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研修とワークショップ⑤長浜のまちづくりから学ぶ 講演内容公開します 

【日時】12月10日 14:00~15:30
【場所】
あけぼのパーク多賀 大会議室
【テーマ】
長浜のまちづくりから学ぶ
【講師】
竹村光雄さん 長浜まちづくり株式会社 常務取締役 風景プランナー
【内容】
都市計画系のコンサルから、地域に根ざした暮らしの中でまちづくりに参画したいと長浜市に移住した竹村さん。ローカリティーが育まれる活動をされています。民間企業としてどのような役割を担い、どのような活動を目指しておられるのか?お話を伺い意見交換しましょう。長浜の町づくりから学ぶということで、竹村光雄さまを講師に迎えてお話をいただきました。



多賀町まちづくりネットワーク会長 挨拶


本日は、多賀町の宝物である文化財を活用した町づくりを進める活動をしていくための研修会という趣旨で開催するものです。
長浜のまちづくりについて竹村さんの方から、お話をいただいて、多賀町に活かせることを皆さんで、考えていけたらと思います。

竹村光雄さん講演


はじめまして、竹村です。よろしくお願いいたします。長浜のことをお話しさせていただいて、皆さんのこれからの取り組みのお手伝いができればと思いますので、よろしくお願いいたします。


今私たちが、これからのまちづくりを進めるにあたって考えている3つの柱がようやく見えてきたかなと言っているところなんで、お話をさせていただきたいと思います。

長浜市について

ご存じのとおり、長浜は、全国的にも一時期ですが、非常に皆さんに、見学したりしていただいた、「黒壁のまちづくり」があるんですが、もう時代が変わっていますので。その先輩たちがされてきたことはどういうことだったのかと、現状はどうなのか、変わったことを受けて、どう転換していくのか、10年ほど挑戦して 感じたこと、考えたこと、トライしてきたこと、今、長浜まちづくり株式会社が考えている、取り組んでることと、
3つの柱の入り口の部分をちょっとご紹介させていただきます。

明治・大正期の長浜

 先輩たちへの尊敬と今の自分たちの自覚というところなんですが、古い地図から入りますけど、これ大正7年です。
長浜は、本当に元々小さい町です。
東西南北1キロちょっとぐらいの範囲にあった町です。周りは田園地帯の中に集落が点々としていて、もっと地図広げると、こんな風景の中に、 1つ大きな長浜の町がある感じです。周りは見ていただくと、ほとんど田んぼマークですけけど、ところどころ桑畑があります。
浜ちりめんが江戸時代から長浜の主力産業でした。
ものづくりの下地はそこにあります。大正7年は、明治の殖産が非常に工業化していますので、 大きな工場が点在します。左にあるのが、これが当時のカネボウで、ここ2つは今も続いてますが、これ、三菱樹脂から始まりましたね。
これがヤンマーです。要は製造業が地域の大きな経済を支えていて、 それによって生み出された経済を町の人たちが回すのが、長浜の市街地、というのが大きな特徴。
もう1つは、 駅のところに、港がありますね。鉄道駅と琵琶湖汽船の積み替えが長浜でした。
明治政府が明治の初め欧米に、遅れをとるまいということで、鉄道を一生懸命轢くんですけど、 最初に轢いたのが新橋から横浜の間、蒸気機関車走らせて、次に轢いたのが横浜長浜間なんです。
京都と江戸をなんとしてでも繋ぎたい明治政府の悲願があるんですけど、言うてもまだまだお金がない時代。
しかし、横浜から長浜まで電車持っていけば、長浜から先は船に乗せ替えて、琵琶湖を通って京都まで入れるということで、 まずここまで通した。
それからもう1つは、ここから北陸線に乗せて敦賀に繋いだんですね。
今度は敦賀から船でウラジオストックに行って、ウラジオストックからシベリア横断鉄道でパリに行った。今、敦賀駅でも、 鉄道遺産紹介がしっかりされてますけど、海を越える鉄道で、 当時は「新橋はパリ行き」っていう電車のチケットが売られてたみたいですね。

