを必死に打ち消す。
「いやいや。…そもそも、年下でしょ」
とにかく「困る」もとい、「受け入れない」理由を探す。
「織瀬、童顔だから、そんなふうに感じないけど」
「そういう問題じゃないでしょ」
「…いいんじゃない」
「え?」
「いいと思うよ。今の織瀬の状況を考えたら…そういうの」
そう真顔で返すつかさは、織瀬の夫婦生活の事情を少なからず理解していた。
ちょきんのカットで訪れるようになってから、だいぶ打ち解けていたふたりは、最近ではそんなプライベートな話もするようになっていたのだ。「自分に魅力がない」と落ち込む織瀬に、気晴らしに犬を飼うことを勧めてくれたのも目の前にいるつかさだった。
「そういうの…?」
「いつか言ったじゃない? ノックしても返事がないなら、返事をくれる扉の前に足を向けてもいいんじゃないか、って」
ガシャン…と、レジを閉める。
「限界だって言ってたじゃん」
つかさは遠回しに、「秘め事」も辞さないのではないかと進めているのだ。
「そうだけど…それとこれとは…」
織瀬は言葉をにごす。口で言うのと、行動に起こすのとでは、罪の重さが違う。
「もちろん、織瀬が彼がいやだって言うなら話は別だけど…。まんざらでもなさそう」
「よくわかんないよ」
(急に…そんなこと考えられないよ…)
「今まで、そういう目で見たことなかったし」
「これからそういう目で見てみたら? チャンス到来とは思わない?」
「チャンス? そうなの、かな」
(それで、いいのかな?)
当然ながら、家庭を壊すつもりはない。だからと言って、浮気が許されるわけでもないだろう。
(浮気したところで、家から出ない幸に気づかれることもないだろうけど…)
そんな気持ちを慌てて打ち消してはみるものの、日々の苦悩を思い出せば苛立ちが沸いてくるのも事実。だが、現実としてそんなことはあり得ないと考え直す。
「つかさはどうなのよ」
そして織瀬も、つかさの夫婦生活の現状に少なからず関わっている。
「うちは…相変わらずよ」
そう言って、紙を破く仕草をして見せる。
ため息をつくつかさの〈離婚届〉の証人の欄に、何度となく名前を書き込んでいる織瀬。お互い様、というところだろうか。
「…それより、今日はなんだっけ? カットの予約、じゃないよね?」
いそいそと帰り支度をするつかさが切り返す。
ちょきんのカットは先週済ませたばかりだ。
「あ、そうそう。新しいパンフレットが出来上がったから…」
仕事用の大きなトートバッグから、「これ…」と言って冊子を取り出して渡す。
「本当は先週持ってくるつもりだったんだけど…。かっこよく映ってるよー」
それは、織瀬の会社が企画している「ブライダルフェア」の宣伝用パンフレットだった。
明るい日差しの下小さなチャペルの前に向かい合って立つ新郎新婦のカットと、新郎が新婦をお姫様抱っこして空を仰ぐカットの2パターンの冊子。モデルは、つかさの一番下の弟の郷(さと)だ。
「図体ばっかりで…」
写真の中の郷の身長は2メートル近くある。皮肉って言いながらも、つかさの眼差しはとても優しい。
「でも写真映えするよね、さっちゃん」
「どうだろね…」
ぺろりと舌を出す。
「それ、もってって。ポスター刷りもするらしいから、後で持ってくるね」
「そうなの?」
声が裏返るつかさに、にっこりと微笑み返す織瀬。
「…ずいぶん偉そうになったもんねえ」
冊子を目線より上にかざして目を細めて見せるつかさ。弟の成長振りが嬉しいようだ。
「こっちは申し訳ないくらいよ。いつもただ同然でモデル引き受けてもらっちゃて…」
いそいそとバッグを掬い上げて立ち上がる。
「いいの、いいの。織瀬のおかげであの子、名前売れたようなもんだもん。こっちこそ、感謝してる」
事実パンフレットの出来はとてもよく、客の反応も好評だった。
「すぐなくなっちゃうのよ、さっちゃんのポスター」
「えぇ? そうなの?」
「だから今回は多めに刷る予定…」
「へぇ」
ふたりは談笑しながら、裏口から外へ向かう。
「結婚式を挙げるときは、ぜひうちで…。勉強させていただきます!」
仰々しくお辞儀をしてみせる織瀬。
「あー。ちゃっかりしてる」
「そりゃ多少は営業させていただきますよ」
そんなとりとめのない話をしながら店の外に出た。
「どうする? 行く?」
例のバーへ、出掛けるか、とつかさが誘う。
「え…いいよ、今日は。話の後じゃ、顔見れないよ」
(気にはなるけど…)
「そ? あたしはあいつがどんな顔するか見てみたいけど?」
「いじわる」
「ふふ…。じゃ、なにかおいしいもの、食べて帰ろう」
「うん…」
言いながら、両腕に抱えた荷物の柄を持ち直す。
「ところでおりちゃん、どうでもいいけどその大きな荷物はなに? 玲(あきら)の出産祝い…?」
織瀬の両肩には、右に仕事用のトートバッグ、左にそれより大きな紙袋を抱えていた。
「え? ああ、…枕」
言いながら苦笑いする。後ろ手に隠そうにも大きすぎて行き場がない。
「また買ったの?」
「だって…」
「もうやめな、その変な癖。あたしが知ってる限りでも4つは新調してるよね」
呆れながらも、そんな織瀬をかわいいと思うつかさ。
「まぁまぁ…。そうだ来週だよね、玲んち」
そんなつかさの気遣いを、ありがたいと思いながらも話を逸らす織瀬。
「うん、楽しみ。あたし初めてなんだよね」
「そうだった?」
「うん、前回の時は遠慮しちゃったからさ。すごいんでしょ? 高層マンション」
「すごいよ。広さも、眺めも…」
「だよね。…プレゼントどうする?」
「んーどうしようかなぁ…。そう言えば、つかさもそろそろ誕生日じゃない?」
「あ~そうね」


まだまだ未熟者ですが、夢に向かって邁進します