それから、杉原千畝さんっていう大使の方おられましたね。あの、ユダヤ人の方たちにたくさんビザ発行された方。ですから、ユダヤの方たちも ウラジオストックから敦賀に入って、長浜来てるわけですよね。
長浜って合併前はせいぜい6万人ぐらいの小さい町でしたけど、日本が世界に接続するときのハブとしてちゃんと機能してきた町っていう、こう、凛々しい感じがしてきます。

昭和から平成の長浜~黒壁平成時代

現代の地形図なんですけど、日本中の地方都心はこうだったと 考えてます。モータリゼーションが進んで、北国街道がここにあった。北国街道がここ、今、国道8号線。
バイパス沿いにショッピングセンター、医療機関、行政機関、どんどんできました。
生活はどんどんとそういう所に流出していって、街が空っぽになってしまった昭和50年代に、なんとかもう1回、 ちゃんとした街に戻したいっていうのが、先輩たちの大きな取り組みの始まり。
有名な話ではありますが、このランドマークである黒壁という建物が、ディベロッパーに売りに出されるらしいという話が出た時に、長浜の町が空っぽになったとはいえ、黒壁がなくなってしまったらもう駄目だぞと、なんとかしようって言ってるうちに、売却されちゃったんですって。調べてみたら、それが9000万円。30年前のお金ですが。
その時トップを張ったお2人の方が、1500万円ずつ お金を用意して、残り6000万円を6人の先輩たちに声をかけて 9000万円のお金を作って、ディベロッパーの方に、申し訳ないけどその建物は売れんのやと、原価で悪いけど買い戻させてくれということで、戻した建物を彼らは長浜市役所に寄贈しようとしたら、市の方がそれを断った。
なんでかっていうと、銀行という役割を終えて、その後、カトリック教会ですが、教会という役割も終えて、たたずんでいた建物を市が受け取ったところで、共同博物館とかそういうつまらないものにしかならない、 だから断る。しかし、長浜市として、そこにさらに4000万円出資をするので、合わせて資本金1億3000万円の株式会社を作って、新しいビジネスの中で、この建物にもう1回働いてもらえないかっていうのが、この第3セクター、 株式会社黒壁の始まりです。
これも有名な話なんで、ガラス館ですけど、その言い出しっぺのお2人が、1番その中では若いメンバーで、 じゃあということで、新しく始まった。
会社の取締役会の中で、どんな事業をしていくかっていうことを、一生懸命企画を立てる。
この歴史ある長浜の誇りや文化を守りたいっていうことが活動の原点にありますので、伝統産業とか文化、そういったことを中心に ビジネスプランを考えた。
今の私たちもよくやっていますね。まさにそのまんま今もやっています。なんですが、初代社長は、 京都に行くと長谷ビルってたくさんありますね。あの長谷さんです。長浜出身で、縮みが衰退する時代に京都に行かれて不動産で成功された。その方が、昭和58年に2億円長浜に寄付をされて、それを原資に建てたのが今の長浜城です。
長浜城を建てるときは、長谷さんを中心に市民の方たちが寄付を出し合って、9億円のお金を作ってあのお城を作った。ですから、 二人が考えたのは自分たちが社長になるというよりは長谷さんに社長になってもらうのが一番。みんなのまちづくりがこの会社で担えるということで始めたんです。

取締役会で若い2人が一生懸命町の歴史や文化を中心に置いたビジネスプランを説明するけれども、役員の先輩たちは、ずっと居眠りばかりして話を聞いてくれない。なんでですかと聞くと、つまらん、そんなことでは会社潰れてしまうぞと。まあそれもそうかなと思いつつ、じゃあ、なんだったらいいと思いますかって聞いたら、長谷さんがガラスやな。って言い始めたんですって。もう全然関係ないやんけと。
なんでそうなるんですかって伺ったら、 当時は今以上に円が弱い時代でした。ですから、私たち庶民はヨーロッパ旅行なんて行きませんでしたけど、あの社長さん達はヨーロッパ旅行のご経験があって。ベネチアとかガラスがある街は賑わっている。キラキラしたガラスを喜ぶ女の人たちがいると旦那さんとかお子さんとか家族の方たちが連れられて、街中に人がいる。日本はガラス産業があまりありませんでしたから、どんなガラスがいいかっていう企画をして、職人がそれを作ってお店で販売したり、それを1つのお店で買うだけじゃなくて、 街の中を行ったり来たりしながらカフェでお茶したり、レストランでご飯を食べたりっていうエリアができる。何よりも、町の中から産業がなくなってしまったところに、ガラスっていうのは総合産業になるんじゃないかって提案をされた。

当時小樽にあったガラス見学に行く。
職人さんたちに、ガラスの作り方教えてくれっていうことで、見学をお願いすると、素人が無理に決まっとるやろって、軽くあしらわれたのが頭に来て、帰りの飛行機の中で、絶対やったろうっていうことを決めて、翌年には、1号館、それから 2号館、蔵を改装したレストランができた。3号館が、教会時代の神父さんのお家を改造したもの。4号館っていうとたいそうですが、間の庭に公衆トイレを作ったんです。
ポイントは、1つの建物を保存するんじゃなくて新しい活用をする。単体を使うんじゃなくて、エリアを作るっていうことをしました。そこら中、空き家だらけのひなびた商店街だったわけですが、近畿近在の方たちが長浜来た時に、時代遅れで生活感が漂う素朴な街を歩くと、地元の人たちが考えた面白い発見が次々にあるっていうのが、平成でちょこっと話題になったわけです。そしたら、旦那衆たちっていうのは、これはいけるぞっていうことで、
北国街道沿いを中心に、空いている町屋の使用権を買ったり借りたりしながら、次々とガラスのギャラリーや工房やレストランや美術館を作っていったっていうのが、 平成の時代です。

勢い良く進んでいきました。この時の、まちづくりの大きなメカニズムを考えると、空き家に今でいうリノベーションですね。改修投資をする。少なくても1件あたり2000万かかってくると思うんですが、 直した建物に、新しい商業コンテンツができる。自分たちで直結する場合もあれば、テナントに家賃で貸す場合もあります。
そうすると、お客さんが喜んで、何より平成はお買い物の時代でしたから、
珍しいもの見たらどんどん買ってくれるっていうことで、売り上げが立つと、テナントさんは 賃料を払う能力があります。直営店だったら、当然、売り上げはそのまま収益になりますので、投資分が回収できるので、 もう2、3年で見込みが立つから、よしやろうと、今がチャンスだということで、どんどん次の建物を再投資するっていうのを、これがぐるぐる回り始めると、商店街の方もみんな流れに乗っかってくる。
いいビジョンがあったわけですけども、こういうまちづくりが今の時代喜ばれるんだっていうことが分かると、カラー舗装をしたりとか、アーケード直したりとか、アートイベント、アートイン長浜は、今も続いています。
それから秀吉、NHKの大河ドラマの博覧会、博物館をもっと盛り上げよう。着物園遊会を盛り上げよう。盆梅展を活気づけよう。ということで、相乗効果でどんどん町が元気になっていったのが、その時代の長浜の成功体験です。

空洞化そして高齢化


平成17年をピークに右肩上がりの成長が、だんだんと、下りに入っていく。
その時の流れをどう考えるかですが、基本的には、商業、観光、お買い物をして楽しんでもらう、まちづくりが進んだ時に、 新しいものが滞っていくと、コンテンツの魅力が落ちますよね。そうすると、売り上げが落ちて賃料払えなくなるので、テナントは出てしまう。
ディベロッパーは回収見込みが以前のように立たなくなるので、もう投資をするのはやめようというサイクルに入りそうだなっていうのが、平成20年の頃に先を読む方たちは 心配し始めて、実は私はその頃、都市計画のコンサル会社に勤め始めた頃で、東京から出張で新しいまちづくりの計画を作るっていうサポートに長浜に来たのがはじめ。
あの古い時代から考えてみてもそうですし、黒壁平成時代の街づくりが成功したのもそうですけど、小さな町がこの中だけでなんとかなってるわけじゃなくて、古くは、鉄道があり、汽船があり、 そして、黒壁を中心とした平成のまちづくりも、1番お客さんになってくれたのは、岐阜の方たちって伺っています。岐阜。名古屋の方たち。非常に、豊田はじめ、ドライブ文化のある種族ですから、彼らはよく遊びに来てくれた。
それから、京都、ちょっと難しかったらしいですけど、最初は大阪の方たち、敦賀の方たちで、やがては京都の方たちも、長浜もなかなかよろしいなというので、来てくれるようになったと。外との繋がりで、それがないと絶対成立しない。
中の満足で考えているとコンテンツが弱くなるってことですよね。
この時代は今以上に大手のメディアが強かった時代ですから。新しい情報発信は常に東京や大阪からっていう時代に、長浜の町中は自分たちができるオリジナルなことを始めたっていうのが喜んでいただけたんですよね。
このまちづくりの成功体験は、わずかなものだったと思います。その間にも大きな産業構造、流通構造、そういったものはどんどん地方都市を、スキップする構造になっていきましたよね。長浜も全体としては空洞化は続くんです。
若い人たちは外に出ていきますし、進学、就職、大きい街に出ていく時代に、商店街の500m四方は商業、観光っていう市場を自分たちで作り上げて、なんとか持ちこたえたんですけど、1番はやっぱり空洞化。
そして高齢化が進むと、以前のように 黒壁なんとかしたいから自分たちがお金を出そう、 建物を生かそうっていうときに、どんなビジネスモデルだったら面白いだろうかっていう、主体性を持って町の構成を考えた発想が、みんな流出しちゃってるんです。
残った方たちは、シニアになって、次の時代のことが見えない。では、地域全体で発想力が低下してるっていうのが、平成20年、21年、まちづくりのこれからを考え始める時の大きな悩みと、自覚がありました。

長浜の特徴

関ヶ原が終わって徳川方の彦根藩の配下に入るわけですけど、 徳川政権の上手なやり方は、豊臣の城下で、優遇されてきた楽市楽座を江戸期間中260年間も継続されました。
お城のない、殿様のない町になったんですが、一応 井伊の配下に入りなさいと。ただし、楽市楽座継続するから、従来通りあの自治をしなさいということでやってきたのが、今も続く自分たちがやるっていう、旦那。大きな特徴だと思ってます。
だから黒壁の時も自分たちが動きましたよね。民が動き始めたことに、民も官も出資したり、運営、会社運営に協力するんですが、同様に、官民どちらでもいいんですが、こういう会社が必要だっていう手を上げたところに賛同する方が出資して、そこを法人化して、ビジネスでその事業に取り込むっていう習慣が長浜はありまして。
平成の黒壁以降でも10社以上、株式会社じゃないものも、NPOとか そういうものも含めると10社以上、そういう組織があります。
不動産業に特化する会社もありますし、学習塾の会社も同様。町の駅っていう産直をやる会社もあれば、 長浜クラブっていう商店街のポイントカードをやってる会社もあります。
田舎町なので、多分そうだと思いますけど、大手の事業者がわざわざそんなことでは入ってきませんから。

よその町を見てこういう会社があるとええと思うことを、全部自分たちが会社を作ってやるっていう習慣があるわけです。

ただ、そういう中で言うと、 私が今お世話になっている長浜まちづくり株式会社は平成21年にできたんですが、黒壁以降20年もたった後にできた会社で、商売とかサービスの直接の現場を持たない、ディフェンシブなというか行政寄りな、位置付けの会社なんです。
プレイヤーたちがいる中を、後ろから手綱さばきをしてほしいっていうので、出来た会社です。
トータルマネージメントっていうことでできた会社なんですが、平成18年にまちづくり三法というのが改正されて、中心市街地活性化基本計画っていうものを作っていくときに、 長浜とか高松とか川越マネージメントをするような体制が望まれるっていうようなものがあったんです。

この会社は民ではなくて、市役所と商工会議所が必要ということから作った会社だったんです。そうすると、設立した頃はいいんですけれど、市役所から出向、 会議所から出向、補助金をいただいてタウンマネージャーを雇用する緊急雇用の補助金を使って事務員の女性を雇用する。
自分たちの持ち出しがないような形で、みんなから褒められるような会社としてできたわけなんですが、ある種そうやって公主導で作った会社って、行政関係の方いたら失礼な言い方かもしれませんが、やっぱり3年から5年で行政手引いていくんですよね。
もう目的は達成されたんじゃないか。そろそろ独り立ちできないんですか。できるわけがないじゃないですか。
ビジネスを目的で作ったまちづくり会社とは全く似て非なる、言うなれば一番情けない会社なわけです。その頃、コンサルタントとして、東京の会社だったんですけど、地方都市のまちづくりのサポートをするっていうところで、長浜も担当として行って、大好きな町だったんですけど。

出身は、茨城県日立市で、海辺なんですが、 兼業農家の祖父母の家もすぐ近くで、春から田んぼ仕事をしたりとか、平日は学校帰ってきたら海釣りに行ったりとか田舎の少年時代を過ごしてきたわけです。
地元もとっても大好きなんですが、いつしか、建築とか都市計画に興味を持って、進学、就職で東京に出て行ったって、どの口が言うてんねんっていう。
仕事も楽しくて、一生懸命やってました。しかし、思うのは、地方都市の活性化サポートということで、いろんなとこに伺うんですが、 近代の都市計画で、経済が拡大する、生活が経済的、物理的に豊かになる時代に 拡大していくものをいかにコントロールするかっていうのが、ざっというと都市計画的な考え方でした。
コンサルタント的なビジネスモデルというと、東京のやり方を切り売りして、地方を東京っぽくすることでコンサルフィーをいただいていくというようなところがありましたよね。だから、ディベロッパーが頑張って開発をすればするほど、 ローカリティーが失われていく。駅前に小さな東京、全然東京じゃないですけど
もう2番煎じ、3番煎じのテナントを集めたような施設を作ることが都市計画とも言えたじゃないはずだと思ったんです。
だから仕事は面白いし、一生懸命やっていました。ただ、私たちの都市計画を 学校で習った時代は、長浜の町衆の先輩たちのまちづくりは教科書に載ってましたので、いわゆる開発じゃなくて、自分たちらしい街を作るっていうには、ちょっと独特の、別格的な憧れがありました。
実際出張で長浜に出入りしてみると、その方たちのパワーは、めちゃくちゃすごかったですね。企画力もあるし、自立精神があるので、 コンサルなんか何者だ。と、もう逃げ出したくなるくらい強烈な先輩たちにどう俺たちの役に立つんだと言われながら、一生懸命仕事をしました。同時に、やっぱり3年。5年って仕事をするほどに、だんだんと 私は、そういう意味では、高度成長期に生まれて、学生時代も消費文化にひたひたに浸りながら暮らしてきたわけですけど、20代後半、30が近づくぐらいに価値観も変わってきて物質的な豊かさじゃなくて近代が捨ててきたもの、 爺さんちの田んぼの近くのカエルが鳴いていた初夏の風景とか、ああいうものが思えば遠くなったみたいに考えていた頃に、 2011年に3.11が起こって、関東はひっくり返りました。あれで、
東京一極集中じゃなくて、東北ってこんなに寂しかったっけ。みたいなのがあって、とてもインパクトが強かった。

近代の都市計画ではなかなか実用性一辺等で顧みることのできなかった文化とか、ローカルの魅力というものが際立っていくような都市計画をこれからの時代は絶対やらなきゃいけないんじゃないかなと思った時に、長浜と思ったんですよ。

まちづくりも面白かったんですけど、先ほどの冒頭の現象を
観光のための観光が進んでいって、
結果的に地元の人たちがそこにそっぽ向いちゃっているという状況でした。

長浜の町、中心市街地は、長浜の皆さんにとっては関係のない観光のための町になっている。しかし、一歩外に踏み出すと、 綺麗な田園風景があって、里山があって、水環境があり琵琶湖。伊吹山に降った雨雪が琵琶湖まで注ぐ間に、 生産があったり、発酵の食文化があったり、観音信仰があったりっていう、
この風景がちゃんと残っているっていうことと、
この写っている農家は同世代ですけど、田んぼの風景は自分の中では兼業農家のおじ、おばがコンバインでやってるという、効率よく刈っていくっていうのがありましたけど、 同世代の都会の暮らしを経験した仲間たちがUターンして農業をするっていうときに、在来種とか 減農薬、無農薬栽培とか、当たり前じゃない農業に挑む農業に、10%日陰に売り込むのではなくて、

自分のお米の美味しさっていう価値発信を改めてやり始める。

あるいは、造り酒屋の友人が農家たちのお米を使って、兵庫県産の山田錦を削りに削って甘い大吟醸を作るんじゃなくて、 仲間たちが手塩にかけて作ったお米をなるべく削らずに土地の味がする純米酒で勝負をかけるとか、

湖魚を使った発酵料理を学びながら、自分のレストランをする料理人がその地酒とのマリアージュを考えるとか、 そういう人たちが、新しいお店を建てるっていう、自分の店を出すっていう時に、グラフィックデザイナー、ウェブデザイナー、建築家の仲間たちが、彼らが挑む世界観は、どういうデザインだったら人に伝わるかっていうことに挑む。

一次産業から三次産業まで、それぞれの分野を担う同世代の方たちが、実はその頃長浜に結構いらっしゃって。それぞれに小規模ながら当たり前じゃない価値づくりに挑んでいることがだんだん分かってきたんですね。

湖北のくらし案内所どんどん

彼らが挑戦しているような生活の気配を、長浜の町は中身が古くなっただけで、先輩たちがやってきた都市空間を生き返らせるっていうことは間違いのないことでしょうから、 あの街を歩くことによってそれを感じるようなことができたら、何度でもこの街は生き返るんじゃないかなって思い

私はそういうことをやりたいと長浜まちづくり会社に入れてもらった。
やり始めたのが、湖北のくらし案内所どんどん。

空洞化。そして高齢化ちょっと観光エリアからは 離れて、お金がなくて、高い家賃払えないっていうところがあったんですけども、湖北の暮らしをテーマに、仲間たちが集える場所、情報発信、ポップアップのイベント、webコンテンツの発信、そういったものをしながら、
とてもとても、難しいことでしたけれども、何年も一生懸命やってるうちに、だんだんといろんな方々との繋がりができていったところです。

我々、株式会社で会社から給料取って生活させてもらってるんですけど、 こうしたいっていう気持ちはわかるけど、それがどう売り上げになってますかってところは、常々自分たちにも言い聞かせますけど、レンタルスペースの運営、イベントの企画、開催とかっていうことは、自分1人の給料にもならない、足しにはなるくらいです。

だけど、賛同する仲間は確実に増えている。
世の中はそういう方向に向かっているのはわかる。
しかし、それを会社運営であったり、まちづくりに役立てていったらいいかっていうことを非常に悩むわけです。

それでも長浜はまだ観光市場が 今日もなお生きていて、たくさんのお客さんが来られています。もうダメになるだろうなとは思っていても、日々そこに売り上げは発生するので、 多くの人たちへの求心力はそっちの方が完全にあるわけです。
我々がやってるのは、取るに足らない正論じゃないかっていう悩みはずっとありました。今もなくはないです。
なんか仲間がおるらしいけど、お前ら何やっとるんや。何やっとるか全然わからへんぞっていうことを、商店街の人たちからも、社内、私以外の取締役はみんな非常勤ですので、他の役員たちからも、日々そういう風に言われるというのがありました。
悔しいですよね。

コロナ禍の中


もっとこれを拡大して、この方向を前に進めていこうと考えてる頃に、コロナが始まって一瞬みんな立ち止まりましたけど、

我々以上に、
従来の観光市場が立ち止まりました。長浜の町に来ていた1番分厚い層は、 シニア世代が団体旅行、バスで来るっていうのが年間200万人のマーケットでした。
コロナでまさに動かなくなったのがその方たちです。だから街中が止まってしまって、みんな大騒ぎなったんですけど、

意外と私たちがやっていたことは、そういう風景からはきり切り離されていて、あんまり影響を受けなかったんです。
むしろみんな当たり前にできていたことができなくなっちゃった時に、あんまり足止めをされてない。
我々、アイデアとかエネルギーが集まる場所の運営をしてきたまちづくり会社周辺には、 相変わらずピンチになればなるほどいろんなアイデアが集まってきたりとか、例えば、テイクアウトができる飲食店のポータルサイトをつくるとか、いろんな相談にスピーディに答えられるようなことが
いつの間にかできていたんです。どっちかっていうと、効率優先でずっと走ってきたけど、 お前たち一体何を考えてるんやっていうのが、今まで以上に見てもらえるようになったっていう、コロナ禍の中で実感がありました。いろんな人たちの 悩んだことに答えられる。

お前らはいつの間にそういう能力をつけたんだ。っていうと、実はそれは普段から新しい、変わらなきゃいけないっていう問題意識と、 アイデアとか人が集まる場の運営をしているっていうことが財産なんですよっていうこと。

なるほどなっていうことで、この頃になってみんなが気づいて、 じゃあ、どんどんって路地裏のちっちゃな場所で十分なのかっていう時に、実はそうじゃないですよねと。お世辞にも十分ではない。であれば、
駅の近くに会社創業したのは、ちょっとそこもて余してましたので、 もっと駅の近くに地元のバイオ大学生とか、リモートワークをする、サラリーマンたちも増えてましたので、 そういうた人たちが集まれる、どんどん以上にメジャーなハブを作ろうっていうことで、ちょうど2年ぐらいたちますけど、今の本社である琵琶湖ピクニックベースっていう、自分たちのオフィスを作りました。


もう1つちょっと特徴的なのは、 まちづくり。長浜市全体のまちづくりのビジョンが、平成21年コンサル時代に策定お手伝いしたものが、 10年以上経って、内閣府からの認定の期限も切れてたんです。切れる頃に、商店街振興組合とか行政とか商工会議所とか、各社が新しいビジョン作ってもらわないと困るっていうことを言い始めたんです。
コロナ前ですけど、 変化の激しい時代にも差しかかってましたので、総合計画みたいなものを作り上げても、作り上げたそばからも世の中が変わってしまっているっていうのが、今も当たり前になってますが。

誰もまちづくりのビジョンって取りまとめることができなかったんですね。ただ、私たちはハブの運営をしていくうちに、鉛筆なめなめして計画をプランニングするっていうよりも、いろんな人たちの付き合いの中からいろんな考えを聞きながら、それを編集することによって、1人1人は10年後長浜の町がどうなるかってわからないんですけど、この人とこの人の考えてる未来を組み合わせると、この辺の未来、長浜の未来が出てくる。

こっちの2人のやつを組み合わせると、こっちのこの辺りの未来像が見える、2つの未来像を組み合わせるとこのエリアの未来像が見えるっていうようなものを 繋ぎ合わせていくと、長浜の町全体がこうなったらいいなっていう10年後ができるよねと。そういうことができるように会社としてなっていったんです。
この未来ビジョン、行政との関係ですけど、メジャーではなかったものも含めて、いろんなものが新たなまちづくりに取り込むっていうことで、いい 道になってるかなと思います。

まちづくり会社って日本中にあるんです。福知山まちづくり株式会社とか、まちづくり富山とか、いろいろあるんです。我々は 少ない人数ですが、一生懸命やる中で、なんかこの手垢のついた街づくりっていう言葉が非常に重荷だった時期もあるんです。
なんでかって言うと、まちづくりっていうと、いろんな人に可愛がられる
手伝ってもらって当たり前って考えている方たちもいるし、公益性ですよね、そういったものを前提とされている。しかし株式会社なんで、収益上げて自立していかないと運営できない。
なおかつどこにでもできることじゃなくて、長浜だからできることをやっぱやりたいじゃないですか、 という中で、この名前から逃げたい時期もあったんですけど、今は結構これが腹にはまってて、 公益性と収益性のバランス保つっていうことと、なおかつ長浜でしかできない、自分たちでしかできないことやろうぜっていうことで、社員6人とアルバイト2名、 インターンの学生数名ですが、そういうメンバーでやっています。
実用性、実用性、実用性一辺等の社会なので、文化、そういったものに重きを置く我々、 すぐに観光協会とか行政とか経済社会に長浜を売り込むことばかり考えるんですけど、 我々、やっぱり何を売り込むか、売り込むというよりも、

長浜らしく凛々しく立ちたいっていうことを、先に考えないとおかしくなるぞって考えています。

支配されることを嫌って、まさに自立した早々のモデルですよね。脱線しますが、 旦那衆を筆頭とするような長浜、それを超えて、近江が秘める可能性を、
日本や世界の合理性を追求する社会に対して発信していこうよっていう、近江ARSっていうプロジェクト、編集工学者の松岡正剛さんと大津にある三井寺の福家俊彦さんをツートップにして一緒に取り組んでるいんですが、 今日は、その時のご縁もあって、呼んでいただいたのかなという風に考えています。

3本の柱

長浜らしさと、公益性と収益性を3本の柱で私たちは考えています。

1つは、 「どんどん」でやってきた湖北の暮らしっていうものが、やっぱり綺麗ごとの域を出ないと、それでは求心力がありませんので、うちに対しても、地域の外に対しても、湖北の暮らしってあの長浜 湖北の、琵琶湖のあれやなと、 分かってもらえるようなブランディングを絶対進めていかなきゃいけない。経済的にも、勝てるものを作っていかなきゃいけないと考えてます。
同時に、それではビジネス一辺倒ですから、何のためにまちづくりするの。長浜の町がどういう風に良いの。
守る意味があるのっていう、
地域の内発力を高める探求、体験、学習、 創造の場作りっていう、水辺のまちづくりを進めているということと、
関係人口 の創出であったり、探究、学習機会であったり、並みのことは色々やってるわけですけど
なんと言っても、やっぱり長浜は、
あの町並み、都市空間の中で、私たちが活動するっていうことが、
長浜の町の基本の基だと思っていますので、 その基礎体系を再生するっていう町屋のリノベーション。
1番お金がかかるし、 経済の部分でも回収するのに1番しんどいとこなんですが、ここを確実にやっていくっていうことで取り組んでます。過去やってきたことも、名前の通り、暮らし案内所。
言葉にならなかったローカリティの良さをしっかり言語化する、可視化する、コンテンツ化する、 それから町屋再生バンクっていうことやってきましたが、
我々じっくりと、過去10年間で60軒の再生しているんですけど、全然それでは空洞化のペースに追いつかないんですね。
3倍以上のスピードで空洞化が進んでいる。やり方を変えないとダメなんです。
同様に、町と海をつなげるっていうコンセプトで、先ほどの海辺の町長浜未来ビジョンっていうのを作ったり、町の玄関口に琵琶湖ピクニックベースを作り、こういった一連のプロジェクトのハブ拠点を作る。それから、阪急百貨店と連携した、大阪梅田ですとか渋谷で、都市部におけるこのローカリティのブランディング、
そして
琵琶湖ハウスっていうエリア再生 のプロジェクト、こういったものを今3本柱で進めています。それぞれのプロジェクトの中身をお話しするととても長くなってしまうので、 一旦ここで終わりにしたいと思います。ご清聴ありがとうございました。


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